Creator's Blog,record of the Designer's thinking

フィールドワークの映像、ドローイングとマーケティング手法を用いた小説、エッセイで、撮り、描き、書いてます。

Landscape38. 山陽路・倉敷3

2008年03月06日 | field work
 風景創造という視点からは、期待できない建築家が多い我が国にあって、少数ながら優れた風景を創造してきた建築家が倉敷にいた。浦辺鎮太郎[注1]である。
 建築家浦辺の壮年期にあたる頃、我が国建築界は丹下健三を頂点とするモダニズム様式が興隆を極めていた時期である。だがこの時期に世に知られた彼の作品はみられない。建築家浦辺が華々しい作品を世に送り出すのは、60歳代になってからであり、年齢順で代表作品をみると、大原美術館分館と倉敷国際ホテルが60歳、その後建築界建築学会賞を始めとする多くの賞を得た代表作「倉敷アイビースクエア」は71歳。以後77歳で倉敷市庁舎。また55歳から78歳の間にピースミール的に進めてきた倉敷中央病院がある。
 当時の都市住宅という雑誌で倉敷アイビースクエアの紹介記事をみたとき、私は大変驚いた。倉敷紡績の赤煉瓦工場の外観をそのまま残し、内部に二つの広場と宿泊機能を盛り込んだ手法は、建築再生というコンセプトの先駆けであった。そのデザインも、当時のモダニズム様式が最も軽蔑してきたクラシック様式を大胆に多用しており、当時主流の建築様式とは、あきらかに乖離していた。以後建築家浦辺は、クラシック様式を多用した建築を次々と、倉敷の風景の中に登場させてゆくのである。こうした一連の作品を通じて、伝統に媚びを売ることなく、江戸、近代、現代と時間の流れを感じさせる奥行きのある倉敷の風景を創造してきたのである。
 一般的に考えれば、伝統に対峙したときに、伝統様式を取り入れることは、容易に周囲の風景とも馴染みやすいように素人目には見える。これは二流の建築家や自治体の役人達、或いは一般大衆が好む発想なのだが、実際そのように形成されてきた風景は単調であるばかりか、時間の経過とともに安易な姿勢ばかりが漂い、次第に陳腐化してゆくことを私は経験している。 そんな発想では、長い時間のなかで地に根をはって生き抜いてきた力強い伝統的風景と調和することはできない。伝統的風景の力強さは、まさに長い時間を生き抜いてきた事実そのものなのである。そうした事実が持つ力強さに対して、立ち向かうことができる新しい答えを提案してゆくことが、風景創造であり調和なのである。
 世の多くは大きな勘違いをしているが、調和というのは、周囲に合わせるという安易な姿勢を意味しているのでは断じてないのである。それはむしろ単調と陳腐化にすぎないということを再度申し上げておく。
 

注1.1903-1991年,倉敷市出身,主に作品は以下.
日本工芸館(1960),倉敷レイヨン岡山第二工場 (1960),大原美術館分館 (1961),倉敷国際ホテル (1963),倉敷ユースホステル (1965),倉敷レイヨン中央研究所 (1968),倉敷公民館/旧倉敷文化センター (1969),倉敷市民会館 (1972),倉敷アイビースクエア (1974),倉敷市庁舎 (1980),横浜開港資料館 (1981),日本女子大学成瀬記念館 (1984),神奈川近代文学館 (1984)等
 
 
EOS3,EF F3.5-5.6/28-135mm
エクタクローム,CanoScan.
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