みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

Temptation And Failure, The Challenge To Faith, #3

2015年04月23日 | 聖書研究・信仰
再度、次のことを思い起こすべきだ。

信仰を堅持するために、聖書に記されている事実とは何であったか。

解放は成し遂げられているということを神はどんな言い回しで表現しているのか。

まず理解すべきは、我々の中にある、1つの原理としての罪は、根絶やしにされてはいないし、除かれてもいないということだ。

あまりくどくど考え過ぎると、計算違いをしたり、以前のような間違ったポジションの者に陥ることになる-ポケットには12シリングしかないのに、出納帳には15シリングと記入しようとする者のように。

我々の原罪(単数の罪)は除かれてはいない。

まさにそこに存在し、機会が与えられると、我々を打ち負かして再び罪を犯させる。

だから、我々は、常日頃から貴重な主の血潮の操作方法に習熟しておく必要がある。




Temptation And Failure, The Challenge To Faith, #2

2015年04月23日 | 聖書研究・信仰
先に見たように、サタンの目的のひとつは神の事実に疑いを持たせることであった(創世記3:4)

我々は、神の霊の啓示によって、キリストとともに死んだ、ということを見て知った。

そして、その事実を十二分に吟味し理解したはずだ。

しかし、ここでサタンが近づいて来て、こう言うだろう。

体の中で何か動いているものがあるじゃないか。

それは何だ。

それを死と呼んで良いのか。

動いているのに。

こう聞かれた時、我々はどう答えれば良いのか。

まさに試金石だ。

目に見えるこの物理的世界の、手で触れることができる事実を信じようとしているのか。

目に見えず科学的に証明されていない霊的世界の、手で触れることができない事実を信じようとしているのか。





Temptation And Failure, The Challenge To Faith, #1 

2015年04月23日 | 聖書研究・信仰
我々の罪は皆、主の血潮によって処理された。

我々自身は、主の十字架によって処理された。

さて、これら神の事実によりサタンの誘惑は解消されたのだろうか。

これらの事実を見て信じて後、古い欲望が再び頭をもたげて来たなら、どのような態度で臨めばよいのか。

再びあの罪やこの罪を犯したら一体どうなるのか。

以前よりもひどい癇癪を起こしたらどうなるか。

結局、先に上げた姿勢そのものが間違いであったということになるのか。