Derek Thomas: How Then Should I Live in This World?
https://www.youtube.com/watch?v=6LB5i-uFBpQ&t=1s
訳出時間枠:16分35秒から22分23秒まで
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聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。
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パウロはここで、神秘的な心の問題を扱っているのではありません。
その前にもローマ書6章において、パウロは道具としての体について教えています。
私たちの体は、義の道具にも不義の道具にもなり得るということ。
パウロは言います、「あなたがたの体を義の道具として用いて欲しい。」
私の手、私の足、私の眼、私の体、私の体全部を用いて下さい。
私は、あなたについてのすべてが欲しい。
あなたの小さな部分ではなく、あなたの小さな区切りでもない。
「イエス様にはこの部分、私にはこの部分」というかもしれない。
いや、違う、その体全部だ。
心だけではない、知性だけではない、心も思いも体も全部。
その全体の中で、体は聖霊の宮であります。
全的堕落について言うことはあるが、全的聖化という意味合いにおいても語る必要があります。
私たちが再生され、聖霊が内住すると、信仰のみによって、イエスキリストのみによって、義とされます。
いまや、イエスキリストに属することになり、私たちに関するすべては閉ざされ、貯えられ、詰められます。
第1コリント6章において、パウロは最も明瞭に述べています。
コリント人に対し、パウロは不貞や売春について語ります。
コリント教会において一体何が起きているのか想像してみて頂きたい。
婚姻に関する性的乱用がコリント教会で行われているのです。
パウロはコリント人に言います、「売春婦のところに行く時、玄関先でイエスを確認することも、また出かける途中で車に乗せることもできません。」
あなたが売春婦と一つになる時、あなたは主イエスを売春婦と合体させているのです。
それが罪というものです。
それが罪の醜悪性です。
倫理的帰結はいけにえ、すなわち個人全体を要求するのです。
第3に、倫理的帰結は礼拝行為であります。
みことばを見てみましょう。
「あなたがたの体を、神に受け入れられる、聖なる、生きたいけにえとして献げなさい。それこそ、あなたがたの霊的(あるいは、道理にかなった)礼拝です。
ESV訳がなぜ霊的礼拝と翻訳しているのか私には分かりません。
原語は「理にかなった、合理的な」です。
「合理的な」という意味が「霊的な」という意味になるのかよく分かりません。
正しい訳は、「合理的な礼拝」あるいは「合理的な礼拝行為」です。
(霊的云々ではなく)奉仕としての礼拝について話しているのです。
奉仕は8時半とか9時に始まり、奉仕ということばや礼拝ということばを交互に使います。
あなたがイエスに属している時、あなたが神のご恩寵を経験した時、あなたが神を礼拝し、礼拝行為として自分自身を神に差し出すということは理にかなったことであると、パウロは語っているのであります。
神の御前でひれ伏し、「私の命を取り、それをあなたのために聖別して下さい、主よ」と言うのです。
私は自身を主にお返しします。
読むたびに息が詰まってしまう旧約聖書の一節があります。
ハンナは祈りの人でした(第1サムエル1章)。
エリは年老いており、分別がなかった。
すでに老いぼれていたために、エリの視力はかなり落ちていたが、ハンナの唇が動くを見ていた。
しかし、ハンナが何も言わないので、彼女が酒に酔っているのだと責め立てた。
エルカナにはもうひとり妻がいて、彼女は毎年こどもを生んだ。
ハンナは子が欲しかった。