What Is Faith?: Basic Training with R.C. Sproul
https://www.youtube.com/watch?v=xuXO82T7Kpo&t=1s
訳出時間枠:19分36秒から23分13秒まで
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聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。
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了解しました、神よ。
私がまだ見たことがないものがあります。
あなたが語っている実際がそこにあり、私はそれを信仰によって受け入れます。
それは不合理な信仰ではない。
それは非科学的な信仰でもない。
あなたがそこにおられると私が信じることは極めて合理的であるあらゆる理由があるのです。
あなたが存在しないとすれば、私たちが宇宙を所有することはできません。
あなたは時空の中へと割って入り込みました。
全歴史におけるあなたの御業の全記録を、あなたは私たちに与えて下さいました。
イエスキリストは肉において来られた。
彼は目で見ることができた。
歴史の断面において、彼は死者からよみがえりました。
理性と感覚知覚という基礎の上にある証言を私たちは信じているのです。
科学研究所で決して実証できないことをあなたは私たちに語って下さいます。
真理の受肉としてご自身を立証されるお方を信じることは不合理でしょうか。
私はそうは思いません。
しかし、彼が言ったことによって、私たちはキリストを信じるのです。
信仰と真に対立するものは、聖書的には理性と感覚ではなく、軽信(cledulity)と迷信(superstition)であります。
これらは同じコインの表と裏に相当します。
全く根拠がなく、信じるに足るだけの理由もない何かを信じることを軽信と呼びます。
神のことばとは無関係であり、魔法のような何かを信じることを迷信と呼びます。
偶像に満ちたアテネの町にやって来た時のパウロの非難を覚えているでしょう。
古代世界における文化の中心で、このようなもの中で暮らしているとは何事かとパウロは言います。
今日、迷信はどこに存在すると思いますか。
ハイチ、ブードゥー教などと答えますが、迷信はあらゆる所にある私は言います。
キリスト教教会にもあります。
私たちの宗教の中に容易に忍び込んできます。
そんなわけで、神のことばによって、絶えずこの宗教を研磨していく必要があるのです。
まだ2分ありますので、16世紀の宗教改革から登場した信仰の極めて重要な原則を覚えておいて欲しいと思います。
16世紀に成し遂げられた信仰の全概念において、多くのエネルギーが費やされ、多くの考え方が踏襲された教会史に、いまだ一刻の猶予があるとは思いません。
何故。
宗教改革の中心的課題とは何だったのか。
信仰のみによる義であります。
それは数多くの疑問を投げ掛けました。
フロアから「どのような信仰が人を義をするのか」という率直な疑問が起こりました。
そのことを分析するために、改革派はある提案をしました。
彼らが改革派の伝統の中にいるのか、あるいはいかなる伝統の中にいるにせよ、クリスチャンにとってそれは価値あるものと私は考えます。
そのことを理解するために、信仰に関する概念全体とギリシャ語pisteuo(信じる)による新約聖書の信仰に関する概念を理解する必要があります。