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書道家Syuunの忘れ物

趣味のパソコンやカメラの実機レビュー、書道展の情報発信、CyberLink MVPなのでYouTube配信をしています。

TDS & TDL イン・東京ディズニーシー・ホテルミラコスタ  その2

2009-08-15 20:20:42 | インポート

TDS & TDL イン・東京ディズニーシー・ホテルミラコスタ 
その2

今年のお盆休みに出かけることを想定していなかったのが、偶然予約が取れてしまって予定が11日から13日まで。
11日は台風と早朝の地震と相まって散々な日だったはず、本来午後にでも着けばよいと考えていた節もあったのだが、朝6時前に出発した。Img_1108_2
台風とはいうもののその時は雨が降っていなかった。
関越高速と外環道を走って、実際雨が降ってきたのは首都高速6号へ入った時で、大雨を予想していたのに拍子抜けだった。
以前は、平井大橋手前あたりで大渋滞という筈なのだが、多少小菅JCTあたりでのろのろになったくらいだ。Img_1102_2
それにしても日産のカーナビは「川口JCT」から銀座方面への近道を必ず選択する。
そちらは渋滞だろうと表示が出ているのに、高速では絶対に渋滞を回避しない妙なカーナビなのである。
兎に角今年は、GPSレーダーGL957がカーナビに続けて分岐、合流、パーキングエリアと言ってくるから、煩いくらい確認は良く出来て目を覚ましてくれるというもの。
そして、小雨の中午前9時5分にホテルミラコスタに到着。
ホテル入り口ゲートに係員かホテルの人がいないのは、妙とはいうもののそれはホテルミラコスタのオープン当初の感じだ。
昔は、ゲートを通過するのに入館証みたいなものを送ってきた。
しかし、最近のPC予約自動配信メール受付だと、メールの控えのコピーか「予約詳細」の印刷をするしかない。
9時を廻って既にTDSはオープンしてしまっているのだが、ホテル内ロビーでは何を待っているのかそこら中のシートは占拠されたまま。
ホテルミラコスタのロビーというのは、何時も子供が走り回っていたりして、いきなり高級ホテルのイメージを崩すというのがこういうところだ。
逆に言うと、まともな格好をしている人ほど浮いて、何しに来ているのか訝るくらいである。
小雨、このまま3時くらいまで雨と言う事も考えられたから、今回無理して「3-Day MagicPassportSpecial」と言うものにした。
発行時間を見たら9時24分だったからTDSには、9時30分には入場していた。
Img_1089_2
ホテルミラコスタでパスポートを買うと言うのは最近のことで、今回のようにディズニーホテルでしか特別バージョンのものは買えない。
いずれにせよ今まで何回もあった台風のTDS、TDL。
2001年10月中旬に来たときは季節外れの台風でTDL・2日間土砂降りだった。
翌年の6月は梅雨に入った日に到着したし、子供が小学校へ入った時も初日が台風で、ずぶ濡れ。1日目は早々に引き上げてイクスピアリで買い物という嵌めに。
但し、夜9時過ぎに台風が去った後5分待ちで乗った「センター・オブ・ジ・アース」から見た夜景が綺麗だった。Img_1096_3
そんな感じて「センター・オブ・ジ・アース」を目指すものの、雨のため70分待ちでFPは13時以降。
それではと「インディージョーンズ」の12時前後のPFをとって、その頃には段々雨が止んできたのでレイジングスピリッツへ。
やはり台風の時は、室内のアトラクションというわけか、最近そんなに混んでいない筈の「インディージョーンズ」が結構混んでいた。
「レイジングスピリッツ」に並んだ時は雨も止み、15分待ちで直ぐに乗車と思ったら、あっという間に長い列になった。Img_1109_3
朝食を済まし、「マジックランプシアター」で時間をつぶしている11時頃には青空が出て、あれれなのである。
待ち時間に携帯電話のワンセグを見たら台風が逸れている。
10時半前に「レイジングスピリッツ」のPFを取って「インディージョーンズ」。Img_1110_4
エレクトリックレールウェイでブロードウェイ・ミュージックシアターへわざわざ行ったら「ビッグバンドビート」は、出演者の病気で休演中だとのこと。
今度は、PFの時間が来たのでトランジットスチーマーラインでまたまた「レイジングスピリッツ」へ。
結局、3時からイクスピアリに買い物に出かけ4時30分から入れるホテルミラコスタの部屋へと言う次第。Img_1124_3
それからアラビアンコーストの「ボンファイアーダンス」が18時40分から、よく見えなかったのでそのまま待って一番前に出で19時55分から。

こんなので1日が終わってしまった。
お盆休みというのは、早出でFPを取りまくって終わりと言うのが原則だから、大してアトラクションに乗れないのは仕方がないもの。 Img_1132
翌日12日は、TDLには「ディズニーホテル宿泊者専用のエントランス・通行証」があるからそれに期待というものであった。Dscf1119_2
2009/08/11の万歩計・20507歩。


TDS & TDL イン・東京ディズニーシー・ホテルミラコスタ その1

2009-08-14 23:37:37 | お買い物・新名所など

TDS & TDL イン・東京ディズニーシー・ホテルミラコス 

その1

今年の夏、11日の台風一過の後連日晴れマークが続く。正に、梅雨明けが8月11日にずれ込んだ感が強い。
今から考えれば8月11日というのは思い出深い日だった。それはなんと45年も前のことだったから忘れてしまったと言うのも仕方がない。
それはさておき、今年の夏の旅行は8月1日に急遽9日以降の1週間にミラコスタ(Miracosta)が取れないかという家族の願いから、東京ディズニーリゾートのバケーションメーカーを覗いたことから始まる。
丁度14日前からのキャンセルが反映されたのか、11日からストカナやベネチアンサイトのスーペリアル、トリプルルームが結構空いていた。
いわゆるキャンセル待ちで予約が取れた感じなのだか、「キャンセル待ち」だったから2泊が中心で、1泊というのは少なかった感じがする。
東京ディズニーリゾート系のホテルというのは、ホテルミラコスタが出来た2001年にディズニーアンバサダーホテルに泊まった。
古いことを蒸し返すようだが、このディズニーアンバサダーホテルというのは、宿泊料金はホテルミラコスタと変わらないものの最低レベルのサービスのホテルだった。
正面玄関に車を着けられないから、荷物は車に入れたままか直結する駐車場から自分でホテル内に持ち込む、又自分で持って行くという次第。
その上、TDS、TDLには繋がっていないし、ミッキーマークの連絡バスはいくらも乗れないから客を積み残して平然と出発。
うちでは幼稚園年中組だった子供だったから、幼児としては怖い乗り物が多いTDS、TDLでは、まあそれでも良かった。
しかし、翌年からホテルミラコスタにしか泊まっていない。
どういう訳か、ホテルミラコスタの方がまともなリゾートホテルの感じがある。
今では接続して立体駐車場を完備したから駐車場まで自分で車を置きに行くが、2002年当時は正面玄関に車を乗り付け、荷物と車を預けてそのままTDLへ入ることが出来た。当然、今でも部屋まで荷物持っていってくれるサービスは変わらない。

2002-3年頃泊まったホテルの部屋としては、ポルト・ パラディーゾ・サイドスーペリアルームの「ハーバービュー」という内訳が細分化されていなくて、全て同じ料金の頃。
半年前の朝10時に一番で予約が取れた時でさえ今で言う「ピアッツァビューの部屋」しか取れなかった。
その後諦めて、今では北側の入り口に面したストカナサイドに泊まっている。
ここ二年不思議なことに、同じ位置で入り口の地球が見えるところだった。Img_1098

実際、毎年のように行っているとパラディーゾのショーを見るつもりもないのでストカナで充分である。
この一番安い部屋でさえ、二泊でルームチャージ\110,000(\55,000×2)。その上、駐車料\3,000が加わる。
今回、出発直前に調べたところによると同時期ギリギリ1週間を切る時点で3人、1泊でヒルトン東京ベイで\37,000程度だった。
だから、\36,000程度のメリットがなければホテルミラコスタに価値がないと言うものかも知れない。

ホテルミラコスタのメリットとは、元々疲れても直ぐにホテルの部屋に帰れ、リゾートラインに直結していることぐらいだっが、最近の種々のサービスが充実してきた。
それは、昨年のゴールデンウィークに経験したことで「ホテル専用ゲートからの早朝の入園」のみならず、スチーマーラインの上ぐらいの橋の先まで入場出来たことである。
同時に、午前中に行われるショーに早くから並べ特等席で見られることであった。
Img_1154
それに今回は、ホテルミラコスタなどのディズニーホテル宿泊者のみ、TDS、TDLの両方を利用できるパスポートが発行されることになったこと。
そして、ディズニーランドでディズニーランドホテル専用の入場口が設けられたことである。
実際使って見て、結局3days magic passportで3日目だけTDS、TDLの両方に入園したが、1-2日は入園しなかったから3人分5,400円無駄になった。
一方、「ディズニーホテル宿泊者専用のエントランス」は、「通行証」が必要でホテルで宿泊者のみ配られる。
実際利用してみると8時開門は同じでも入園口が多く、秒単位の時間を争う開園直後では、FPを取る分には圧倒的に有利であった。Img_1153


サイゴンの火焔樹・副題・もうひとつのベトナム戦争 ・牧 久 (著) を読む その1

2009-08-09 22:37:52 | 雑感・どうでも良いこと
サイゴンの火焔樹・副題・もうひとつのベトナム戦争 ・牧 久 (著) を読む

その1

ベトナム戦争に関する著作はたまに気がつくと読んでいるのだが、それは自分の青春時代に散々騒がれたことからだろう。
大学時代どこかの講習室の廊下に「反戦のポスター」が貼ってあったのを今で思い出すのである。どんなポスターだったかの黒地に「No!Nixon」だったかも知れない。
しかし、1975年(昭和50年)にどこかの赤い国旗を掲げた北ベトナム軍の装甲車が大統領官邸の門を壊して侵入し、国旗を掲げたのはTVでも散々報道された。
そして、その後のポートピープルの報道。ベトナムのカンボジア侵攻。
北ベトナムがベトナムを統一してのその後、ベトナム戦争の実態が明らかなにるにつれ、TVでも二夜連続に亘る特番がなされた。
米国を非難した米国マスメディアは沈黙を守り、逆にベトナム戦争批判を繰り返したジェーン・フォンダは自己批判をする羽目になった。
そして、日本ではあれほど騒いだ「べ平連」は、南ベトナム陥落以降全く知らぬふり。正に蛙の顔に何とやらであった。
思えば1970年頃は、小田実氏は東大助手で代ゼミの英語講師をしていた。
聞くところによると、英語授業より米国批判の講義の方が多かったと当時の受講生から聞いた。但し、小生は講習を受けたことがないので確認しようがない。
いずれにせよ、そう言う似非反戦家の扇動にも乗らなかった。
1970年と言えば、70年安保で大学紛争が激化した頃だった。

そして、今回某ブログの紹介もあってこの「サイゴンの火焔樹・副題・もうひとつのベトナム戦争」を読んでみることにした。

以前に読んだ本は、「ベトナム革命の素顔・タイン ティン(著)、中川 明子(翻訳)」(2002)であって、ドイモイ政策後であっても共産党の特権階級としての腐敗。
何の知識もない共産党員の妻が突然大病院の院長になったり、各種の搾取。ベトナムという国の共産革命とは何であったのかの疑問を解くものであった。
その他は、 ベトナム戦争の「戦後」中野 亜里 (編集)2005。
この中では、「第2部ベトナムの戦後と関係諸国、第1章日本から見たベトナム戦争とその戦後(渡部恵子・読売新聞英字新聞部記者)」では、ベトナム戦争を知らない世代による「推測」。
どう考えても、小生などの認識とは全く別なベトナム感。そして日本の歴史に対する無知が日本断罪を行っている。

「サイゴンの火焔樹」は、牧久という当時日本経済新聞記者が1975年3月陥落直前の南ベトナムへ「サイゴン・シンガポール特派員」となり、9月29日朝国外退去命令が出て、10月31日朝強制退去した8か月の記録である。
持ち出せたものは、身の回りの衣類、アオザイ人形と小さな漆塗り2点のオミアゲと30米ドルのみ。
その間、陥落後記事を南ベトナム臨時革命政府の目を盗んで日経新聞に送り届け、その日経新聞に送った記事が300ページまでの主要な内容になっている。
実を言うと、ここまでの記事というものは実際本を読まずとも以前TV特集で充分おさらい済みであった。
だから、読んでいてその内容を再度確認すると言うものだったのだが、南ベトナム臨時革命政府との折衝、記事は概略掌握していたものの牧氏のスクープ記事だから初めて聞く話もあった。
実際、その南ベトナム臨時革命政府の首脳の希望とベトナムの真実の姿を報道してしまったために「危険人物」「スパイの嫌疑」をかけられ強制退去になった。
しかし、あとで判ったことかも知れないが南ベトナム臨時革命政府としては、牧氏の報道をかばい通して、最終的にはハノイの共産党本部の命令によったらしい。

そして、後半第2部「歴史に翻弄された人たち」に書かれている在留元日本兵について言及している。
感じるところ前半の第1部は、自身のベトナム特派員としてのメモワールとして当然としても、100ページもある第2部が本当は書きたかったのではないかと思う節がある。
それは、ポートピープルの真実とその背景であり、出会った元日本兵(第2章元日本兵と民族解放)である。
その中で、元日本兵は南と北に別れて存在していることを述べ、その人達が元日本の特務機関出身だったりすることを明らかにしている。
それによって、日本経済新聞の牧氏の日本で掲載された記事は全てハノイでチェックされていたことが明にさせている。

1940年9月日本軍が仏印(フランス領インドシナ)に進駐するのは、ヴィシー政権(親独)下のフランス領である。日本は、このヴィシー政権と協定を結んで「蒋介石への援助ルートを絶つ」(蒋援ルート)と言う名目で進駐した。‥‥軍事に関しては日本、政治経済はフランスが主導する。
日本が降伏した2日後の1945年8月17日以降、ベトナムではベトミン、フランス軍、中国雲南軍、国民党軍がベトナム北部で戦闘が繰り返され、日本軍の将兵と武器の争奪戦が行われた。
この中で、ベトミン軍の中核になった脱走日本兵は約4,000人だという。(大森実・「ホー・チ・ミン不倒の革命家」)この日本兵は、ベトミン士官学校の幹部養成に関わり、軍事教練もした。その後暫時引き上げが始まって、最終的に残ったのは7-800人といわれている。(サイゴン寿関係者)

この辺のところは、小生としては断片的にしかよく知らない。
しかし、イントネシアにしろベトナムの初期のベトミンにしろ中核となって戦ったのは旧日本兵だったし、日本軍が残した大量の武器弾薬、物資だった。
この軍事物資によって中国共産党八路軍は強力な軍隊を組織できたし、ベトミンは民族解放の助となった。 ベトナム戦争の「戦後」中野 亜里 (編集)2005
「第2部ベトナムの戦後と関係諸国、第1章日本から見たベトナム戦争とその戦後(渡部恵子・読売新聞英字新聞部記者)」
では、○年表の出来事ではなく
で「また、私事になるが、ベトナム人の義父(筆者の夫はベトナム人)が、私の友人に問われるままに、『仏印進駐時代に日本軍が、米の徴発の猶予を願い出たベトナム人を軍刀で袈裟懸けに切ったのを見た』というのを耳にしたことがあった。」と言う部分がある。

戦後日本の教育として、反戦と共に旧日本を嫌悪する教育を行った。
それと同時に、日本の過去の歴史というものをある種の一辺倒の考え方に固定した。
それは、あたかもGHQが日本人に与えようとしたWarGiltProgramそのままに過ぎない。
しかも、日本人の軍事に関する無知というのは救いようのないレベルまでに達してしまっている。
「軍刀で笠懸斬り」‥‥例の虚構「100人斬り競争」を思わせるではないか。
軍人の持っていた軍刀とは、大方指揮刀でなまくらだったのは有名である。

そして、ベトナム共産党のなどの共産主義者に共通なのは、人に助けてもらっても助けてもらったとは決して言わないことだ。

穂村弘氏の「『受け取らない』重圧…」の「気くばりのなさ」の疑問

2009-08-08 12:13:50 | 雑感・どうでも良いこと
穂村弘氏の「『受け取らない』重圧…」

の「気くばりのなさ」の疑問

読売新聞平成21年8月4日(火)夕刊「いま風・火曜日」に穂村弘氏の「『受け取らない』重圧…」・配られるマナーという記事があった。

最近の読売新聞を見ていると、尻尾を出さない朝刊に比べて、あまりたくさん見ていないと思われる夕刊に時々妙な事が多い。
毎週金曜日には、例の「紫舟」という自称女流書家が見るに堪えない題字を書いて、悦に入っているし、鈴木美潮記者のdonnaでは度々カリスマ記者の馬脚を現したりする。
読売新聞2009/07/14夕刊掲載「鈴木美潮のdonna」というコラムでは、読売書法会の先生方は事実上コケにされて見るも無惨だった。
それで今回は「マナー」と言う事なのだが、穂村弘氏は「駅前などにティッシュを配っているひとが立っていると、緊張する。」‥‥そして、「受け取らない決意を固める。」とある。
内容はたわいもない事で、ティッシュをもらっても「花粉症でもない私はティッシュを使う機会がほとんどない。」
それで、「鞄の底に放置されたティッシュは半年もかけて、少しずつぐじゅぐじゅになってゆく。捨てるにも気合いがいるのだ。」
こんな事は、文章に書いて人に見せるなど馬鹿馬鹿しい事だ。子供が夏休みの宿題での作文だったに間違いなく良い点は付かない。
もらったティッシュは、必要がなければまとめて箱にでも入れておけばよいのであるし、最近ではこのティッシュを使った日常使用に使えるケースだってある。
何も「鞄の底に」詰め込んで持ち歩く必要もないのだ。
小生など実際、ティッシュはかなり使う。
パソコンプリンターのインクの詰め替えには新聞広告を下敷きにするとしても、最終的にはティッシュ。そして、このインクの詰め替えこそ「エコ」だ。
その他、CD・DVDの清掃なら何やらそれこそ「鞄の底に放置されたティッシュ」の活躍の場は大きい。但し、ティッシュにはローションが入っていることもあるので注意。
まあそれは兎も角も、穂村弘氏はそんな事を言っているのではない。

「普段ティッシュを配っているひとが、渡される立場になったとき、どうしているのだろう。正解を教えてもらいたいものだ。」
という実に馬鹿馬鹿しいことなのだ。
この歌人でもある穂村弘氏と言うのは、簡単なバイトでもやったことがないのだろうかと不思議に思うことである。
何故なら、「ティッシュ配り」というのは、大方バイトだからだ。
大きなダンボール、2-3箱全部配れとかいうもの。全部配ってそのバイトは終わる。
配れなければ、何時までも立ちん坊をしていなければならないというものだ。
そうであるならば、気軽にもらってあげると言うのが「親切心」と言うものだろう。
だから、穂村氏の質問の回答は迷うことなくは、「喜んでティッシュをもらう」なのだ。
物事を考える時、常に他人の立場において考える。
その昔NHKの鈴木健二氏が「気くばりのすすめ」の本を書いていたが、実際「気くばり」が出来るようになるというのは、欲がなくなってある程度年を取ってからなのかも知れない。
逆に言えば、「気くばり」が出来ない人というのは若いのかも知れない。

この文章では「マナー」を説いているのだが、実は「気くばり」というマナーを欠いてしまっていることを暴露したお粗末なものだった。

日産HDDナビ・バージョンアップ・GPSレーダーGL957

2009-08-07 23:22:33 | 日記

お盆休みを前にして、漸くカーナビのバージョンアップをした。
これは、購入から車検までの間に1回だけカーナビの地図ソフトのバージョンアップが出来るというもの。
昨年、カーウィングスに関連して不具合が生じて、旧バージョンのカーナビ機能だけは12月にバージョンアップした。
このバージョンアップによって、カーウィングスの不都合は解消されかつ、ウィルコムのデーター通信端末でCDの曲名も付けられるようになった。
それから今回では、地図ソフトの更新も含めてだから北関東自動車道で伊勢崎の先から「空」を飛ばなくて済む。
鯉沢バイパスも正常に走れる。但し、それはそこまで行かなくては分からないもの。それで違ったのは、起動するとカーナビが挨拶する事ぐらいなものだ。

但し、次回有料ではいくらかと聞くと25,000円位とバカ高。性能の悪いオプションカーナビというのは全くぼったくるものだ。
ホンダならデー ター通信を通して常時更新してタダ。全く日産というのはどうかしている。それだけでなくもカーウィングスもサービスが悪化して使えないものになっている。

近年、ジェームスなどの車用品店の広告がよく入るのだか、訳の分からないレーダー探知機があった。それは、コムテックGP-XX01というもの。
メーカーのHPを見ても掲載されていない代物。
それで最新型と言うではないか???実際よくよく見たら「指定店モデル」という量販店用のGL847の変形モデル。要するに価格競争させないモデルというヤツ。
そして、この手の下位のものは、バージョンアップにパソコンとUSBで繋いで行う。
手軽で良いと言うものの車から本体を外すか、ノート型パソコンを車の中に持ち込まないとバージョンアップが出来ない。
その上、外せば直流12Vの電源がいるし結構やっかいな代物だ。
そんなこんなで、HPを調べていたらGL957だけでなく「2009/7/1」の更新データーが掲載されていた。
だから、最新の物を買ったとしても更新しなければ、2009/3/2配布のもので「2009/1/27」というバージョン。
GL957は、以前のモデルから踏襲しているMicroSDカード更新である。
ここで、microSDが2GBまでという古いタイプであるとがミソ。
今こういうものは、激安になっていたのでベイシア広告にあったKingstonの698円のmicroSDを買う事にした。
Img_1086 電源は、アマ無線をやっていたから腐るほどある。
腐ってしまったものもある。

それで「秋月電子」の12V-2AのACアダプターを使う事にした。

近年と言っても、随分前からだが、スイッチング電源が発達してこんな高性能の電源が出来ている。
これに、シガーライターソケットを接続して電源とする。
そうすれば、車を30分アイドリングさせておく必要もない。

ダウンロードしたファイルをSDに単にコピーすれば済む事なのだが、ダウンロードファイルにはコピーソフトが付いてきている。
要するに、SDをフォーマットして必要ファイルをコピーするというもの。
実際大きなお世話のようなソフトで、デジカメのバージョンアップをやっている身としては、何ともまどろっこしい。

但し、やり付けない人には良いかも知れない。
それで、SDを本体にセットしてバージョンアップ。
説明書では15分とあったが、その頃は82.5%程度だった。だから20分あれば終わっていたのだろう。
あっけないと言えばあっけない。
いずれにせよ、これで最新型になった。
しかし、色々な物を持っていないと結構面倒な仕掛けのバージョンアップだった。

Img_1082 昔のシリーズ方式。
即ち、トランスを利用した安定化電源。

ハンディトランシーバー用のDC13.8V-3Aと10Wモービル機用の4A電源。

4A用は何故か故障。
だから、今はDC13.8V可変30A電源を利用している。

5A電源もどこかにあるのだが現在しまい亡くしている。


第61回・毎日書道展・会員賞受賞作家による揮毫会  その4

2009-08-06 22:00:42 | インポート
第61回・毎日書道展・会員賞受賞作家による揮毫会 
その4

○福富玲茜先生(篆刻)



篆刻の揮毫会というのもおかしなものと言えばそうである。
従って、篆刻の手順を説明するという事になっている。





彫る印面に草稿を描く。

印刀を見せて、これで刻します。




残りの黒い部分を刻して終了です。






これで完成ですが、去年と比べてどことなく簡易な気がしました。

【障害情報】Broachに接続しにくい状況について(8/6 18:30現在)

2009-08-06 20:50:13 | インポート

【障害情報】Broachに接続しにくい状況について(8/6 18:30現在)

Broachスタッフのマサヤです。
お世話になっております。
現在のBroachの接続障害についてですが、原因について継続調査中です。
ご迷惑をおかけして誠に申し訳ありません、
また、今晩よりサーバの負荷低減のためクローラーやボット等を使った機械的アクセスについて制限を行います。
障害の解消に向けた進捗がありましたらまたご報告させていただきます。
よろしくお願いいたします。

メンテナンスの最新情報についてはメンテナンス・障害情報をご覧ください。
「メンテナンス・障害情報」


第61回・毎日書道展・会員賞受賞作家による揮毫会 その3

2009-08-04 11:50:00 | インポート
第61回・毎日書道展・会員賞受賞作家による揮毫会 
その3

種家杉晃(漢字)先生‥‥神奈川・創元





からだ全体を使って揮毫してます。
主催者側から使っている筆は高価なのではと言う問いに、中国から毛を仕入れたものを日本で加工しているのでさほどでもないとか。






完成作品です。
揮毫したのは、会員賞を貰った作と同じ文字とのこと。
1回だけの揮毫でしたが、もう一枚書いて欲しかった感じがします。

それにしても、2009/08/03-4日サーバーがハングアップしたのかほとんどブロクが開けなかったのにはまいった。
特に書込が出来ないのはどういうことか。
Broachの管理はどうなっているのか、
「[発生日時]2009/08/04 11:10頃
[復旧日時]2009/08/04 11:45頃
[障害原因]
[更新日時]2009/08/04 11:46」

名将の采配「城濮の戦い」 (最終回)

2009-08-02 13:19:54 | インポート
名将の采配「城濮の戦い」 (最終回)

NHKの番組では、晋の国王・「重耳の名采配」をなどと言っているが「城濮の戦い」を直接指揮したとは史書には書いていない。
この古代春秋時代、直接作戦指揮をしたらしいのは800年続いた楚の名君中の名君・荘王くらいなものである。
小君子を別とすれば、当時の晋などの大国では宰相が軍隊の指揮を執ることが多い。
「NHKの名将の采配」は第4回から見てきたが、番組評にあった「正確な時代考証」によりなどと言うのは大嘘であった。戦争シーンを単純にするのはよいとしても、その本質や実態を説明しないのはどう考えても粗雑としか思えない。
さて、主題の「城濮の戦い」、一口で言えば晋の全軍の大軍でもって、少ない楚軍の遠征軍を滅多打ちにした一方的な戦いであった。
その戦いの趣旨は、晋軍は楚軍を如何にして全滅に近づけるかであって、勝利の趨勢は決まっていたというもの。
NHKの名将の采配では、晋軍は戦車約700乗で約7万。楚軍の戦車約700乗で歩兵を晋軍を上回ると説明し、9万人と設定した。
しかし、楚軍兵力は史記に記されていない。
「春秋左氏伝」によれば、楚軍全軍のうちの中軍の将・子玉を差して批判したものがあって、「300乗以上の兵車」と記しているものがある。
宮城谷昌光氏は、小説「沙中の回廊」の中で推定で楚軍は兵車300乗で兵力約3万、同盟軍の陳軍、蔡軍を加えても約4万に満たないと推定している。

もともと宋を攻めている楚軍に対して、斉と秦が楚の成王を説いて宋の攻撃を止めさせたことから始まるのが「城濮の戦い」の前哨というものである。
しかし、その時楚軍の中軍だけが宋の商丘を離れず晋軍を追撃しようとしたのである。
楚の成王は、中軍の将・子玉(令尹・宰相)に撤退命令を出したもののそれに従わず、根負けした成王は、撤退途中の陳と蔡軍を引き返させて子玉に付けてやったというのが史書に書かれている史実である。

そして、楚軍を待ち構えていたのが晋軍全軍の7万、斉、秦、宋連合軍2万5,000。
合わせて9万5,000である。
だから戦いに参加したのは晋軍のみであって、他の連合軍はお手並みを拝見とばかりに高みの見物なのである。
楚軍は、包囲されないように城濮の崖下に布陣して戦った事で分かるように、劣勢である。但し、それでも晋軍と戦ったのは、混乱の時代が長かった晋軍というのは軍隊が劣勢であって、かつ晋の重耳が晋公となってまだ日が浅く、その配下の重臣達を甘く見たと言うのが真相だろう。
昔から言われている通り、「1匹の羊に率いられた1000匹の虎より、1匹の虎に率いられた1000匹の羊の方が強い」とはよく言ったものである。

「行政書士の権限逸脱」大阪弁護士会、NHKドラマにNG」(2009年7月30日03時09分  読売新聞Web)と言うのがあった。
「NHKが4~5月に8回放映したドラマ『コンカツ・リカツ』で、行政書士役が離婚問題をアドバイスするシーンがあり、大阪弁護士会(畑守人会長)が『弁護士以外が報酬目的で法律事務を取り扱うことを禁じた弁護士法に違反する』としてNHKに抗議書を送っていたことがわかった。‥‥中略‥‥ドラマの行政書士役については「法的手段や法律解釈に踏み込んだ見解を示し、行政書士の職務権限を逸脱している」と主張している。」

今更行政書士が出で来るのも妙なものだと思うのだが、行政書士という資格は確か試験、その他弁護士、司法書士、弁理士他、「20年(高等学校を卒業した者は17年)以上公務員(又は特定独立行政法人、特定地方独立行政法人)として「行政事務」に相当する事務に従事した者(第2条第6号)・出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」で行政書士会に登録しなければならない。

只、実際の話をかって聞いたところによると、大学の一般教養を終了していれば取得出来る県もあった。
はっきり言って、行政書士とは昔から言っている「代書屋」。
要するに、難事の相談などないからこの代書屋に頼まなくても本人が申請すれば済む事。
公官庁の書式がネット上に掲載されている現在、仕事はどうなのかなと思ったりする。
NHKもいい加減にして欲しいものである。

第61回・毎日書道展・会員賞受賞作家による揮毫会 その2

2009-08-01 15:28:00 | インポート
第61回・毎日書道展・会員賞受賞作家による揮毫会
その2

二番目は、佐藤有苑(漢字)先生です。
‥‥六友・茨城。
佐藤先生は筆を忘れたので、新しい筆で書きます。
‥‥‥と墨の濃度を気にしながら、一枚試し書きをして書き始めました。



横にある紙が、試し書きのもの。
多分、筆と紙の感じを確かめたのかも知れません。



今記憶をたどってみると揮毫者の紹介はあまり記憶にありません。
但し、漢字部門3人の受賞作品をコピーしたパンフは配られました。


鈐印して完成です。



次回は、
種家杉晃(漢字)先生です。