みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#22 救いの達成:The Narrow Way Dr Steven J Lawson, NO. 8 

2023年09月10日 | 創世記

The Narrow Way Dr Steven J Lawson

26分39秒から30分27秒まで。

◇◇

新生のないただの宗教がこの門の正体だ。

それは肉に訴える宗教。

それは、神について語り、キリストについて語り、天について語り、救いについて語る宗教。

唯一の問題は、その門がかの地へと導いてくれないということ。

箴言14章12節にこうあります。

箴言14:12
人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死である。 

容易に信じることができるこの門は、あなたがあなたのままでやって来て、あなたのままが入ることができる門。

何も断念する必要がなく、何も捨てる必要がなく、何も告白する必要がない宗教。

悔い改めのない宗教。

キリストの主権に対して服従する必要のない宗教。

自分自身の人生を謳歌できる宗教。

自分の心の赴くままに生きることのできる宗教。

己に対する死のない宗教。

背負うべき十字架のない宗教。

己を否むことのない宗教。

何も犠牲を払う必要がなく、何も必要とせず、ただ立ち寄るだけの宗教。

手を挙げて、あなたが入るためのカードにサインしよう。

天国に行くのか。

否、地獄に落ちるのか。

結果は自ずと知れている。

彼らは自ずからを騙そうとしている。

彼らの目にはベールが掛けられている。

救いの道に入ったと信じている。

しかし、かの日地獄の炎の中で目が醒める。

マタイ7章21節
わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。 

この広き門から入る人々。

わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではない。

彼らは会話をする。

彼らは主よ主よと言う。

彼らは讃美歌の歌詞を知っている。

彼らは聖書研究会に出席する。

彼らは専門用語を知っている。

しかし、彼らは主を知らない。

マタイ7章22節
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 

最後の日に、多くの人たちは主よ主よと言う。

その日に、自分たちの働きぶりについて話すだろう。

多くの宗教活動を行ない、主の御名によって預言をし、主の御名によって悪魔を追い出し、主の御名によって多くのしるし不思議をなしたと言うだろう。

しかし、かれらはそのようなことはしなかったのです。

ただ単に、そうしたと思い込んでいるだけ。

自分を騙した。

彼らは主の御名によって預言をしたと言っている、これが神の言っていることだと言う。

違う。

神はあなたに話しかけてはいない。

悪魔を追い出した、奇跡を成し遂げたと言っているが、自分を騙している。

それは真実ではない。

救いに関して自分を騙している。

宣教に関して自分を騙している。

不正な宗教活動に関して自分を騙している。

あなたの全人生は見せかけ。

一度でよいからその覆いを下げてみたらよい。

真の自分を探ってみるがよい。

神がどのようにあなたを見ているか考えてみるがよい。

広き門があなたをどこに導くかに注意せよ。

それはあなたのための宗教であり、教会に対する異常な愛であり、教会ごっこ。

あなたはそれが大好きであるがゆえに広き門へと導かれてしまう。

 

 

 


#18 救いの達成:The Narrow Way Dr Steven J Lawson, NO. 4 

2023年09月01日 | 創世記

The Narrow Way Dr Steven J Lawson

11分15秒から14分40秒まで。

◇◇

このメッセージの最後に、イエスは最もすばらしい招待状について語ります。

天の御国に入城するための招待状。

イエスへと至る招待状。

自分が終わり、あなたの人生において主イエスが始まる招待状。

イエスの祝福と贖罪に至り、神の国に受け入れられる招待状。

これまでにない最もすばらしい招待状。

13、14節を見て下さい。

今宵この招待状がこのホールにおられる全員に送られるのかどうか知りたいと思います。

あなたが個人的に、あるいは個別に、悔い改めと信仰によってこの招待に応答したのかどうかを私は知りたい。

そして、あなたの命をイエスキリストに委ねることができたかどうかを知りたい。

仮に私に1万の命が与えられたとしても、すべての命をイエスキリストに委ねようと思います。

あなたの人生において最も大きな決断は、あなたの命をキリストに委ねることです。

あなたが行なう最も大いなることは、あなたの命をキリストに委ねることです。

神がなさることに注視して下さい。

今、そして永遠に神がなさることに注目して下さい。

今宵見ていきたい箇所は、マタイ福音書7章13節と14節であります。

マタイ7:13,14
狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。 
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。 

この聖句から、私は3つのことを見て行こうと思います。

狭い門から入れという命令。

そして、狭い門のすぐ近くにあるもう一つの門に警戒したい。

そのもう一つの門は見栄えが良く、近づきやすくて、かつ受け入れやすい。

それは広くて大きな門。

それ故、警戒が必要であり、あまりにも対照的。

14節で注意深く説明しているように、イエスはこの狭い門を通って入るように招いています。

イエスによる福音への招待は、狭き門から入れと命ずることによって開始されます。

今宵イエスがあなたに言いたかったことはこの命令です。

これ以外にないことに注意して下さい。

天の御国に入城するために必要なことが5つあるとか、あるいは10あるとかということではありません。

すべきことはただ一つ、神の国のメンバーになり、狭い門を通ることです。

あなたが御国の外で生まれたことが前提となります。

御国に入らなければならないという意味は、御国の外であるこの世にいるということ。

私たちはみな、肉体的に罪にあって生まれました。

詩篇51篇3節
ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。 

詩篇58篇3節
悪者どもは、母の胎を出たときから、踏み迷い、偽りを言う者どもは生まれたときからさまよっている。 

*悪者ども=私たち

 

 

 


#14 救いの達成:Sanctification is so important for believers

2023年08月15日 | 創世記

How important is sanctification for the believer? by Steven Lawson

次のメッセージに移ります。

◇◇

クリスチャンにとって、聖(化)は極めて重要であります。

聖(化)のない人はクリスチャンではありません。

だから、重要なのです。

新生された人はみな、その時点で聖化に入り、生涯に渡る聖化の過程が始まります。

神が聖化の第一責任者ですから、義とされると直ちに聖化(の過程)が始まるのです。

狭き門を通り抜けると、続く道はひとつしかありません。

狭き道であります。

新生と信仰を経て狭き門を通り抜けた人はみな、広き道へと進むことはできません。

そして、聖化が始まります。

聖化のないところに義認はありません。

聖化の(過程に)ない人は新生されていなかったのです。

ヘブル12章14節にこう書いています。

ヘブル12:14
聖を追い求めよ
聖なくして主に会うことはできない

クリスチャンにとって、それほど重要なことなのです。

聖を追い求めようとしない人は、天において主と相見える至福のひと時を持つことはできません。

最後の審判の日、そのような人は主の眼前に立ち、永遠の刑罰を受けます。

 

 


#13 救いの達成:Be Holy as I Am Holy, NO.7

2023年08月14日 | 創世記

Be Holy as I Am Holy: Fear and Trembling with R.C. Sproul

22分44秒から最後まで。

◇◇

さて、次のような疑問を抱くことがよくあります。

あなたの罪は赦されたと宣教師や牧師、伝道師が言っているのに私がそれを聞き逃したとするなら、一体自分はそのように思うだろうか、と。

部屋に一人でいて、キリストが部屋に入って来て、私の頭に手を置いて、「R.C. よく聞きなさい。あなたがこれまで犯してきた罪をすべて赦す。太陽が東から上り続ける限り、あなたの罪をすべて取り去る。あなたの罪過を洗い清め、あなたを清める」と言ったとするなら、私は一体どのように思うであろうか。

キリストがあなたに、「あなたを洗い清め、あなたの咎を赦し、神の御前において非の打ち所のない者としよう」言うなら、一体どのように感じるだろうか。

「あなたの罪は取り去られ、あなたの咎は清められた」と神が言った時、イザヤはそれに答えて、次のように言った、「『私は誰を遣わそうか。誰がわれわれのために行くのだろうか』と主が言っておられるのを聞きました。」

神は、「私のところに来なさい」とは言わなかった。

自分のところに来るようにと言うのではなく、「行きなさい」と言ったのです。

私たちは神の下へと行けば、神は癒し、赦して下さいます。

そして、神は私たちを遣わすのです。

「私は誰を遣わそうか。私のために行ってくれるのは誰か。」

イザヤは答えます、「私はここにおります、私を遣わせてください。私が行きます。」

神に感謝します。

「あなたが私の罪をすべて赦して下さるなら、私のすべての咎から洗い清めて下さるなら、私のような聖ではない者を、あなたの御前に立たせて下さるなら、私は地を這ってでも、あなたの慈悲深さと恵みを、会う人すべてに語り伝えましょう。」


「私が聖であるように、あなたも聖であれ」と神は言います。

神は聖であるが、私たちはそうではありません。

聖なる贖い主イエスキリストは、私たちを義として下さるだけでなく、私たちに聖なる霊を与えて下さいます。

私たちが聖を追い求める時、聖霊は手助けをしてくれます。

あなたの聖を達成せよ。

恐れおののいて、あなたの救いを達成せよ。

何故。

神があなたの内で働いておられるから。

・・・(略)

イエスが生涯を終えようとしている最後の夜、弟子たちはイエスに次のように聞きました。

「私たちに御父を見せて下さい。そうすれば、満足します。」

イエスは弟子たちに失望し、どれほど長くあなたがたと一緒にいたのだろうか。あなたがたは私のことがまだ分からないのか。私を見たのなら私の父を見たのだということが分からないのか。」

公生涯においてイエスは、この世をひっくり返しました。

ご自身の存在とともに、イエスは誤った偶像、神の関する誤った理解や誤った考え方を徹底的に粉砕しました。

主イエスは神本来のご性質を明らかにしてくれました。

私たちは宗教の時代に生きています。

自分が望むものは何でも崇め奉り、自分たちで作り上げた神々を礼拝しています。

しかし、友よ。

真の神、聖書の神は、ただお一人です。

キリストのご人格によって明らかにされたのが聖書の神です。

この神を追い求めることを切にお願いします。

この神こそ、その聖において荘厳であり、その偉大さにおいて超越しています。

この神こそ、われらの主イエスキリストの御父であります。

この神を追い求めることを生涯の事業とするなら、あなたの人生は180度違ったものになるでありましょう。

アーメン。

 

 


#9 救いの達成:Be Holy as I Am Holy, NO.3

2023年07月27日 | 創世記

Be Holy as I Am Holy: Fear and Trembling with R.C. Sproul

7分21秒から11分36秒まで。

◇◇

お分かりと思うが、恐れおののいて、私はゴルフを練習してきました。

それは救いのためではありませんでした。

私たちは、「義なんて大した問題ではない」と考えがちであります。

イエスは弟子たちに次のように言いました。

「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさるものでなければ、あなたがたは神の国に入ることはできない。」

これを読んで、こう言うかもしれない。

「イエスを殺したのは、彼ら律法学者とパリサイ人だ。彼らはまさに偽善者。義において、私たちが律法学者パリサイ人にまさるのは大変なことではない」と。

しかし、覚えているだろうか。

パリサイ人は、神の法を遵守するのを生業としていました。

そして、イエスは彼らについて何と言っていたでしょうか。

「聖書によりあなたがたは永遠の命を得ることができると思って、あなたがたは聖書を調べている。」

しかし、彼らは偽善者。

偽善者でありながら、彼らは聖書を調べていました。

神のことばの研究において、彼らは大変勤勉でした。

イエスは次のように言います。

「忌まわしいものよ、律法学者とパリサイ人。偽善者たち。10一献金はするが、より重要な律法事項、義と慈悲を無視する者たち。」

近年の世論調査で、アメリカの福音派クリスチャンと考えられる人たち、すなわち神の霊によって生まれた人たちの中の4%は10一献金をしたということが示されています。

すなわち、96%のクリスチャンは、組織的かつ定期的に神のものを盗んでいるのです。

パリサイ人は神のものを盗もうとは考えてはいませんでした。

彼らは10一献金をすることに関しては大変厳正でした。

彼らから起きた結果などから(実態を)知ることができます。

有り余る中の一部が増えた場合に、神の業に対して彼らは10分の一を献げたのでしょう。

通りで1円玉を見つけて、それをポケットに入れたことも覚えていません。

しかしながら、次の日曜日に集金袋にその拾った1円玉を入れるのではないでしょうか。

パリサイ人の几帳面さとはそういうことだったのです。

さて、他の場面で、イエスは次のように言いました。

「律法学者とパリサイ人、お前たち偽善者よ。人を改宗させるために至るところを駆け回り、その者が改宗するや自分よりも2倍ひどい地獄の子としている。」

宣教についての彼らの熱心さ、また、福音についての熱心さはどうなのか。

人を改宗させるために海や山を飛び回わるとあります。

ロサンゼルスから私宛に手紙を書いた人がいます。

ロサンゼルスに来て、私に説教をして欲しいと言うのです。

最初に私が抱いた疑問は「希望者はどれくらいいるのか」ということでした。

というのも、たった一人のために、数千マイルも離れたところに旅して説教しようとは思わなかったからでした。

しかし、パリサイ人はそれを実行したのです。

偽善とその祈りゆえに、イエスは彼らを強く非難しました。

しかし、祈りのある生き方において、彼らは大変几帳面でした。

彼らは毎日聖書を読み、毎日祈り、自分の所持金の少なくとも10パーセントを神の御業のために献金したのです。

彼らは教会生活に身を委ね、福音に身を委ね、伝道活動に身を委ねました。

しかし、イエスは言います、「あなたの義が彼らの義に勝らなければ、あなたは決して神の国を見ることはない」と。

恐らく主が意図したことというのは、「私の義を持ちなさい」ということ。

救いの根拠としてのイエスの義、つまりイエスの義は律法学者とパリサイ人の義に勝るのです。

 

 


#170 終末預言:Rebirth No 6

2023年04月21日 | 創世記

エゼキエル36章25,26
Then will I sprinkle clean water upon you, and ye shall be clean: from all your filthiness, and from all your idols, will I cleanse you.
A new heart also will I give you, and a new spirit will I put within you: and I will take away the stony heart out of your flesh, and I will give you an heart of flesh.


"You Must Be Born Again" - Steven Lawson - John 3:1-15

重要と思われる箇所を適宜翻訳していく。

*日本語訳の上にある数値は、動画再生時間。

--

7:12
新生とは、死んでいる魂の中に霊の命を移植すること。

7:25
新生とは人の魂の中にある神の命であり、それは新しい思い、新しい心、新しい気質、新しい感情、新しい願い、新しい意志を与えるくれる。古いものは過ぎ去り、すべては新しくなる。

7:52
義認は、天にいます神の御前において、私たちの新たな地位を保証する事務手続きに過ぎずない。

8:36
新生という真理は。私たちの中に新しい命を植え込み、私たちを根本的に変容せしめる。

8:48
私たちを内部から変えて、全くの別人に造り変えてしまう。

9:45
教会に参加しようと、洗礼を受けようと、日々祈ろうと、それらは重要ではない。

9:57
新生がないところには、義認も和解も贖いもない。

10:16
新生は信仰に先立ち、新生は義認に先立ち、新生はあらゆる救いのための素晴らしい教えに先立つ。

28:14
第2の誕生(新生)は、後に霊的誕生と定義されるが、again(再び)と訳されていることばは、後にabove(上)と訳される。

28:33
第2の誕生(新生)とは、祝福の御座から下ってくる上からの誕生である。

28:47
第2の誕生(新生)は、人の宗教に端を発するものはなく、教会に端を発するものではなく、説教者に端を発するものでもなく、両親に端を発するものでもない。

29:05
この命は、全く異なる領域、すなわち栄光なる神の命の領域から発し、霊において死んでいる魂の空虚な空白部分へと植え込まれる。


エゼキエル36章25,26
Then will I sprinkle clean water upon you, and ye shall be clean: from all your filthiness, and from all your idols, will I cleanse you.
A new heart also will I give you, and a new spirit will I put within you: and I will take away the stony heart out of your flesh, and I will give you an heart of flesh.


35:34
私はあなたの体から石の心を取り除く。
石の心とは、福音メッセージが落ちると神の事々に対して頑なになっている心。
それはアヒルの背中にある水のようなもの。
心の中に根を下ろすことはない。

35:51
石の心には命がない。
拍動がない。
死んでいる。

35:59
神は石の心を取り除き、肉の心を植え付けなければならない。
肉の心とは生きている心。
神の事々に反応する心。
霊的拍動を有する心であり、新しい命を魂の中に送り込む。

43:48
霊の動きは風が吹くのと似ている。
風は独立している。
誰も風を支配できない。
誰も風を起こすことも、動かすこともできない。
誰も風を止めることはできない。
誰も風をコントロールできない。
風にはそれ自身の心がある。
新生における霊の動きもそのようなもの。

49:10~
もう一度生まれるまで、神の国に入ることはできない。
もう一度生まれるまで、神の国を見ることはできない。
ニコデモはいまだに霊的に盲目であり、彼の目は塞がれていた。

57:28~
神はモーセに真鍮の蛇を作るように命じた。
真鍮の蛇とは裁きの下にある罪を意味した。
それを杖の先端に取り付けて、できるだけ高く持ち上げよ。
そして、杖の先にある真鍮の蛇を見上げるように人々に命じた。
見上げた者はたちどころに癒された。

1:00:21~
信仰によって、高く上げられたキリストを見上げた者たちは
直ちに、完全に義とされ、和解され、罪赦され、救い出された。
ニコデモのためにイエスは天の御国の門を開いた。
荒れ野でモーセが真鍮の蛇を上げたように。

*明らかに、この箇所も旧約聖書の成就。

1:06:40~
新生とは、心の中に神ご自身の命(を頂くこと)。
内に神の命を持つことなしに、神の国を見ることも入ることもできない。
神が与えてくださるこの命が永遠の命である。

1:10:19
新生していない人は見ることも、入ることも、信じることもできない。

1:12:02~
あなたは新しく生まれなければならない。
今日イエスはあなたに言う、あなたは新しく生まれなければならない。
われわれの罪を背負って、十字架に架けられたイエスを見上げなさい。
主は、われわれの身代わりとなって、父の御怒りゆえに苦しみを受けた。
そこに命がある。
キリストを見上げよ。
哀れな罪人のために十字架で死なれたキリストを信じなさい。
善人のためにではなく、悪人のために主は死なれた。
まさにあなたや私のような罪人のために死なれた。

1:12:51~
どうしてもキリストを信じることができないのなら
あなたがどれほどの罪人であるかを主にお知らせしなさい。
主は罪人のために死なれたお方であり
健康な人のためではなく、罪人のために来られた医者がイエスキリスト。
あなたがどれほどの罪人であるか主に告げなさい。

1:13:11~
そのように主を見上げた瞬間に、主はあなたを救い、そして贖い出す。
そして、内に新しい命を持つ。
古い自分の何かを付け加える必要はない。
新しい命があればそれで十分。
新しい命を受け入れることのできる唯一の場所がある。
新生によって、それは生まれる。
あなたがまだ新生されていないのであれば
まさに今この瞬間、神はあなたを御国へと生み落とそうとしているに違いない。

マタイ7:7~8
Ask, and it shall be given you; seek, 
and ye shall find; knock, 
and it shall be opened unto you:
or every one that asketh receiveth; 
and he that seeketh findeth; 
and to him that knocketh it shall be opened.

願い求める者に報いて下さるのがわれらの神。
与えて下さるのは、神の国、すなわち永遠の命。

 

 

 

 


#33 基礎教理 by Reformed Theologians

2022年10月26日 | 創世記

Derek Thomas: How Then Should I Live in This World?
https://www.youtube.com/watch?v=6LB5i-uFBpQ&t=1s


訳出時間枠:38分23秒から44分36秒まで
◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇

このことについてパウロが言っていることをしっかりと理解しておきましょう。

これは実践であります。

真実で、正真正銘義とされ、御霊が内住し、キリストを一体となったクリスチャンが同性愛で苦しむと言っているのではありません。

残りの人生もその問題を引きずる人がいるということ。

パウロが言いたいことは、その行ないを実践し、その生活様式を続ける人は神の国に入ることはできないということです。

これが反体制文化です。

私たちの回りにいる文化人は、「誰も傷ついていないのだから、私たちを取り巻く文化の倫理的な基準に何ら問題はない」と言う。

これが今の世の基本的な倫理基準なのです。

「自分の人生において何をしようと、他人の知ったことではない。」

さて、それはイエスの仕事であります。

恐らく、それは国の仕事ではありません。

教会の仕事でもないかもしれないが、イエスの仕事であり、信仰告白しているクリスチャンとしてあなたが対処すべき問題ではないかと思います。

あなたは苦しむかもしれません。

これらの問題を抱えるかもしれません。

なぜそうなるのかさまざまな理由があります。

残りの人生において、そのような問題を抱える可能性があるのです。

もしそのようなことを行ない続けるのなら、あなたは神の国に入ることはできないと神は言っています。

さて、能書きを垂れる相対主義者は次の聖句をどのように解釈するのでしょうか。

「この世に同化してはならない。あなたの思いを新たにすることによって変えられなさい。」

世に対する同化は、教会生活やクリスチャンライフにおいて、どのように現れてくるのでしょうか。

恐らく次にようなことばによって現れてくるのでしょう。

「私のしていることは、パウロがここで言っていることとあまり関係ありません」と。

この言い分は、ある意味で有害であります。

パウロが言っていることは無関係に、何か別の意味へと解釈することは可能です。

これは好ましい関係ではありません。

これは能書きを垂れる相対主義者がよく使う手段であります。

あるいは、あなたが世渡りの上手い能書き垂れを受け入れている可能性があります。

聖書研究会に出席している時、誰かが「私はパウロが言っていることを考えることが好きです」と言うとします。

「覚悟があって言っているんだろうな」と私は言いたい。

何が飛び出すか誰も分からないからです。

パウロが言っている内容が何であれ、何ら考察することもなく、個人的な意見に基づいて能書きを垂れる人がそのような人だからであります。

でしょ。

あなたは聖書に対してこのようなアプローチの仕方をしているかもしれない。

個人的な経験から出てきた能書き垂れが行なうマルチ解釈でもって、聖書にアプローチしているかもしれない。

「私はこれこれこう思う」とか「ここで神が言っていることはこうであろうと思う」とか。

あなたがどう思おうが知ったことではない。

あなたがどう感じようが知ったことではない。

倫理に関する客観的基準というものがなければ、この国には個人歴感情に基づいた2億5千もの規準が存在することになってしまいます。

事実、私たちはそんなところにいるのです。

私たちはみな罪人であるから、特殊な罪に関してフォーカスを当てても役に立たないのではないかと思うのも当然ではないかと思います。

私も神の裁きに値する者であるから、誰があなたを裁けるでしょうか。

さあ、どうぞご勝手に。

山上の垂訓「裁かれないために、人を裁いてはならない」の箇所を、多くの人は誤まって引用しています。

倫理的裁きをしなければ、一体どうなるでしょうか。

ある人がやって来て私の財布を盗んでも、あなたは裁くことができない。

裁いてはならない。。。

あなたの配偶者が浮気した。

裁かれないように、裁いてはならない。。。

私たちはみな罪人、ですね。

これは以下のようなことではないかと思います。

罪に関してのみ強調されていますが、祝福についての観点がすっかり抜けてしまっています。

必要なのは祝福であります。

語るべきは祝福であり、福音であります。

私たちは祝福と聖化について語る必要があります。

 

 

 


#30 基礎教理 by Reformed Theologians

2022年10月21日 | 創世記

Derek Thomas: How Then Should I Live in This World?
https://www.youtube.com/watch?v=6LB5i-uFBpQ&t=1s


訳出時間枠:22分23秒から27分37秒まで
◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇

ここにおられるあなたがたの中にも、重荷を負い、試練に会い、十字架を背負い、子に恵まれない人生へと導かれた人がいるのではないでしょうか。

また、奇妙で特異的な苦痛と伴いつつ、ハンナの祈りを共有している人もいるはずです。

そのような人はハンナの祈りが良く分かるのではないでしょうか。

しかし、彼女が言ったことば「主よ。私に子を与えて下さい。そうすればその子をあなたにお返しします」とは、一体どういう意味なのでしょうか。

正確にハンナのいったことばはそうであり、パウロの言っていることと類似性があります。

それが福音の結論なのです。

それが改革派信仰の結論であります。

それが改革派救済論の結論。

礼拝において私たちが自分自身を捧げるのは、神のご恩寵に対する帰結なのです。

それが合理的な礼拝です。

道理に適った礼拝。

「イエスキリストが神であり、私のために死んでくださったのであれば、私が主のためにすることは大したことではない。」

ハドソン・テイラーのことば。

ジム・エリオットのことば、「彼は失うことのできないものを得るために、自分が保てないものを与える愚か者ではありません。」

倫理的帰結は礼拝、その人まるごとの礼拝であります。

心と体、魂と愛情、意志、そしてキリストにあって新たにされた人間性を構築するすべてが礼拝行為として奉げられるのです。

ここでいうところの礼拝とは、生活すべてにおける極めて広い範囲という意味での礼拝です。

この聖句における礼拝とは、集会礼拝や日曜礼拝、聖餐式に伴う礼拝などすべての礼拝を含んでいます。

意味が広くて、一般的な意味を持つ聖句なのです。

パウロは特別な目的のために集う礼拝のことを言っているのでありません。

彼が言っているのは、全生涯について、つまり人生全体に渡る礼拝行為を言っているのです。

第4に、倫理的帰結はいけにえを必要とするということを見ていきたいと思います。

そして、それは個人全体を必要とします。

それには礼拝も含まれます。

それはカウンターカルチャー、反体制文化であります。

「この世に同化してはならない。神の御心とは何か、何が良いことか、何が受け入れられることか、そして何が完全なことかを見分けることができるように調べることによって、そしてあなたがたの思いを新たにすることによって変えて頂きなさい。」

この世とその世界観に同化してはならない。

私は1960年代に育ちました。

私自身のことについて少し説明しておきましょう。

50年代の幼少の頃を、そして60年代に10代を過ごしました。

当時は漠然と何かをしていました。

私の姉はビートルズやローリングストーンズを聴いていました。

一方、私はベートーヴェンやブラームスを聴いていました。

それが私でした。そうです、今でもそれが私です。

ロックバンドのキンクスのことはおぼろげながら覚えています。

身を捧げるほどの流行追っかけ屋でした。

キンクスのことを覚えている人はどれくらいいますか。

それほど多くはないようですね。

あなたのズボンにターニップが付いてなければ、ネクタイもないはずです。

どれだけ多くの人がネクタイを買ったでしょうか。

その後しばらくすると、買ったネクタイを付けなくなりました。

一体何が私にそのネクタイを買わせたのでしょうか。

 

 

 


#27 基礎教理 by Reformed Theologians

2022年10月17日 | 創世記

Derek Thomas: How Then Should I Live in This World?
https://www.youtube.com/watch?v=6LB5i-uFBpQ&t=1s


訳出時間枠:6分22秒から11分56秒まで

◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇

パウロは、行ないによって神の国への切符を得るというパフォーマンス性向に戻ろうとしているのではない。

神のご恩寵を経験した人として、闇から光へと連れ出された人として、イエスキリストにあって信仰のみによって、そして神の恩恵のみによって義とされた人として、パウロは、「こういう理由のゆえに(therefore)」と言っているのです。

さて、パウロはそれを行なうことにおいて、義務に関する動詞を非常に強く意識して使用しています。

もちろん、自己洞察は、あらゆる種類の宗教的困難をもたらします。

ロバート・マーレイ・マケインの次のようなことばを明らかにしました。

「自分自身をあらゆる角度から見るために、イエスキリストを100回見なさい。」

いつでも自分を調査すること、自分の内面を覗き見ること、そして、自分が告白する信仰を高めることができるように、御霊の実が発現されているかどうかをテストすべきであります。

そのために、自分をあらゆる角度から眺めつつ、主であるイエスを100回見るべきです。

さて、今から見ていきたいことが4つあります。

よく知られた聖句、ローマ書12章1節と2節を見ていきましょう。

4つのこととは、福音における神の恩恵に対する私たちの反応を明瞭化することです。

第1に、倫理的な帰結、「では一体、どのようにこの世を生きるべきか」ということ。

考えてほしい第1に、倫理的帰結とはいけにえを必要とするということであります。

パウロが理解して欲しいと思っている1番目の原則は、いけにえを要求するということ、「生きたいけにえとして、あなたがたの体を差し出しなさい。」

現代のキリスト教会では稀有なことばではないでしょうか。

ほとんど廃れてしまったことばです。

福音のためにいけにえとなるように言われています。

イエスキリストのためにいけにえとなるように言われています。

イエスは何と言いましたか。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい(マルコ8:34)。」

十字架とは、首に下げるためのプラチナや金、銀でできた宝石ではありません。 

見て美しいものではないのです。

そんな風に考えるのはおかしいとは思いませんか。

十字架とは、薬液の入った注射器や小さな電気いすを持ち運んでいるようなものです。

あるいは、小さなプラチナ製のガス室のようなものです。

では一体、十字架とは何ですか。

それは死刑執行のための個人的な道具なのです。

イエスは言います、「あなたの首に宝石をぶら下げよと言っているのではない。毎朝温めてくれるお守りのようなものではない。十字架は、怪我や試練、艱難からあなたを守ってくれるクリスチャン用のラビットフット(お守り)ではない。」

イエスが言っていることは、「わたしのところに来たいのなら、来るなり死んでほしいのだ。自分に死になさい。あなたの野心に死になさい。あなたの夢に死になさい。あなたの願望に死になさい。私の思いではなく、なされるべきはあなた自身である。」

自書「キリストの模倣」の中で、トーマス・ア・ケンピスは次のように書き記している。

有名なことばだ。

「十字架を背負うあなたを、十字架が背負ってくれるであろう。」

もしもあなたが十字架を背負うのであれば、十字架があなたを背負ってくれるであろう。

さてここで理解してほしいことは、パウロは私たちにいけにえを捧げなさい(犠牲を払いなさい)と言っているのではなりません。

それは的外れです。

「そういうわけですから、兄弟たち。神のご恩寵により、あなたがたにお願いします。あなたがたの体を、神に受け入れられる、聖なる、生きたいけにえとして差し出しなさい。」

パウロはあなたがたに犠牲を払いなさいと言っているのではありません。

あなたがたがいけにえになるように懇願しているのです。

 

 

 


#99 終末預言 by R.C. Sproul

2022年05月12日 | 創世記

The Healing of the Deaf Mute (Mark 7:31–37) — A Sermon by R.C. Sproul

訳出時間枠:14分44秒から20分38秒まで

◇◇

足萎えは喜びのあまり飛び跳ねる。

今朝朗読したように、マルコがこの箇所を書く時、イエスとつんぼで口がきけない人との出会いについて心に思い巡らせていたことは間違いないと思うのであります。

さて、テキストに戻りましょう。

私がしていることをあなたがたもやってみて頂きたいと思います。

早速、見ていきましょう。

「すると、イエスは群衆から彼を脇へと連れ出して、ご自身の指を彼の耳の中に入れた。そして、唾を吐いて、彼の舌に触れた。」

この男はデカポリス地方の出身、つまり異邦人の国とされ、汚れていると宣言されていた土地の出身であったということに注意したい。

最初に見ておくべきことは、イエスが群衆から彼を脇へと連れ出して、彼に触れたということ。

そして、イエスはご自分の指を彼の耳に入れた。

そして、ご自分の手に唾を吐いて、その唾を取った。

その唾とは、ユダヤ人の浄化の法によれば、汚れた排出物と考えられていました。

イエスはご自身の手に唾を吐きだし、唾を取り、それをその男の舌に付けたのです。

さて、古代世界において、治癒能力を与えられた人は、連れて来られた人々にその力を伝達するために、唾を仲介物として使う言い伝えがありました。

イエスは、ご自分が人を癒す方法を知っていることを、この男に確信させようとしたのかもしれません。

苦しむ人々に贖いをもたらすために、イエスがご自身の唾を使ったということに、極めて深い意義を見いだそうとする人たちもいます。

それは、彼の体から流れ出る別の液体、彼の血潮を予め示していたのかもしれません。

私たちの口だけではない、ご自身の民のためにみずから注ぎ出す時、私たちを救い出してくれる主の血潮であります。

いずれにせよ、イエスのこうした処置から生き生きとした描写を読み取ることができます。

そして、この男の舌に触れた時、イエスは天を見上げました。

続いて、聖書には「彼は大きなため息をついた」とあり、つまり、心の中でうめいたのです。

すなわち、御父に介入して下さるように激しく嘆願したのです。

彼はその男の舌に触れた。

その舌には鎖が巻かれていた。

われらの救い主は大きくため息をついて、一言言った。

マルコ伝の原典に残されているそのことばは、単純に「開かれよ」を意味することばであります。

イエスの命令によって、音を聞き分けることができずに塞がれていた耳と、鎖が巻き付けられていて明瞭にしゃべることができなかった舌は解き放たれた。

男の耳は開かれ、聞くことができるようになった。

聴力の賜物が与えられただけでなく、彼は今やしゃべることもできるようになった。

聞き取ることのできない話し方ではなく、神の栄光を明瞭に表現できる舌が与えられたのです。

本来の意味において、ここで起こったことは、すべてのクリスチャンに対して起こるべきことであります。

このかわいそうな男がことばによるコミュニケーションが全くできないつんぼであったように、聖霊が神の事々に対して私たちを開いて下さる前には私たちも神のことばを聞くことのできない者でした。

聖霊が私たちの心を清めて下さり、私たちの魂を再生して下さる前、私たちの心に浮かぶことはみな汚れたことばかりであり、コブラの毒が私たちの唇の下にありました。

そして、私たちの舌は神を冒涜するために使われていました。

罪の鎖から解放されるまで、その舌は毒そのものでありました。

直ちに彼の耳は開かれた、とマルコは伝えます。

そして、彼の舌の障害も解かれたのです。

聖書に書いてあることに注目して下さい。

単に「そして、彼は話した」とは書かれていない。

その言い方は注目に値します。

「直ちに彼の耳が開かれ、彼は聞くことができた、そして、しゃべることができた。」

しかし、マルコはそれ以上のことを告げます。

イエスは彼の舌に触れて、命令するとすぐに、直ちに、彼はしゃべることができて、明瞭にしゃべることができた。

そこにあった病理が取り除かれ、彼は言いたいことを正確に表現した。

◇◇

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