みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#22 基礎教理 by Reformed Theologians

2022年10月10日 | 基礎教理

What Is Faith?: Basic Training with R.C. Sproul
https://www.youtube.com/watch?v=xuXO82T7Kpo&t=1s


訳出時間枠:10分34秒から16分20秒まで

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聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。

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つい最近、ある小説を読みました。

その小説の中で、著者は牧師と科学者との間で行われた会話を語っていました。

会話の最後に、小説家はコメントを残しました。

牧師は自身の信仰を語り、科学者は自身の理性を語った。

ここに、理性、あるいは感覚知覚や科学に対立する信仰の典型例を見ることができます。

信仰とは非理性的である、ないしはアンチ感覚知覚であると吹聴して回るクリスチャンも多い。

ということは、理性もなく、感覚知覚もない状態で活動しなければならない。

さて、私たちがやろうとすることのひとつは、いつも叩き続けるドラムのようなもので、「聖書にそのことを見つけることができない」という一言。

私は、アンチ理性ないしはアンチ感覚知覚としての聖書的信仰を見ようとは思わない。

今から、このことを図式にして、ひとつの典型例を示そうと思う。

こんな風になろうかと思う。

これが認識の基本です。

ここには、理性、つまり知性と思考、そして感覚知覚が含まれます。

信仰はこの基本の上にありますが、信仰によって、あなたはこれらふたつの次元の限界を超えることができます。

これから、とても奇妙に思うことをお話しします。

あなたがたクリスチャンには、異なる宗教のように聞こえるかもしれません。

私たちは極めてアンチ知性的な時代に生きているので、これらふたつの次元とは完全に分離して信仰を理解しようと思います。

数世紀前に聖オーガスチンが言ったように、「ある知識が知性にとって知的でないとすれば、如何にして神からその知識を得ることができるだろうか。」

「主」という概念の意味を知らなくても、「である」という動詞の意味を知らなくても、「イエス」という名前が何に関係するのかということを知らなくても、「イエスは主である」と言うことができるのかということ。

言い換えると、知性において最初に福音を聞くことなしに、(耳において)福音を聞くことは到底できないのです。

ある程度、(知性において)福音を理解しているのです。

キリスト教とは信仰であると同時に、あるいは、私たちが理解できるような学びや教理を含んでいる本を基本とする宗教なのです。

理性を跳び越えて信仰を理解するなら、聖書は意味を成さない。

単に書かれたドキュメントとして聖書を理解しようとしても意味がない。

他方、イエスの聖書記録において、感覚知覚は意味があるのだろうか。

確かに、ルカが言っているように、私たちはそれらの事実を証言する目撃者です。

ペテロは次のように言っています。

賢くも工夫された作り話や神話を、あなたがたに宣言しているのではない。

私たちの目て見たもの、私たちの耳で聞いたことをあなたがたに宣言するのです。

しかし、信仰をもつために、知性を十字架に付けたり、理性を捨て去ったり、目を閉じたり、少女アリスのように深呼吸をしたり、科学的になることをやめたり、神が与えて下さった感覚器官を使うのを止めたりするのは何故なのか。

このようなことをすることを盲目的信仰、あるいは、一足飛びの信仰と言います。

盲目的信仰とは何でしょうか。

目を閉じてしまう信仰。

何も見ることができない信仰であります。

つまり、感覚を否定する信仰。

一足飛びの信仰とは、現代社会において美化されてきました。

それは、不合理(非理性)へと飛び込むことが美徳であるとする信仰であります。

不合理になればなるほど、信仰においてあなたはより堂々としていられるというもの。

しかし、暗やみへと飛び込んでいくように命じている聖句は聖書のどこにも存在しません。

逆に、聖書は暗やみから出て、光へと来るように命じています。

しかし、何故クリスチャンはそのように考えようとするのでしょうか。

それとは反対に、すべての現実が認識可能であり、理性のみで割り切れるというならば一体どうなるでしょうか。

剥き出しの道具として働く理性のみが、キリスト教信仰上の数々の真理をあなたに与えてくれるでしょうか。

デカルトの鉄の鍋の中へともぐりこんで、キリストの十字架を推論できるでしょうか。

不可能。

従って、純理性はあなたをキリスト教信仰へと導くことはないのです。