第1ヨハネ3:9
神から生まれた者はだれでも
罪を犯さない
神の種がその者の中に留まるから
彼は罪を犯すことができない
神から生まれたから
この聖句は間違って理解されている。
罪はもはや我々の歴史上存在せず、我々自身ももはや罪を犯すことはない。
違う。
ヨハネはそのようなことを言っているのではない。
神から生まれたということの性質の中に、罪を犯すということが存在しない。
新生により我々に移植されたキリストの命が罪を犯さないという性質を帯びているのだ。
我々の中にある命の性質と我々の生活史の間には大きな相違がある。
例えで見てみたい。
木が沈むことはあり得ないという人がいるかもしれない。何故なら、木が沈むことは、木の性質ではないから。もちろん、時間経過の中で、誰かがそれを水の中に沈めてしまえば、それは沈むだろう。しかし、木の性質としては沈まないというのが事実だ。キリストにあって我々が受け取った新しい性質もこの木のように沈まない性質と同じ事実だ。
キリストにあってということは、罪を犯し得ないという意味だ。
アダムにあってということは、罪を犯し得るということだ。
機会さえ与えられれば何時でも、サタンは我々に罪を犯させる準備ができている。
神から生まれた者はだれでも
罪を犯さない
神の種がその者の中に留まるから
彼は罪を犯すことができない
神から生まれたから
この聖句は間違って理解されている。
罪はもはや我々の歴史上存在せず、我々自身ももはや罪を犯すことはない。
違う。
ヨハネはそのようなことを言っているのではない。
神から生まれたということの性質の中に、罪を犯すということが存在しない。
新生により我々に移植されたキリストの命が罪を犯さないという性質を帯びているのだ。
我々の中にある命の性質と我々の生活史の間には大きな相違がある。
例えで見てみたい。
木が沈むことはあり得ないという人がいるかもしれない。何故なら、木が沈むことは、木の性質ではないから。もちろん、時間経過の中で、誰かがそれを水の中に沈めてしまえば、それは沈むだろう。しかし、木の性質としては沈まないというのが事実だ。キリストにあって我々が受け取った新しい性質もこの木のように沈まない性質と同じ事実だ。
キリストにあってということは、罪を犯し得ないという意味だ。
アダムにあってということは、罪を犯し得るということだ。
機会さえ与えられれば何時でも、サタンは我々に罪を犯させる準備ができている。