みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#23 基礎教理 by Reformed Theologians

2022年10月11日 | 基礎教理

What Is Faith?: Basic Training with R.C. Sproul
https://www.youtube.com/watch?v=xuXO82T7Kpo&t=1s


訳出時間枠:16分19秒から19分36秒まで

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聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。

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感覚知覚のみはどうだろうか。

新約聖書には何と書いていますか。

ある個所(ヘブル11:1)で、信仰を次のように定義しています。

「さて、信仰とは望んでいることの実体である」と書かれています。

そして、「目には見えないことの確証である」と。

まさにこの聖句が、ひとつの指標として使われてきました。

分かりますか。信仰はあなたが見ているものに対立するのです。

私たちは信仰によって歩むのであり、見ることによってではない(第2コリント5:7)と言います。

この聖句は、「信仰は見ることを否定している」ということでしょうか。

違う。

行こうと思っている領域、かつ見えない領域の中を歩いたことはありますか。

誰も見たことがないことを神が私たちに強要したことがあるだろうか。

誰も見たことがないことを信じるように神は私たちに命じたことがあるだろうか。

ここにいる誰かに聞きますが、目に見える形で神を見たことがありますか。

神の御業を見たことはある。

神の栄光を宣言する天を見たこともあるでしょう。

カルヴァンが言っているように、自然の啓示という壮大なシアターを、あなたがたは見たのであり、そしてその中を歩いてきたのです。

しかし、神ご自身を見たことのある人はいるだろうか。

神を見て、かつ生きる人はいません。

故に、至福のビジョン(Visio Dei)と呼ばれるものを経験する時、私たちは最後に願うのであります。

実際に神を見るであろう時を期待をし望むのです。

しかしながら、この世において神を見ることはありません。

神は目には見えないからであります。

しかし、私たちクリスチャンは、神はそこにおられると信じています。

さて、神は目に見えないというだけでなく、いや、神のはそこにいると信じていますが、神は私たちに他の事、私たちが見たことがないということを告げます。

別れて天にいる愛する人々を私たちは見たことがありません。

神は「彼らはそこにいる」と告げてくれますか。

神は「天国が存在する」と告げてくれますか。

まだ見たことがないが、信じるために召し出されていると神が告げるありとあらゆることがあるのです。

さて、信仰とは見たことがないことの確証ですが、なぜ私たちは見たことがないことを信じるのでしょうか。

認識において私たちが取り扱う別のカテゴリーが、啓示という領域であります。

啓示。

他の宗教は何であれ、キリスト教は啓示の宗教です。

自然を通して神はご自身を啓示しているのみならず、フランシス・シェーファ―が言っているように、単に私たちはそこにおられる神を信じているのではなくて、語られている神を信じているのであります。

信仰とは目に見えないことの確証であると言う時、ここで言っていることは、神が言っていること(神のことば)を信じるということであります。

単に神の存在を信じるだけでなく、聖書信仰とは神のことばを信じるということなのです。