みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#27 基礎教理 by Reformed Theologians

2022年10月17日 | 創世記

Derek Thomas: How Then Should I Live in This World?
https://www.youtube.com/watch?v=6LB5i-uFBpQ&t=1s


訳出時間枠:6分22秒から11分56秒まで

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聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。

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パウロは、行ないによって神の国への切符を得るというパフォーマンス性向に戻ろうとしているのではない。

神のご恩寵を経験した人として、闇から光へと連れ出された人として、イエスキリストにあって信仰のみによって、そして神の恩恵のみによって義とされた人として、パウロは、「こういう理由のゆえに(therefore)」と言っているのです。

さて、パウロはそれを行なうことにおいて、義務に関する動詞を非常に強く意識して使用しています。

もちろん、自己洞察は、あらゆる種類の宗教的困難をもたらします。

ロバート・マーレイ・マケインの次のようなことばを明らかにしました。

「自分自身をあらゆる角度から見るために、イエスキリストを100回見なさい。」

いつでも自分を調査すること、自分の内面を覗き見ること、そして、自分が告白する信仰を高めることができるように、御霊の実が発現されているかどうかをテストすべきであります。

そのために、自分をあらゆる角度から眺めつつ、主であるイエスを100回見るべきです。

さて、今から見ていきたいことが4つあります。

よく知られた聖句、ローマ書12章1節と2節を見ていきましょう。

4つのこととは、福音における神の恩恵に対する私たちの反応を明瞭化することです。

第1に、倫理的な帰結、「では一体、どのようにこの世を生きるべきか」ということ。

考えてほしい第1に、倫理的帰結とはいけにえを必要とするということであります。

パウロが理解して欲しいと思っている1番目の原則は、いけにえを要求するということ、「生きたいけにえとして、あなたがたの体を差し出しなさい。」

現代のキリスト教会では稀有なことばではないでしょうか。

ほとんど廃れてしまったことばです。

福音のためにいけにえとなるように言われています。

イエスキリストのためにいけにえとなるように言われています。

イエスは何と言いましたか。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい(マルコ8:34)。」

十字架とは、首に下げるためのプラチナや金、銀でできた宝石ではありません。 

見て美しいものではないのです。

そんな風に考えるのはおかしいとは思いませんか。

十字架とは、薬液の入った注射器や小さな電気いすを持ち運んでいるようなものです。

あるいは、小さなプラチナ製のガス室のようなものです。

では一体、十字架とは何ですか。

それは死刑執行のための個人的な道具なのです。

イエスは言います、「あなたの首に宝石をぶら下げよと言っているのではない。毎朝温めてくれるお守りのようなものではない。十字架は、怪我や試練、艱難からあなたを守ってくれるクリスチャン用のラビットフット(お守り)ではない。」

イエスが言っていることは、「わたしのところに来たいのなら、来るなり死んでほしいのだ。自分に死になさい。あなたの野心に死になさい。あなたの夢に死になさい。あなたの願望に死になさい。私の思いではなく、なされるべきはあなた自身である。」

自書「キリストの模倣」の中で、トーマス・ア・ケンピスは次のように書き記している。

有名なことばだ。

「十字架を背負うあなたを、十字架が背負ってくれるであろう。」

もしもあなたが十字架を背負うのであれば、十字架があなたを背負ってくれるであろう。

さてここで理解してほしいことは、パウロは私たちにいけにえを捧げなさい(犠牲を払いなさい)と言っているのではなりません。

それは的外れです。

「そういうわけですから、兄弟たち。神のご恩寵により、あなたがたにお願いします。あなたがたの体を、神に受け入れられる、聖なる、生きたいけにえとして差し出しなさい。」

パウロはあなたがたに犠牲を払いなさいと言っているのではありません。

あなたがたがいけにえになるように懇願しているのです。