先に上げた動画The Rapture is NOT in the Bibleと内容が類似する論考は多数存在する。
それらの考察の多くは、大変合理的、論理的であり、無理なく考察を進めている。
以下に、それらの中からいくつか紹介しておきたい。
・Is the Rapture Doctrine Biblical? (Ben Witherington)
・Will There Be a Rapture? 1 Thessalonians 4:13–18, Part 3
以下の内容はかなり辛辣ですが、歴史を踏まえて、異端であるディスペンセーション主義が如何に流布されてきたかを解き明かしている。
・Dispensationalism: How Satan Used the Scofield Reference Bible (Part 16 of 23)
次の動画を訳出しておく。
教会メンバーからの疑義に答えている。
最初から5分9秒まで。
◇◇
何故私が携挙という考え方に否定的なのか説明します。
(質問者:OK)
つまり、携挙とは受け入れるにはあまりに皮肉的だからです。
聖書の中にその概念を見出すことができませんでした。
根本的に私がその考え方に疑問を呈した理由とはこうです。
主イエスが目に見える形で来臨する数年前に、クリスチャンが地上から引き上げられるという不思議について考えたことがないとします。
また、聖書テキストを読み込んでその考え方を心に抱いたことがないとしましょう。
そうした場合に、あなたは聖書テキストからそのような結論を引き出すことはできるでしょうか。
答えはNO、引き出すことはできません。
私には、その考え方を示唆する聖書テキストがあるとは思えませんでした。
(質問者:何故ですか)
この教理は、キリストの後1800年もの間、全く根拠がありませんでした。
この教理が勢い付いた時期があります。
それがまた、私が疑いを持つ理由でもあります。
では、有名な聖句、第1テサロニケ4章に何と書いてあるか見てみましょう。
いま開いています、私も良く知っている聖句です。
ありました。ここに携挙が書いてあるじゃないかと人は言います。
ちょっとお待ちを。
これが、携挙という概念を確信させる聖句がと思います。
しかし、この聖句には携挙という概念は書かれていません。
ここに書かれていることを携挙と呼ぶことはできません。
これは別の何かです。
この聖句はそれが起きている時を正確に伝えています。
13節にこう書いています。
「すでに眠りについている(つまり、死んだ)人たちについて、知らないままでいて欲しくはありません。全く望みのない残りの人たちのように、あなたがたが悲しまないためです。私たちがイエスが死んで蘇ったことを信じるなら、そうであるなら、神はイエスにあって眠りについている人たちを、彼とともに連れてくるのではないでしょうか。
パウロのことばによると、主の来臨(παρουσία)の時まで、生きていて(世に)とどまっている私たちは・・。
ここで一寸立ち止まりましょう。
ここでパウロが記載していること、彼はある特殊な時のことを言っています。
それが起こるであろうとパウロが言っている時とは、主の来臨(παρουσία)の時です。
さあ、ここで質問です。
主の来臨は何回ありますか。
どのように答えますか。
(質問者:2回)
初臨は2000年前でした。
再臨は将来のいつかです。
来臨は2回だけです。
分かりますが、まだそこには行きません。
単純にしばらく思い留めておいてください。
第1テサロニケ4章で、パウロが何を言っていようとも、それは主の来臨の時に起こることを言っているのです。
つまり、それは主の再臨(second coming、παρουσία)において起こることです。
初臨があって、再臨があるのです。
ひとつ号令、大天使の声、そして神のトランペットとともに、主ご自身が天から下ってくる時、キリストにあって死んだ者たちが最初に蘇るであろう。
これは復活です。
携挙ということばは使われていません。
この箇所では、ラテン語由来のことばが使われています。
それはコリント人の手紙だったかもしれませんが、いずれにせよ、携挙ということばは使われていない。
ことばのあらを探すつもりはないが、テキストに書いていることを正確に反映していることばについて確認しておきたいと思います。
聖書テキストにはこう書いてあります。
「キリストにあって死んだ人たちは蘇るであろう。」
ここで、主の再臨の時に、私たちは復活について話しているのです(とパウロは言っている)。
続けて、こうあります、「生きていて(この世に)とどまっている私たちがともに引き上げられるであろう。」
ここに人々の言うところの携挙ということばが出てきます。
「空中で主と会うために、雲の中で彼とともに引き上げられ、私たちはいつまでも主とともにいるのです。」
パウロが言っていることとはこうです。
主の来臨の時に、眠りに付いている人々が復活する、すなわち、復活によって死者から生きた者へと移行するということ。
そして、まだ死んでいない人たちも、死という過程を経ることなしに変容するという意味において復活を遂げるのです。
(質問者:どうしてですか)
何故なら、終末だからです。
ここに(間近に)イエスがおられるのですから。
話は極めて簡単です。
さて、このことを心に留めておきつつ、つぎのテキストに移りましょう。
次も有名な聖書箇所で、そのことが書かれていいます。
第1コリント15章。
ところで、第1コリント15章全体が復活に関する内容です。
つまり、イエスが来臨する時に起こる「復活」と呼ばれる出来事について、語られているのです。
出来事とはこうです、最初に死んだ人たちが不死へと復活し、次に生きている人たちが変容し、キリストの下へと引き上げられていく。
つまり、死者の復活を勝ち取り、そして、ある意味で奇妙なことではあるが、生きている人たちの復活も勝ち取っているのです。
だから、第1テサロニケ4章にあるような言い回しをパウロはしているのです。