みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

Temptation And Failure, The Challenge To Faith, #11

2015年04月27日 | 聖書研究・信仰
ここで取り扱っているのは、事実であって、約束ではない。

神の約束は、内におられる主の御霊によって、我々に啓示される。

一方、事実は事実であって、我々が信じようと信じまいと依然として事実のままだ。

たとえ我々が主の十字架という事実を信じなくても、それらの事実は永遠に現実のままだが、我々未信者にとって全く価値がない。

これらの事実を自身において現実化するために信仰は要らない。

しかし、信仰はそれらの事実を実体化し、我々の経験においてそれらを現実化する。


Temptation And Failure, The Challenge To Faith, #10

2015年04月27日 | 聖書研究・信仰
もし私が盲目ならば、色を識別できない。

もし聴力がないなら、音楽を聴くことができない。

しかし、音楽も色の確かに実在する。

それらの実在は、私がそれらを味わうことができるかどうかによって影響されない。

さて、我々は、見えないが永遠かつ実在する事がらについて思いを馳せている。

もちろん、我々は、既存の生理的5感によって神の事がらを実体化することはできない。

しかし、「望んでいる事がら」を実体化できる能力は存在する。

「望んでいる事がら」とはキリストに関する事がらであり、それが信仰だ。

信仰は、実在する事がらを「私の経験において」具現化・現出させる。

信仰は、キリストの事がらを私に実体化させる。

何万と言う人々がローマ書6:6を読んでいる。

「我々の古い人は彼とともに十字架に付けられた」

信のある者にとって、それは真実である。

疑のある者にとって、霊的照明のない上っ面で信じている者にとっては、それは真実ではない。