みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

The Second Step: “Even So Reckon...”, #3

2015年04月19日 | 聖書研究・信仰
Reckoning(徹底的にかつ完璧に理解する)とは、「信じる」ことではない。

今ポケットにたった12シリングしかない。家計簿には15シリングと記入して、会計上は、なんとか穴を埋めておくことを希望する。12シリングしかないのに、自分に言い聞かせて、会計しようとする。「15シリングある。15シリング持ってる。15シリングあるじゃないか」と。こんなオツムの努力をして、ポケットの中にあるお金の額が変わるとでも思うだろうか。いくら正確に計算しても、12シリングが15シリングにかわるはずもない。真実でないことが真実にはならない。しかし、もしポケットに15シリング持っているなら、大いに安息し確信して、家計簿に15シリングと記入することができる。神は、我々に「我々は死んでいる」ということを正確に理解するよう命じておられる。吟味の過程で「死んでいる」ことを知るのではなく、「死んでいる」が故に事実確認できるのだ。



The Second Step: “Even So Reckon...”, #2

2015年04月19日 | 聖書研究・信仰
何故、神は我々が死んでいることを徹底的に(かつ完璧に)理解するよう求めているのか。

会計計算の類似性という点から見てみたい。ポケットに15シリングあるとしよう。家計簿に何と書いたらいいだろうか。14シリング6ペニーとか15シリング5ペニーとか書けるだろうか。家計簿には自分のポケットにある分しか書いてはいけない。会計計算とは事実をreckon(算術計算のように正確に記載)することだ。空想ではない。私は死んでいるが故に、神はそのように「勘定する」よう私に命じておられる。真実でもないことを家計簿に書くことを神が良しとするはずがない。生きているのにもかかわらす、死んでいるということを調べるよう強要するはずもない。そんなオツムの体操のために、この単語を使うのは不適切である。



The Second Step: “Even So Reckon...”, #1

2015年04月19日 | 聖書研究・信仰
‘reckoning(吟味)’とは、元来どういう意味を表すのか。

ギリシャ語の‘reckoning’とは、勘定簿記のことを言う。

会計計算というのは、我々人類が誤りなく行うことができる唯一の事柄だ。

美術家は風景を写生するが、その風景をパーフェクトに再現することは不可能だ。

歴史家も資料の絶対的正確性を担保することは不可能。

地図の製作も、完璧な正確性をもって地図を作成することはできない。

ある出来事を的確に話そうとしても、完璧な正確さをもって伝えることはできない。

大げさになるか、言い足りないか、言葉数が足りないか、多すぎるか、になる。

人が本当に信頼できるものとは何か。

それは算術だ。

算術には誤りの余地がない。

椅子1個足す椅子1個は椅子2個。

これは東京でも千葉でも同一の真理だ。

横浜から長野、奈良から名古屋にかけての一帯、どの地域でも同じ真理だ。

世界中どこでも、またいつの時代でも、1足す1は2.

天国でも、地上でも、地獄でも、1足す1は2。

以上のように、reckoningの原義は算術のような正確性という意味だ。