Derek Thomas: How Then Should I Live in This World?
https://www.youtube.com/watch?v=6LB5i-uFBpQ&t=1s
訳出時間枠:22分23秒から27分37秒まで
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聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。
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ここにおられるあなたがたの中にも、重荷を負い、試練に会い、十字架を背負い、子に恵まれない人生へと導かれた人がいるのではないでしょうか。
また、奇妙で特異的な苦痛と伴いつつ、ハンナの祈りを共有している人もいるはずです。
そのような人はハンナの祈りが良く分かるのではないでしょうか。
しかし、彼女が言ったことば「主よ。私に子を与えて下さい。そうすればその子をあなたにお返しします」とは、一体どういう意味なのでしょうか。
正確にハンナのいったことばはそうであり、パウロの言っていることと類似性があります。
それが福音の結論なのです。
それが改革派信仰の結論であります。
それが改革派救済論の結論。
礼拝において私たちが自分自身を捧げるのは、神のご恩寵に対する帰結なのです。
それが合理的な礼拝です。
道理に適った礼拝。
「イエスキリストが神であり、私のために死んでくださったのであれば、私が主のためにすることは大したことではない。」
ハドソン・テイラーのことば。
ジム・エリオットのことば、「彼は失うことのできないものを得るために、自分が保てないものを与える愚か者ではありません。」
倫理的帰結は礼拝、その人まるごとの礼拝であります。
心と体、魂と愛情、意志、そしてキリストにあって新たにされた人間性を構築するすべてが礼拝行為として奉げられるのです。
ここでいうところの礼拝とは、生活すべてにおける極めて広い範囲という意味での礼拝です。
この聖句における礼拝とは、集会礼拝や日曜礼拝、聖餐式に伴う礼拝などすべての礼拝を含んでいます。
意味が広くて、一般的な意味を持つ聖句なのです。
パウロは特別な目的のために集う礼拝のことを言っているのでありません。
彼が言っているのは、全生涯について、つまり人生全体に渡る礼拝行為を言っているのです。
第4に、倫理的帰結はいけにえを必要とするということを見ていきたいと思います。
そして、それは個人全体を必要とします。
それには礼拝も含まれます。
それはカウンターカルチャー、反体制文化であります。
「この世に同化してはならない。神の御心とは何か、何が良いことか、何が受け入れられることか、そして何が完全なことかを見分けることができるように調べることによって、そしてあなたがたの思いを新たにすることによって変えて頂きなさい。」
この世とその世界観に同化してはならない。
私は1960年代に育ちました。
私自身のことについて少し説明しておきましょう。
50年代の幼少の頃を、そして60年代に10代を過ごしました。
当時は漠然と何かをしていました。
私の姉はビートルズやローリングストーンズを聴いていました。
一方、私はベートーヴェンやブラームスを聴いていました。
それが私でした。そうです、今でもそれが私です。
ロックバンドのキンクスのことはおぼろげながら覚えています。
身を捧げるほどの流行追っかけ屋でした。
キンクスのことを覚えている人はどれくらいいますか。
それほど多くはないようですね。
あなたのズボンにターニップが付いてなければ、ネクタイもないはずです。
どれだけ多くの人がネクタイを買ったでしょうか。
その後しばらくすると、買ったネクタイを付けなくなりました。
一体何が私にそのネクタイを買わせたのでしょうか。