みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#68 基礎教理 Do You Bear Fruit? NO.1 

2024年06月22日 | 基礎教理

Do You Bear Fruit? - Paul Washer (John 15)

初めから10分まで。

◇◇

ヨハネ福音書15章3節~


ヨハネ福音書15章をお開きください。

今日の聖書箇所を読む前に、これまでも言われてきましたが、大変重要なことに注目したいと思います。

単純にこうです。

今朝、恐ろしい裁きに関する箇所が読まれました。

イエスキリストの再臨の前に、地上に下る、あるいは下り続けるであろう裁きのことです。

今朝あなたの心が打ち震えるほどに、神のことばに対するあなたがたの信仰が明らかとなります。

今朝読まれた箇所を聞いた人は多いと思いますが、不快に思わなかった人はいるでしょうか。

不快ではなかったという理由は、あなたに信仰の確信があるからではなくて、あなたがたの心に無感覚が芽生えているからではないでしょうか。

あなたがたは恐ろしいことを聞きました。

今日あなたがたにお話しすることは、生死に関する重大な事柄、すなわちクリスチャンライフに関することです。

このことは大変重い事柄なのですが、右の耳から入ると左の耳から出て行ってしまいます。

今よりもさらに敬虔となるための方法を、今日お話ししようと思います。

さらに大いなる確信をもって、神の御座の御前に立つためであります。

あなたがたは、そのことを証明しようと口にすることも、そういう生き方をすることもないと思います。

この手のことに関心はあるでしょうか。

あなたがたにとってあまり重要なことではない。

腹が立つというのであれば、その前にひとつ質問します。

一日のうち何時間、自分のことを考えていますか。

一日のうち何時間、一時(この世)的なことを考えていますか。

健康のことや美容のこと、着るもののこと、あるいは人間関係、この世の楽しみや道楽といったこと。

このようなことを考えている時間はどれくらいですか。

そして、神の事々について考えている時間はどれくらいですか。

さらに純粋となるために、さらに潔白となるために、さらにキリストのようになるために、どれ位の時間を費やしていますか。

さらなる救いの確信に向かって、如何なる努力をしていますか。

今私がこうして話している時でさえ、頭を下げて、私が言っていることを聞いていない人がいるのではないでしょうか。

神のことばに従うことは大変危険なことであると知っておいて欲しい。

同じ太陽の光がバターを溶かしたり、粘土を固めます。

鈍感であってはなりません。

この世のことに警戒して下さい。

自分の心に警戒して下さい。

自問して下さい。

あなたが新生しているという証拠はありますか。

今日が日曜だからここにいるのですか。

ここにいることがあなたの家族にとって都合が良いから、ここにいるのですか。

強制されてここにいるのですか。

神の霊によって新生されているのであれば、神の家に来ることは喜びのはずです。

主を愛する人であっても退屈な説教に耐えなければならないことが時おりありますが、神のことばを聞きたいがゆえにここに集うのです。

しかし、新生された心が教会を離れても、その新生された心は神の家への願いを置き去りにすることはありません。

その人の人生において神がなさったことは、弱さを通して反映されます。

あなたの生活をカメラで追いかけてみるなら、どれほどあなたが自分自身に心を占拠されているかが分かります。

一時的なものに心を奪われている自分。

永遠に続くことのない物事に夢中になっている自分。

虚栄、鏡、化粧、筋肉、車、家、ブランドものの衣服に心奪われている自分。

あなたの生活を追いかけて、心の中を覗いてみるなら、自分についての数多くのこと、心の中にある数多くのこと、他人が自分についてどう思っているのかをあれこれ思い詰めて、彼らを魅了したり、彼らの注目を浴びるためにあらゆる努力を惜しまない。

一方、神の心を惹こうとは思わない。

つまり、まだ悔い改めていないなど、何かあるのです。

そして、地獄に落ちます、必ず。

その大いなる日に驚愕するでしょう。

「ここから出て行け。悪をなす者。私はあなたを知らない」と言うのを聞きます。

「ここから出て行け」においてイエスの言わんとすることは、イエスと関係があると言いながら、従うべき法がまるでないかの如くに生きているということ。

毎週日曜日、私があなたがたの前に提示した重要事項を真剣に受け止めない人がいます。

そういう人は鈍感であり、世俗的であり、肉的です。

「あなたは私のものではない。」

それを言うのはいやなことです。

だから、穏やかに話しているのです。

しかし、それは事実です。

今から敬虔となる方法を教えます。

しかし、ここにいる人の中に全く関心のない人がいます。

敬敬になるなんて興味がないという人。

私と議論したいのであれば、「証拠を見せろ」と私は言いたい。

どれ位の時間を、鏡の前で使っているのか教えて欲しい。

どれ位の時間を、神のことばの前で使っているか教えて欲しい。

どれ位の時間を、人間関係を保つために使っているか教えて欲しい。

一方で、神を満足させるため、主の御前で自分を磨き上げるために時間を全く使わない。

よくよく注意して欲しい。

この主日が終わるのを只々待っている人がいます。

この後のお楽しみの時間のために。

恐れて欲しい。

これは素晴らしいことであり、重要なことです。

あなたがこれまで受け入れてきた中で最悪なもののひとつは、評判を得るためのしきたりを与える見栄えのよい宗教を引き受けたことです。

しかし、あなたの心にはキリストに対する愛がない。

大いに恐れなさい。

ヨハネの福音書15章1節を始めます。

わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。

先の箇所(マタイ7章)に関してはすでに話しましたが、もう一度話させてください。

私にはこのことに関して負い目があります。

この聖書箇所の言わんとすることが分かりますか。

イエスは、「私を言葉で否定する者が皆除かれる」とは言っていない。

「公けの場で私に敵対する者が皆取り除かれる」とも言っていない。

主は、自分を主と告白する人たちについて話しています。

ぶどうの木につながっている枝のふりをしている人たち。

「真に私に属しているという証拠は、実を結ぶことであると主は言います。

あなたがたに聞きたい。

「あなたは実を結んでいますか。」

「あなたは実を結んでいますか。」

何故このように強調して言っているのでしょうか。

何故なら、外に追い出されて、地獄に落ちる日が来るからです。

最後にこう言われるでしょう、「あなたは実を結ばなかった。」

あなたは実を結んでいますか。

さあ、答えて下さい。

もしもそうでないなら、どうなるでしょうか。

彼、すなわち神は、あなたを取り除くでしょう。

神が取り除くとはどういう意味でしょうか。

あなたはひとりの人間です。

あなたの父も母もクリスチャンかもしれない。

彼らは教会では目立つ存在かもしれない。

しかし、あなたの心は闇の中にあり、この世を望んでいる。

あなたは枝であると言い張るかもしれない。

自分はちょっとした道徳心がある人だと言うかもしれない。

しかし、大いなる日に、あなたに何が起こるでしょうか。

取り除かれるとはどういう意味でしょうか。

6節、「私に止まらない者はだれでも、枝のように投げ捨てられて、干上がる。そして、集められて、火の中に放り込まれて、焼かれる。」

「神はひとりも地獄に落とさない」と言うことが今日の福音主義に共通する考え方です。

この考え方は、われらの主救い主イエスキリストのことばとは真逆であることを知って欲しい。

主は弟子たちに警告しました、「ローマ軍を恐れてはいけない。」

それが、弟子たちに話したことです。