みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

The Second Step: “Even So Reckon...”, #4

2015年04月20日 | 聖書研究・信仰
啓示により、我々は自発的に正確な理解へと向かおうとする。

ある命令が与えられているという事実を失念してはいけない。

神は命じる。

吟味せよ。

「私は死んだ」という事実をしっかりと計算し、書き記せ。

そして、そこに留まれ。

主が十字架に付けられた時、私は主の中にいた。

故に、私は死んだということが真実であることを私は完璧に理解できる。

主にあって死んだと正確に判断して、そのように宣言する。

ローマ6:11
それぞれ吟味せよ。
罪に死んだということを
神に生きていることを

これが何故可能なのか。

「キリストイエスにあって」可能なのだ。

ローマ6:11は「キリストにあって」という下でのみ常に真理となる。

自分を見ていると死んでいるなんて思えないかもしれない。

自分にあってではなく、主にあってどうなのかということだ。

主と向き合い、主がなしたことを知る。

主よ、信じます。

主にあって、この事実を十二分に吟味し判断しました。

主の中に留まれ。

決してそこから離れるな。







The Second Step: “Even So Reckon...”, #3

2015年04月19日 | 聖書研究・信仰
Reckoning(徹底的にかつ完璧に理解する)とは、「信じる」ことではない。

今ポケットにたった12シリングしかない。家計簿には15シリングと記入して、会計上は、なんとか穴を埋めておくことを希望する。12シリングしかないのに、自分に言い聞かせて、会計しようとする。「15シリングある。15シリング持ってる。15シリングあるじゃないか」と。こんなオツムの努力をして、ポケットの中にあるお金の額が変わるとでも思うだろうか。いくら正確に計算しても、12シリングが15シリングにかわるはずもない。真実でないことが真実にはならない。しかし、もしポケットに15シリング持っているなら、大いに安息し確信して、家計簿に15シリングと記入することができる。神は、我々に「我々は死んでいる」ということを正確に理解するよう命じておられる。吟味の過程で「死んでいる」ことを知るのではなく、「死んでいる」が故に事実確認できるのだ。



The Second Step: “Even So Reckon...”, #2

2015年04月19日 | 聖書研究・信仰
何故、神は我々が死んでいることを徹底的に(かつ完璧に)理解するよう求めているのか。

会計計算の類似性という点から見てみたい。ポケットに15シリングあるとしよう。家計簿に何と書いたらいいだろうか。14シリング6ペニーとか15シリング5ペニーとか書けるだろうか。家計簿には自分のポケットにある分しか書いてはいけない。会計計算とは事実をreckon(算術計算のように正確に記載)することだ。空想ではない。私は死んでいるが故に、神はそのように「勘定する」よう私に命じておられる。真実でもないことを家計簿に書くことを神が良しとするはずがない。生きているのにもかかわらす、死んでいるということを調べるよう強要するはずもない。そんなオツムの体操のために、この単語を使うのは不適切である。



The Second Step: “Even So Reckon...”, #1

2015年04月19日 | 聖書研究・信仰
‘reckoning(吟味)’とは、元来どういう意味を表すのか。

ギリシャ語の‘reckoning’とは、勘定簿記のことを言う。

会計計算というのは、我々人類が誤りなく行うことができる唯一の事柄だ。

美術家は風景を写生するが、その風景をパーフェクトに再現することは不可能だ。

歴史家も資料の絶対的正確性を担保することは不可能。

地図の製作も、完璧な正確性をもって地図を作成することはできない。

ある出来事を的確に話そうとしても、完璧な正確さをもって伝えることはできない。

大げさになるか、言い足りないか、言葉数が足りないか、多すぎるか、になる。

人が本当に信頼できるものとは何か。

それは算術だ。

算術には誤りの余地がない。

椅子1個足す椅子1個は椅子2個。

これは東京でも千葉でも同一の真理だ。

横浜から長野、奈良から名古屋にかけての一帯、どの地域でも同じ真理だ。

世界中どこでも、またいつの時代でも、1足す1は2.

天国でも、地上でも、地獄でも、1足す1は2。

以上のように、reckoningの原義は算術のような正確性という意味だ。





The Path of Progress: Reckoning, #8

2015年04月17日 | 聖書研究・信仰
聖書を徹底的に理解するための秘訣は何か。

ひとことで言うと、それは啓示だ。

我々キリスト者は神ご自身からの啓示が必須だ。

マタイ16:17b
血肉ではなく
天におられる私の父が言われた

エペソ1:17
我々の主イエスキリストの神
栄光の父が
我々に与えますように
神の知識の中にある知恵と啓示の霊を

我々は、主とひとつであるという事実に対して眼が開かれる必要がある。

それは、もちろんキリスト教教理として知ることではない。

そのような啓示は、あいまいな形で与えられることはない。

我々は皆、キリストが我々のために死んだということを自分の目で見て知ったはずだ。

キリストとともに死んだことを見て知った時のことも同様。

鮮明に啓示を与えられたはずだ。

我々が通過すべき基本中の基本だ。

私が死んでいるのかどうかや死ぬであろうことを吟味してもしようがない。

私は、今この時、神がキリストにある私に為して下さった御業を見たのだ。

故に、私は、自分が死んでいることを吟味できる。

以上が、reckoning(吟味すること)という正確な意味だ。

「死ぬであろう」に向かって吟味するのではなく、「死んだ」事実(を知ったこと)から吟味が始まるのだ。






The Path of Progress: Reckoning, #7

2015年04月16日 | 聖書研究・信仰
The Path of Progress: Reckoning, #7

私は十字架に付けられた。

それはすでに成し遂げられた。




The Path of Progress: Reckoning, #6

2015年04月16日 | 聖書研究・信仰
私はあの朝のことを忘れない・・・その朝は、本当の朝、決して忘れることのできない朝だった。2階の机の前に座り、聖書を読み、そして「主よ、私の眼を開いてください」と祈った。その時、一筋の光の中で私は「それ」をこの目ではっきりと見た。キリストとひとつになっている自分。私はキリストの中にいる、主が死ぬ時、私も死ぬのを見た。私が死ぬのは過去のことであり、未来のことではないことを知った。主が死んだ時、私も確かに死んだのだ。何故なら主が死んだ時、私は主の中にいたからだ。すべてが氷解し始めた。あまりに大きな発見をしたために、うれしさのあまり我を忘れてしまった。椅子から飛び降り、叫んだ。「賛美します、主よ、確かに私は死んでいる」と。2階から降りて来て、台所で奉仕していた兄弟のひとりの手を握りしめながら言った。
「兄弟、私は死んでいるって知ってる?」
彼は、少し戸惑いながら、「何だい、何が言いたいの?」
私は続けた。
キリストは死んでいるって知ってる?
私は主とともに死んだって知ってる?
私の死が主の死と全く同じ事実だって知ってる?
まさに本物だった。
この大発見を大声で叫びながら、上海の通り沿いを外旋したい思いでいっぱいだった。
その日以来、一瞬たりとも、このみことば(の決定的な霊性)を疑ったことがない。

ローマ6:6
I have been crucified with Christ・・




The Path of Progress: Reckoning, #5

2015年04月16日 | 聖書研究・信仰
ローマ6:6
本当に分かっているのか、このことを
我々の古い人は主とともに十字架に付けられた
罪の体が廃棄されるように
もはや我々が罪に縛られることがないように

ローマ6:11
それぞれ各人で吟味せよ
罪に死んでいることを
イエスキリストにある神に生きていることを

改心の後、1920年から7年もの間、私は聖書を徹底的に吟味した。しかし、「私は罪に死んでいる」かどうかについて調べれば調べるほど、決して死んではいない、いや、生きていることがますます明白となった。自分が死んでいるなんて、全く信じられなかった。自分で死を生み出すこともできなかった。誰かに助けを求める度に、ロマ書6章11節を読むように言われた。しかし、この聖句を読めば読むほど、調べれば調べるほど、「死」は遠ざかって行った。「死」を手に入れることはできなかった。徹底的に理解する必要があるとの認識はもちろんあったが、何故何も湧き出て来ないのか分からなかった。数か月もの間、思い煩ったことを告白せねばならない。「もしこのことがはっきりしないのなら、もしこんな基本的なことも分かり得ないのなら、もう一切のことをやめてしまいたい、もう伝道するのもやめよう、主の奉仕のために御前に出ることもやめよう、何としてもこのことを明らかにしたい」と主に告げた。数か月間私は探し求め、断食をしたが、何も得ることはできなかった。



The Path of Progress: Reckoning, #4

2015年04月14日 | 聖書研究・信仰
死んでいるという真理を知らないまま、その真理についてあれこれ吟味しようとする。

御霊による啓示を受けていないにもかかわらずだ。

ぐるぐる回りをした挙句、手の付けられない状況へと落ちていく。

誘惑に駆られて、狂ったように聖書を調べ上げようとする。

「死んでいる、死んでいる、死んでいる」と、しまいに癇癪を起こすまで没頭する。

「うまくいかないじゃないか。ロマ書6章11節は役に立たない」

確かに、11節は6節なしでは役に立たないと言わざるを得ない。

結局

我々はキリストとともに死んでいるという事実について知らなければ知らないほど、ますますぐるぐる回りをくり返し、さらに狂ったようにもがくことになる。

どうにもならない状況に落ち込んでいく。



The Path of Progress: Reckoning, #3b

2015年04月13日 | 聖書研究・信仰
キリストとひとつであるという真理を語る時に、最初に強調すべきことは何か。

我々はすでに死んでいるということを知ること、これが第1に強調されるべきだ。

そして、我々はすでに死んでいるという事実を理解するために、周到に吟味するだろう。

「このことを知って・・・吟味せよ」と聖書に書いてある通りだ。

この順番が重要なのだ。

神により啓示された事実を吟味するには、その事実を知っていることが前提となる。

そうでなければ、信仰は頼るべき土台を失ってしまう。

我々はすでに死んでいるという事実を知る時、その事実を詳しく理解しようと努力するだろう。

それが自然な流れだ。