☞ Parable of Lazarus and the Rich Man: The Parables of Jesus with R.C. Sproul
15分00秒から最後まで。
◇◇
そこから出て、他の場所へと自由になるために控訴できる法廷はない。
セカンドチャンスという考え方を考慮することもない。
アブラハムよ。誰でもセカンドチャンスの権利を与えられているのではないのか。
アブラハムは答える。
神がそのような権利を与えているという記載を、私は見たことがない。
仮に神が与えているとしても、大分前にあなたはその権利を使い切ってしまっている。
あなたは第2,第3、第4のチャンスを使い切って生きてきた。
しかし、あなたは悔い改めなかった。
憐れみをかけることもなかった。
完全に自分のことしか考えず、自己中心的だった。
責任を取るべき日が来るという考えをあざ笑い、善なる神、愛なる神、恵みあふれる神が実は卑劣、たちが悪くて、もがき苦しみの場所へとあなたを閉じ込めたと思っている。
しかし、神の愛する子は、くり返しくり返しあなたに警告を発したではないか。
イエスは天国のことよりも地獄のことを教えたではないか。
以前にあなたの口から出たすべてのむだなことば、謹直なことばではなく、熟練したことばでもなく、意図的なことばでもない、それほど容易に口から転がり出たそれらのことば、言わなくてもよいことば、軽薄なことば、そんなことばのすべてが裁きの対象となると、イエスキリストは言ったのでなかったか。
たったひとつの事でさえ、父の告発から逃れることはできない。
裁きの時、すべての舌はその動きを止められるであろう。
そして、いくら言い逃れようとしても全くの徒労に終わることを知るだろう。
すべてをご存じの完璧な裁判官と議論することは不可能。
残念ながら、子よ。
そこから出てここに来ることはできない。
金持ちは理解した。
そして、今度は彼が乞食となった。
この例えは、ラザロが乞食で始まったが、今や金持ちが物乞いをしている。
彼は言う。
父よ、あなたに乞い願います。
ラザロを私の父の家に送ってください。
私のところに送ることができないのなら、あなたと私の間に超えることのできない淵があるのなら、ラザロがそこを渡ることができないのなら、ラザロを私の父の家へ送ってください。
私には5人の兄弟がいます。
こんなところで彼らと会いたくはありません。
このようなもがき苦しみの場所へと来ないように、彼らのところに送ってラザロに証言させてください。
アブラハムは言った。
ラザロを送れと言うのか。
宣教の旅か。
天国からか。
あなたの家に行って、あなたの兄弟のために特別な啓示をせよと言うのか。
父の王国で楽しんでいる至福の時を邪魔しろと言うのか。
あなたの家に行って、あなたの兄弟たちに話をしろと。
ふざけるな。
何故彼らはラザロが必要なのか。
彼らにはモーゼがいるではないか。
家には聖書があるではないか。
彼らには預言者がいる。
彼らは預言者の声を聞けばよい。
金持ちはことばを返した。
いやいや、そうでない、それは足しにはならない。
それでは、彼らは納得しない。
私の兄弟たちは俗物だということを知っているだろう。
彼らの心は堅く閉ざされている。
霊的なことに目を向けようとはしない。
モーセ律法や旧約聖書の預言者たちの預言なんぞくだらないと思っている。
注意を向けようとするはずがない。
しかし、死者の中から誰かが、例えばラザロが彼らのところに行けば、彼らも話を聞くにちがいない。
そうすれば、悔い改めるだろう。
兄弟たちが悔い改める必要があるとその金持ちは分かっていた。
もしも悔い改めなければ、今自分がいるところが最後の場所となるだろう。
アブラハムは彼に答えて言った。
もしも彼らがモーゼや預言者の言うことを聞かないのなら、死人の中からよみがえった者の言うことも聞かないであろう。
イエスはこのことを聞く人たちに話している。
モーゼの言うことを聞かない。
預言者の言うことを聞かない。
父が私を死者の中からよみがえらせたと言っても、あなたはそれを聞かないだろう。
聞かない理由は聞きたくないから。
聞く耳がない。
聞く耳がない理由は、聞く耳を持ちたくないから。
神ことを考えたくないから、地獄のことも考えられないのです。
死は怖い。
主から受ける最も冷静な警告のひとつがこの箇所です。
今が私たちの永遠を保証する時であるという警告であります。
死んでからでは遅すぎる。
遠すぎる。
お祈りしましょう。
父よ。
モーゼと預言書の言うことに耳を傾けることができるようにお手伝いください。
そして、イエス様の言うことに。
主の御名によってこのことをお願い致します。
アーメン。