書道家Syuunの忘れ物

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陰徳を積む―銀行王・安田善次郎伝を読む

2010-09-26 23:45:28 | 映画、書評など

陰徳を積む―銀行王・安田善次郎伝を読む

「陰徳を積む」この伝記の著者は北康利で、元富士銀行の行員だった人物である。そうでないと色々妙だなという部分に納得が行かない。
前回、「儲けすぎた男―小説・安田善次郎」という伝記を読んだのだが、その伝記は富山からで出来てから安田銀行を起こすまでで止まっている。
簡単なその後の紹介もあるというものの全体像がつかめないと言うものであった。
一方、この「陰徳を積む」の方はより詳しく書かれていて「安田善次郎」に迫るものである。この様に「安田善治郎」に迫ることが出来ることとして「安田善次郎」は「日記魔」であり「写真好き」であって、毎日日記をつけていたことである。
従って、その面影というものがおぼろげに伝わってくるものがある。
この伝記では「陰徳を積む」と言うことを題としているだけに、「安田善次郎」は見えないところで慈善をして、余り世間には知らしめなかったようなことを主題にもしている。
別の言い方をすれば、「しみったれ」、「けちん坊」、「吝嗇」ではなく、それなりに施しを各方面に多大にしていると示したかったようだ。
社会に対しては、潰れた銀行を救済する傍(かたわ)らその担保となっていた船舶、鉱山、紡績事業などを安田財閥傘下に組み入れ、膨大な資金を背景に一大産業にする。
そう言うことが、社会貢献であるというように筆者北氏は書いている。今で言えば、M&Aとか、投資ファンドがやっているようなことである。
しかし、それは安田銀行の業務の一環であって結果として富を生み社会貢献や慈善事業とは違うものであろう。
確かにその点において「安田善次郎」は先見の明が良く効いて、間違いなく救済する事業を見極めるなど戦略眼を持つ希有な人物であることは間違いない。
だからといって「陰徳を積む」と言うわけではない。
又、「泣いて馬謖を斬る」という章で婿の後継者・善三郎を更迭する。要は余り儲かりそうもない製造業からの撤退という結果を生む。やはり「安田善次郎」の戦略眼は特段に優れていた。
さて、「安田善次郎」はケチではなかったと著者は力説するのだが、本当にそうだろうか。ここで明治8-9年頃の安田商店の給与(給料)が示されている。
「この頃の安田商店の給料は忠兵衛で10円、課長クラスは5円であった。当時、巡査の初任給が4円だったというが、今より巡査の社会的地位がはるかに高かったことを考えると、安田商店の給与は平均的なものだったのであるまいか。」
これは、忠兵衛という番頭・支配人クラスで10円、手代・課長クラスで5円、丁稚・行員クラスは?という話である。
そして、巡査の給料を引き合いに出して比べているというのはあまりにもひどいのではないか。元々当時の巡査というのは士族を中心に募集されたから「社会的地位がはるかに高かった」と言うことは確かだが、給料という部分ではかなり薄給であった。
ここで司馬遼太郎「坂の上の雲」第1巻に主人公の秋山好古に関することで給与についして書かれている。
時期も明治8年だから符合するので記しておくと、(秋山好古検定教員4か月)
小学校の助教(5等助教・代用教員)になると月給7円。(河内四十五番小学校)16歳
正教員になると月給9円。「野田小学校」
この「野田小学校」の平岩又五郎こと「紅鳥先生」月給17円。
明治9-10年秋山好古師範学校卒業、三等訓導・月給30円18歳。
又、正岡子規が「明治25年、26歳で日本新聞社ら入社した時の給料が15円であった。」とも書かれているものの、これはかなりの薄給だったはずである。

こんなことから見ても、「安田商店」の給料の安さというのは半端ではない。当時の水準から言えばこの2-3倍の給料をもらっても不思議はないと言うものだろう。
著者は「安田善次郎と言うと『ケチ』という評判がついて回る。」
「実際、晩年には寄付を断ることが多く、結局そのことがもとで朝日平吾に刺殺されるという悲惨な最期を遂げたために、『ケチ』というイメージは鮮烈な形で定着してしまった。」と書かれている。
続けて、著者は「壮年期までの彼は、これまで見てきたように一般の金持ちが普通にするように寄付を頻繁に行っている。」と弁解している。
例えば「明治13年12月、東京で火事があった折も、180円の見舞金と酒十樽を被災者に贈った。」その後を加えて380円というのだが、逐次投入型の寄付と言って良いだろう。
そして、そんな寄付というのは実は当時の「金持ち、大尽」と言う人達は頻繁に行っていたことは確かなことである。
時は、小さな政府の時代で税金を払っていない人達など数多かっただけでなく、社会保障などはなかった時代。そう言う補完的な事柄というものはいわゆる素封家という人達によってなされていた。
だから、「安田善次郎」の寄付というのは今の水準で言えば高いかも知れないが、当時としては当たり前のものだったのかも知れない。
そして、寄付をしたからと言って何かに名前が出ると言うこともなかったと言うより、成功者は地域に還元するというのが常識だった時代でもある。
又、当時の伊藤博文のチップが100円だったことを考えると、180円というのもなにか妙な気がする。
そして、著者が富士銀行に入ったときには、安田銀行の面影を消すようなと書かれているが、その吝嗇は十分に受け継がれていると思われた。
なぜなら、その昔富士銀行というのは、大口預金者でも富士の絵が描かれていたカレンダーを1枚しか渡さなかった。
思えば昔爺様が「富士銀行のカレンダー」なんだと妙に喜んでいたのか、自慢していたのか目立つところに常に貼っていたのを思い出すものである。

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