みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

Temptation And Failure, The Challenge To Faith, #6

2015年04月25日 | 聖書研究・信仰
第1ヨハネ3:9
神から生まれた者はだれでも
罪を犯さない
神の種がその者の中に留まるから
彼は罪を犯すことができない
神から生まれたから

この聖句は間違って理解されている。

罪はもはや我々の歴史上存在せず、我々自身ももはや罪を犯すことはない。

違う。

ヨハネはそのようなことを言っているのではない。

神から生まれたということの性質の中に、罪を犯すということが存在しない。

新生により我々に移植されたキリストの命が罪を犯さないという性質を帯びているのだ。

我々の中にある命の性質と我々の生活史の間には大きな相違がある。

例えで見てみたい。

木が沈むことはあり得ないという人がいるかもしれない。何故なら、木が沈むことは、木の性質ではないから。もちろん、時間経過の中で、誰かがそれを水の中に沈めてしまえば、それは沈むだろう。しかし、木の性質としては沈まないというのが事実だ。キリストにあって我々が受け取った新しい性質もこの木のように沈まない性質と同じ事実だ。

キリストにあってということは、罪を犯し得ないという意味だ。

アダムにあってということは、罪を犯し得るということだ。

機会さえ与えられれば何時でも、サタンは我々に罪を犯させる準備ができている。




Temptation And Failure, The Challenge To Faith, #5

2015年04月24日 | 聖書研究・信仰
「罪に対する圧倒的勝利」よりも「罪からの解放」という考え方の方が聖書的だ。

ロマ書6:7と6:11に見られる「罪から自由」「罪に死んでいる」という表現は、いまだに顕在かつきわめてリアルな存在である、ある種のパワーからの解放を意味する。

もはや消滅してしまった何かからの解放ではない。

原罪はいまだにそこに在る。

しかし、日々度量が増すにつれて、ますますそのパワーからの解放を自覚するようになるであろう。





Temptation And Failure, The Challenge To Faith, #4

2015年04月24日 | 聖書研究・信仰
犯された罪の取り扱いについて、神の方法は直接的だ。

主の血潮によって、それらの罪を記憶から吸い上げてしまうという方法。

罪の原理(原罪、単数の罪)やその力からの解放ということになると、神は間接的な取扱い方法をとる。

原罪ではなく、我々の中の罪人を取り除くという方法だ。

我々の古い人は、主とともに十字架に付けられた。

それ故、かつては罪の運搬車だった我々の体は活動を停止している(ローマ6:6)。

原罪という古い主人は死んだふりをしているだけ、この者に仕えていた奴隷が死に渡され、活動を許されないため、その配下にある各器官も休止状態となっているのだ。

ギャンブラーの手は動かず、ののしる者の舌はしゃべらず、さらにこれらに属する各器官が使用できなくなった。

代りに、各器官は神の義のための武具としていつでも使用できるようになった(ローマ書6:13)。

ローマ6:13
あなたがたの体の器官、不義の道具を
罪に献げないで
それぞれを神に献げよ
死者から生きている者のように
あなたがたの体の器官、義の道具を
神に


Temptation And Failure, The Challenge To Faith, #3

2015年04月23日 | 聖書研究・信仰
再度、次のことを思い起こすべきだ。

信仰を堅持するために、聖書に記されている事実とは何であったか。

解放は成し遂げられているということを神はどんな言い回しで表現しているのか。

まず理解すべきは、我々の中にある、1つの原理としての罪は、根絶やしにされてはいないし、除かれてもいないということだ。

あまりくどくど考え過ぎると、計算違いをしたり、以前のような間違ったポジションの者に陥ることになる-ポケットには12シリングしかないのに、出納帳には15シリングと記入しようとする者のように。

我々の原罪(単数の罪)は除かれてはいない。

まさにそこに存在し、機会が与えられると、我々を打ち負かして再び罪を犯させる。

だから、我々は、常日頃から貴重な主の血潮の操作方法に習熟しておく必要がある。




Temptation And Failure, The Challenge To Faith, #2

2015年04月23日 | 聖書研究・信仰
先に見たように、サタンの目的のひとつは神の事実に疑いを持たせることであった(創世記3:4)

我々は、神の霊の啓示によって、キリストとともに死んだ、ということを見て知った。

そして、その事実を十二分に吟味し理解したはずだ。

しかし、ここでサタンが近づいて来て、こう言うだろう。

体の中で何か動いているものがあるじゃないか。

それは何だ。

それを死と呼んで良いのか。

動いているのに。

こう聞かれた時、我々はどう答えれば良いのか。

まさに試金石だ。

目に見えるこの物理的世界の、手で触れることができる事実を信じようとしているのか。

目に見えず科学的に証明されていない霊的世界の、手で触れることができない事実を信じようとしているのか。





Temptation And Failure, The Challenge To Faith, #1 

2015年04月23日 | 聖書研究・信仰
我々の罪は皆、主の血潮によって処理された。

我々自身は、主の十字架によって処理された。

さて、これら神の事実によりサタンの誘惑は解消されたのだろうか。

これらの事実を見て信じて後、古い欲望が再び頭をもたげて来たなら、どのような態度で臨めばよいのか。

再びあの罪やこの罪を犯したら一体どうなるのか。

以前よりもひどい癇癪を起こしたらどうなるか。

結局、先に上げた姿勢そのものが間違いであったということになるのか。





The Reckoning Of Faith, #3

2015年04月22日 | 聖書研究・信仰
ローマ書3章において、主イエスが我々の罪を担い、我々の身代りとなって死ぬのを見た。

一方、ローマ書6章において、我々自身も主の礫刑死とともにあったことを知った。

身代わりの死があらわにされた時、我々の義のための死であったことを信じた。

神は命ずる。

我々の解放のために第2の事実があったことを徹底的に吟味せよ。

実際上、ロマ書前半に見られる信仰faithということばは、後半では吟味reckoningに置き換えられているが、意味はほぼ同じである。

Weblio 辞書 > 英和辞典・和英辞典 > 英和辞典 > reckonの意味・解説
reckon【動詞】
1 期待する、信じるまたは 看做す(expect, believe, or suppose)
2 数学的演算や計算をする(make a mathematical calculation or computation)
3 そうであると考える(deem to be)
4 起こりえる判断(judge to be probable)
5 注意を払う(take account of)

faith名詞】
1【 信頼,信用 〔in〕.
2a(理性・理屈を超えた)信念,確信 〔in〕.b〔+that〕〈…という〉信念,確信.
3a信仰 〔in〕.b[the faith] 真正の信仰; キリスト教(の信仰).c 信条,教旨,教義.
4 信義,誠実.
5 誓約,約束.

神の事実にある信仰によって、すなわちキリストと主の十字架にあって信仰生活は前進していく。




The Reckoning Of Faith, #2b

2015年04月21日 | 聖書研究・信仰
これらの聖句のようにreckoningで置き換えることのできる、いわゆるfaithがマルコ11:24に見られる。

マルコ11:24
このことによって、あなたがたに言う
あなたがたが祈り、そして尋ね求めるものはすべて
すでに受けたと信じなさい
それは必ずやあなたがたのところにあるだろう

注)すでに受けたと信じなさい→すでに受けたと徹底的に吟味しなさい

Weblio 辞書 > 英和辞典・和英辞典 > 英和辞典 > reckonの意味・解説
reckon【動詞】
1 期待する、信じるまたは 看做す(expect, believe, or suppose)
2 数学的演算や計算をする(make a mathematical calculation or computation)
3 そうであると考える(deem to be)
4 起こりえる判断(judge to be probable)
5 注意を払う(take account of)

願い求めているものをすでに受けたと信じるなら(もちろん、キリストにあって)、それらを持つであろう、と書いてある。

何かを得る可能性がある、何かを得ることができる、何かを得るだろう、と信じることーこれは信仰ではない。

すでに何かを得たと信じるーこれが信仰だ。

神ならできる、神ならするかもしれない、神ならしなければならぬ、神ならするであろう、と言う人は信じているとは言えない。

キリストにある人なら「神はして下さった」と言うはずだ。

私の十字架刑に関して、何時私は信仰を持つのか。

神なら私を十字架刑にできる、神ならするだろう、神ならせねばならぬ、と私が言う時ではない。

私が喜びに溢れ、「主よ、賛美します。キリストにあって、私は十字架に付けられている」と言う時だ。






The Reckoning Of Faith, #2a

2015年04月21日 | 聖書研究・信仰
信仰とは何か。

信仰とは、神の事実を受け入れること。

信仰は、過去に基礎をおいているのがふつうだ。

未来と関係しているのは信仰ではなく希望。

しかし、ヘブル11章に見られるように、信仰においても、未来において目的や目標を置くことも多い。このために、ヘブル11章においては、reckonという単語が選ばれた。この単語は、過去にのみ関係した単語だ。つまり、すでに決着したこととして振り返るような事柄であり、これからあるであろうとは期待されないようなことに使われる単語だ。これは、マルコ11:24に書かれているような「信仰」と類似している。

よく分からない。Neeは何を言いたいのか。

ヘブル11:1
Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen.
(KJV)

信とは願うことの実体であり、まだ見ていないことの立証である。

*この聖句のfaithはreckoningに置き換えることはできない。以降の聖句についてはどうか。

例えば

ヘブル11:3
Through faith(→reckoning)
we understand that the worlds were framed by the word of God,
so that things which are seen were not made of things which do appear.
(KJV)

信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉(レーマ)で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。

完璧な計算(理解)によって、わたしたちは・・悟るのである。

*Through faithをThrough reckoningと置き換えてみる。すると、より分かりやすくなるから不思議だ。以下の聖句も同様。

同11:4
完璧な計算(理解)によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、・・

同11:5
完璧な計算(理解)によって、エノクは死を見ることのないように移されました。・・

同11:6
完璧な計算(理解)がなくては、神に喜ばれることはできません。





The Reckoning Of Faith, #1

2015年04月21日 | 聖書研究・信仰
ローマ書前半5章途中まで、パウロは、繰り返し「信仰」について語る。

我々は主にある信仰によって義とされる。

ローマ3:28
我々は完璧に理解している
人は信仰によって義とされることを
律法の働きから離れて

ローマ5:1
我々は、今や、信仰によって義とされ
神との平安を保っている
我らの主イエスキリストを通して

義、罪の赦し、神との平安は、すべて我々のものだ。

主イエスによって成し遂げられた御業にある信仰なしに、誰もそれらを持つことはできない。

しかし、ロマ書後半では、上にあるような信仰に関する記述がない。

「信仰」と「信頼」ということばが使われずに、reckon(λογίζομαι)が、これらの単語に代わって使用されている。

ロマ書後半においては、λογίζομαι(吟味)とπίστις(信仰)とは、実際上、同じ意味合いとして使われていると考えてよい。