みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#21 基礎教理 by Reformed Theologians

2022年10月08日 | 基礎教理

What Is Faith?: Basic Training with R.C. Sproul
https://www.youtube.com/watch?v=xuXO82T7Kpo&t=1s

*youtube動画をリンクして再度警告を食らいました。リンクせずに下にURLを貼り付けておきます。


訳出時間枠:7分24秒から10分34秒まで

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聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。

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つまり、どのようにして私たちは認識や知恵を理解するのかということであります。

教育の全過程は2つの側面を含んでいます。

ひとつは知性。

ある種の純理性に従って、知性は働きます。

論理の進行に応じて、私たちは考えようとします。

必ずしもうまくいくとは限りません。

正しくない判断をしたり、出した結論が正しくないこともあります。

推論が間違っていることもあります。

知性は合理性に基づいて機能し、私たちの認識に対して、筋の通った知的・論理的パターンに沿って命令を発します。

知性の中にあって、排他的に存在している真の認識を探ろうと努力している人たちがいます。

単純なことばで、彼らのことを思考学派とでも呼びましょうか。

そうです、彼ら合理主義者は、真理の本源、つまり真理と認識のための源として、知性に重点を置いています。

脳の思考過程に加えて、知性が考え、命令し、推論するための数多くの情報を私たちは得ています。

その情報をどのように得るのか。

眼によって私たちが見るものから、耳によって私たちが聴くものから、指先によって私たちが感じるものから、すなわち5感から私たちは情報を得ています。

知覚と呼ばれる感覚を通して、外界と接触します。

感覚知覚は、聴覚や視覚、味覚、触覚を処理する必要があります。

さて、認識のための基本として、感覚知覚を強調する人たちがいます。

経験主義者と呼ばれる人たちであります。

現代文明において、私たちは驚異的な大変革を経験してきました。

認識論における大変革の結果として文明にもたらされた変革は、理性と感覚知覚という2つの脳内活動の合算である合成を生み出しました。

これは、通常、科学的方法と呼ばれているものであり、両者の結論を用いる方法であります。

事実を集めて、証拠を集めて、顕微鏡をのぞき込み、望遠鏡をのぞき込み、ありとあらゆる可能な限りのデータを収集する。

そしてて、ラボからそれらのデータを入手して、単純化する。

それからどうするか。

それをコンピュータに打ち込む。

合理的で筋の通った観念へとまとめ上げていく。

コンピュータが実際に行なうのは、演繹によって結論を得ようとする作業。

それは合理的な過程であります。

科学的方法というのは、これら2つのものを結合させることです。

さて、問題は、信仰はこのような過程と調和するのかということであります。