みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

The Path of Progress: Reckoning, #7

2015年04月16日 | 聖書研究・信仰
The Path of Progress: Reckoning, #7

私は十字架に付けられた。

それはすでに成し遂げられた。




The Path of Progress: Reckoning, #6

2015年04月16日 | 聖書研究・信仰
私はあの朝のことを忘れない・・・その朝は、本当の朝、決して忘れることのできない朝だった。2階の机の前に座り、聖書を読み、そして「主よ、私の眼を開いてください」と祈った。その時、一筋の光の中で私は「それ」をこの目ではっきりと見た。キリストとひとつになっている自分。私はキリストの中にいる、主が死ぬ時、私も死ぬのを見た。私が死ぬのは過去のことであり、未来のことではないことを知った。主が死んだ時、私も確かに死んだのだ。何故なら主が死んだ時、私は主の中にいたからだ。すべてが氷解し始めた。あまりに大きな発見をしたために、うれしさのあまり我を忘れてしまった。椅子から飛び降り、叫んだ。「賛美します、主よ、確かに私は死んでいる」と。2階から降りて来て、台所で奉仕していた兄弟のひとりの手を握りしめながら言った。
「兄弟、私は死んでいるって知ってる?」
彼は、少し戸惑いながら、「何だい、何が言いたいの?」
私は続けた。
キリストは死んでいるって知ってる?
私は主とともに死んだって知ってる?
私の死が主の死と全く同じ事実だって知ってる?
まさに本物だった。
この大発見を大声で叫びながら、上海の通り沿いを外旋したい思いでいっぱいだった。
その日以来、一瞬たりとも、このみことば(の決定的な霊性)を疑ったことがない。

ローマ6:6
I have been crucified with Christ・・




The Path of Progress: Reckoning, #5

2015年04月16日 | 聖書研究・信仰
ローマ6:6
本当に分かっているのか、このことを
我々の古い人は主とともに十字架に付けられた
罪の体が廃棄されるように
もはや我々が罪に縛られることがないように

ローマ6:11
それぞれ各人で吟味せよ
罪に死んでいることを
イエスキリストにある神に生きていることを

改心の後、1920年から7年もの間、私は聖書を徹底的に吟味した。しかし、「私は罪に死んでいる」かどうかについて調べれば調べるほど、決して死んではいない、いや、生きていることがますます明白となった。自分が死んでいるなんて、全く信じられなかった。自分で死を生み出すこともできなかった。誰かに助けを求める度に、ロマ書6章11節を読むように言われた。しかし、この聖句を読めば読むほど、調べれば調べるほど、「死」は遠ざかって行った。「死」を手に入れることはできなかった。徹底的に理解する必要があるとの認識はもちろんあったが、何故何も湧き出て来ないのか分からなかった。数か月もの間、思い煩ったことを告白せねばならない。「もしこのことがはっきりしないのなら、もしこんな基本的なことも分かり得ないのなら、もう一切のことをやめてしまいたい、もう伝道するのもやめよう、主の奉仕のために御前に出ることもやめよう、何としてもこのことを明らかにしたい」と主に告げた。数か月間私は探し求め、断食をしたが、何も得ることはできなかった。