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書道家Syuunの忘れ物

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脱原発は左翼ではないと強弁する左翼思想家・マスコミ・吉永小百合

2011-08-01 18:53:10 | 読み解けば‥‥
脱原発は左翼ではないと強弁する左翼思想家・マスコミ・吉永小百合

世間を占うリトマス紙というのがある。近年マスコミの動向はかなり偏向しているために中々論点がつかめないと言うこともある。要するに自分たちの主義主張に合わないものは、国民にとって必要でも報道しないという姿勢である。
そして、それによって国民に不利益が生じても彼らは安全圏にいて、上から目線の他人事である。しかし、それによって被る我々にとっては死活問題である。
ならば本来、国が国民を守るべきなのだが、自己防衛をしなければならない自体に達したと言うものである。
従来からの定説というのは、「NHKが何か喧伝し始めたらその反対を行け」である。
庶民に関わることでバブルの直前には、NHKは何を言っていたのかと言えば「持ち家は損だから、賃貸住宅で一生を過ごそう」である。
結果は見ての通りである。
そして、その後はどう言ったかと言えばバブルがはじけた後には「住宅を買おう」だった。そのとき買っていれば、今資産価値は半分になっていたはずである。身近なところではこんなものだが、実は種々の示唆を示す「ハンタイ おばけ」というのもがNHKなどのマスコミであった。
そして政治や世の中の妙なこと、反日の人達が何を考え危惧しているのかと言うのも示してくれるのが文化放送などの反日マスコミである。


今日(2011年8月1日)の「大竹まこと ゴールデンラジオ!」では、朝日新聞と毎日新聞から妙な論説を引いて最近の逆風を凌ごうとしている。
その誘導は「反原発」「脱原発」は左翼の人達ばかりではないという論点である。
即ち、「反原発」「脱原発」として運動している人達に「右派」の人達もいて国民全体の総意であると言いたいわけである。
そんなことをなぜ急遽左翼の文化放送や、大竹まこと氏が大々的に取り上げて脱原発は左翼運動ではないと言うのかと言えば、脱原発を訴える菅総理の北朝鮮と左翼政治家とのつながり、献金問題である。
この産経新聞のスクープから発し、国会で追及されその後テレビ朝日系の「ビートたけしのTVタックル」で取り上げた。
それを受けた形で、読売新聞で後追い31日の社説では「菅首相献金問題 疑惑にフタの延命は許されぬ(7月31日付・読売社説)」で書かれている問題である。
その上、7月31日TV「たかじんのそこまで言って委員会」でも取り上げられた。
そして従来からの反原発運動というのには労働組合と教職員組合、過激派の赤い旗が常識であったから我々としては「左翼=反原発・脱原発・北朝鮮・特亜」というのは当たり前である。
今や「反原発・脱原発」というのは政治問題であり、日本が出来もしない「反原発・脱原発」を訴えて誰が得をするのかと思えば常にに納得が行く結論が出る。
産業の米の電力がなくなる「反原発・脱原発」と言うことになれば、電気がない福島は誰も住まない過疎地になり東日本大震災の復興はならず、日本から企業は出でゆき失業者はあふれ出る。要するに、日本沈没である。
なれば太陽光発電と言う。しかし、電力効率が民主党支持率以下の電力には膨大な蓄電池が必要である。そればかりか電力を維持、需要を満たすための予備の火力発電所が総発電量分いるというばかげた話になる。
そして、耐用年限の来たソーラーパネルで日本中の耕地にCdや重金属がばらまかれて日本では食料が作れなくなると言う自体にも発展する。

正に日本には住んでいられなくなると言うものである。

そして、「大竹まこと ゴールデンラジオ!」で取り上げるのは毎日新聞の「風知草:経済成長、誰のため?=山田孝男」である。
阿川佐和子氏は「山田孝男」さんの記事はよく読んでいますと褒め称え、タダのコラムニストのように言う。しかしこれがとんでも無いウソである。
なぜならこの山田孝男氏というのは毎日新聞専門編集委員(元政治部長、編集局次長、編集局総務)である。ついでに言えば、民主党の提灯持ち。
阿川佐和子氏のような居てもいなくとも何の役にも立たない芸能界の「提灯持ち」。
単に「阿川」の名前だけにすがって芸能界を生きているような人物だから散々同調する。

その山田孝男毎日新聞専門編集委員はコラムの最後どんなことを言っているのかと言えば
「原発停止は江戸時代に戻ることを意味しない。5年前、10年前の電力消費水準に戻ったとしても、日本はつぶれまい。立ち止まって原発依存を見直し、安全な社会、健全な経済を再建するという意志さえ明確であれば、『脱原発』でも『減原発』でも同じことだろう。
 集団ヒステリー状態に陥っているのは『脱原発』志向の世論ではない。経済成長に妄執する指導者層である。」

ここで言いたいのは、「脱原発」は左翼思想ではないと言ってるのである。

実は、ここに担ぎ出されたのがなんと文化功労賞までもらっている吉永小百合氏。
かなり洗脳されやすい人物とみられて、「吉永小百合」で検索すれば「映画人九条の会」にまではっきりと登場する。
吉永小百合さんが、朝日新聞で映画人九条の会への参加を語る
吉永小百合さんが4月1日(筆者注・時期不明)朝日新聞夕刊の一面『時代の花戦後60年』に登場し、その中で「映画人九条の会」の結成に参加されたことに触れ、『イラク戦争支持とか先制攻撃がどうとか……。ここはしっかりみんなで考えて、声に出さないと大変なことになるという危機感が強いんです。憲法九条は読めば読むほどすばらしい。一人一人の命を守るという原点に世界が帰ってくれたら──』と語っていました。


吉永小百合さん、「原発なくなって」と訴える
‥‥というのは、間違いなく左翼思想、反日人士達のそうであることは間違いない事実だった。
朝日新聞では‥  産経新聞
それにしても、シャープのイメージキャラクター吉永小百合氏。

少し前は電気大食らいの大液晶テレビのCM、今は太陽光パネルに変わったと言っても、電力がなくなって失業する人を尻目にいい気なものという偽善・金稼ぎとは。
上から目線の芸能人の偽善者というのは鼻につくものである。

マスコミの言論封殺、脳学者茂木健一郎は所詮ルーピーか

2011-07-31 17:07:40 | 読み解けば‥‥
マスコミの言論封殺、脳学者茂木健一郎は所詮ルーピーか

ここのところ非常に妙なことが起こっていると誰もが感じでいるのだろうか。
その一つが、俳優高岡蒼甫がばらしてしまった放送局の韓流ドラマK-POP氾濫の異常さ。
そしてその高岡蒼甫に対する芸能界からのバッシングと電通、フジテレビなどのテレビ局におもねる有名人の言論空間である。
報道されているのが「浜村淳がラジオ番組で高岡蒼甫を批判」(毎日放送のラジオ番組「ありがとう浜村淳です」)
浜村淳などという年寄りは、自己保身が中心だからこんなものであろう。そして、こんな微妙な問題について口を滑らせてしまうと言うことが正直と言えば正直である。
別の見方をすれば、情報がTVと新聞しかない老人の「時代を読む力」の衰え、ネットなどの情報に対して頭がついて行っていないと言うことである。

又、あの脳学者「茂木健一郎『韓流のどこが悪い』フジテレビ『不視聴』を批判」という話である。


====== ツイッターで茂木さんは
「地上波テレビ批判と、これ(編注:テレビの不視聴)は別。幼稚すぎる。韓流のどこが悪い。グローバリズムの時代だぜ。幼稚な自国文化主義は、アホなだけでなく、日本をますます弱体化させるだけです」と持論を展開。

次の投稿では
「みんな、レベルの低いたわごとはいいから、猛勉強しようよ。日本は、このままだと、三流国になるよ。いつわりの愛国主義、くだらない自己主張、誰もついてこない事大主義、ぜんぶ捨てないと、もう愛する日本はダメだ」などと主張した。

別の投稿で「みんなフジテレビみろ!」と述べてツイートをいったん切り上げた。=====J-cast NEWS

この件に関して、茂木健一郎氏に対する批判の返答がこんなものであるという。
(花うさぎの「世界は腹黒い」2・Commented by shou さん より)

@kenichiromogi 韓流といっても、テレビが騒いでいるだけで視聴率はひどいよ?どこが悪い…と言っても、内容がなくて見る人が少ないというだけ。まあ、今はテレビ全部がつまらなくて電力の無駄遣いです。異常に安いテレビ局の電波使用料を欧米並み(グローバル化!)に上げるべきだね。

@kenichiromogi 「好まない人は見なければいいだけの話。」には同意します。実際視聴率が低いのですから、いずれ淘汰されるんでしょう。競争の中で地上波は埋没していっている観がありますが、当の地上波局側に果たして危機意識があるのかは見えてきません。

@kenichiromogi 「理由がよくわからない」のに、「拒否反応」とか「感情」で話を片づけるのは、科学者のあり方としてはどうかと思います。…尤も、そもそも貴方自身にこの話題に大したご興味がない故の立ち位置とは思いますが。

脳学者・茂木健一郎氏に「猛勉強しようよ。」とか「いつわりの愛国主義」と言われて吹き出す人がいるのではないかと思われてならない。
なぜなら、茂木氏に社会を猛勉強しろという社会性や愛国主義など微塵も感じられないからである。そもそも、つい先頃収入を申告していなくて無申告で追徴課税を取られたのではなかったか。そのときの言いぐさが「いそがしくて確定申告する暇がなかった」。
自ら「グローバリズムの時代だぜ」と言いながら、自分の足下さえ見えない人間にグローバリズムなどありはしない。
そして、韓流ドラマの視聴率が悪いからと行っても淘汰されないのは、電通が付いているからと言うことが茂木氏は知らないのだろうか。視聴率が悪ければ、CMの費用も安いし電通がいくらでも勝手にスポンサーを付けてしまうと言うのが真実だろう。

要するに、学校の勉強が出来て良い大学に進んでも、よく言われる「頭の根っこが悪い人物」がいると言うことである。
そのよい例が、東大とスタンフォード大学に学びPh.D.の学位まで持っている鳩山由紀夫前総理はルーピーに過ぎす、東工大、弁理士の菅総理は人間以下という評価である。

脳学者・茂木健一郎氏も所詮テレビ芸人にしか過ぎなかったことがよく分かる一面であった。





又、その妙なこと、自民党時代なら新聞の第一面に書かれることも産経新聞と一部の民放しか一切報道されないことである。当然のことながら週刊誌も一切書かない。その内容たるやNHKの国会中継で詳細に述べられていることでもあったからマスコミが知らないはずはない。
その報道されないことと言えば、テレビ朝日系の「ビートたけしのTVタックル」で取り上げてしまってから、ようやく読売新聞で後追いで取り上げ、「菅首相献金問題 疑惑にフタの延命は許されぬ(7月31日付・読売社説)」で書かれている問題である。

その重大問題というのは、(菅首相の資金管理団体「草志会」を巡る問題)
その1、民主党が永住外国人への地方選挙権付与を目指しているところで、その永住外国人から献金を得ていると言うことである。                                  
その2、「草志会が07~09年に、政治団体『政権交代をめざす市民の会』に計6250万円を献金していたことである。」

その2と言うのが、「『市民の会』は、今春の統一地方選で、北朝鮮による日本人拉致事件の容疑者の長男を擁立した政治団体『市民の党』と関係が深いことも明らかになっている。」拉致問題に絡み。
そして、菅総理自身拉致問題に関して関心がないことは「拉致被害者『救う会』が作るブルーリボンバッジを常時付けていないこと」(産経新聞)だという。

小生は、「市民の会」は民主党の選挙の時にボランティアを派遣していたということから考えて、それが菅総理の献金理由「連携、支援のため」なのだと思う。
もう少し突き詰めて行くと、市民の会の献金の使用目的が人件費で約8,000万円弱だったか。だから日当を払って人を集めそれをボランティアとして派遣する。
そして、その日当代を民主党やその議員に献金として請求するというふうに考えるとスッキリする。しかし、それは公職選挙法違反である。
それでも億単位の献金がなされているから金の使い道がはっきりしない。

こういう事なら週末のワイドショーやニュースで取り上げても良さそうなものだ。
しかし、もう終わってしまったというか、現在進行形でない原発シンポジウムでの電力会社に対する動員や「やらせ質問」しか報道していない。

なぜか 「なでしこジャパン」に国旗がない不思議

2011-07-22 18:41:16 | 読み解けば‥‥
なぜか 「なでしこジャパン」に国旗がない不思議

今週から「なでしこジャパン」の話題で新聞もTVも持ちきりだった。しかし、なにか変だぞという噂がネット上では持ちきりだ。
それはなにかというと、放映したフジテレビと共に新聞各社の写真に日章旗がない。

全て写真はYouTubeにリンクしています。

YouTubeキャプチャー画面
それどころか、日本国旗をペインティングした人や日章旗を振りかざしている人達というのがあまり写っていない。
新聞では、読売新聞系が国旗に文字が書かれている東日本大震災復興の国旗を申し訳程度に掲載しているのみ。


サッカーとなれば、国旗を打ち振るというのが当たり前の風景だからおかしいと思ってYouTubeを見たら「なでしこジャパン」も国旗を持って走り回っていた。
当然そんな風景は日本では放映されていないし写真すらない。

http://youtu.be/L0CqNf1rddI


これはなになのかという不思議さは、国会追及されているにもかかわらず「菅直人首相の資金管理団体が、拉致事件容疑者の長男が所属する政治団体『市民の党』の周辺団体に多額の政治献金をしていた問題」を新聞、TVなどが全く無視しているという異常さに通じるものではないだろうか。

拉致容疑者関連団体献金問題 野党側、参院予算委で菅首相の責任を厳しく追及(hito3746の更新通知板・ スーパーニュースアンカー大好き )



そしてあの佐賀県庁にデモ隊と突入した山本太郎をなんと読売新聞系のスポーツ報知は絶賛している。
しかも県庁になだれ込んだ事実を隠しているというのはやはり異常としか思えない。

菅首相の嘘つきというのはこんなところでも報じられています。
「モー信じられない!“うそつき菅”が献金問題でも真っ赤なウソ」

有権者からみる群馬県知事選挙の本質とは

2011-07-04 11:21:55 | 読み解けば‥‥
有権者からみる群馬県知事選挙の本質とは

群馬県知事選挙は、現職の大沢知事が得票の約7割(68%)を取って圧勝した。
次点の後藤新氏に対してダブルスコアであり、大沢知事の地元太田地区では80%を取り、他の郡部でも6割以上の得票率を得ている。


これが何を意味するのかと言えば、今回の知事選挙は大沢知事の信任投票だったと言うことである。だから、投票率は過去最低の36.62%で有権者102万人が棄権と報道されている。それでも微妙な選挙のあらましを見てみると大票田、人口約70万人の前橋高崎地区ではそれほど多くない。
特に前橋地区では55%しかとれず、ここでは後藤新氏が38%と善戦している。
この意味というのは、県庁があって直接県政と接する前橋では官僚多選知事だった小寺体制から完全に脱却していないという意味合いを持つ。
群馬県庁の(上から目線の)官僚体質というのは、未だに改善されていないと言うことである。
特に県庁OBが嘱託職員として活躍している場所では、未だに納税者である県民をゴミ扱いしている様なところさえ在って、官僚県政の根深さというのは中々払拭されない。
一方、次点の後藤新氏に関しては、個人的には不誠実さを感じる。
なぜなら小寺前知事は、官僚知事の体制の継続のために旧自治省の官僚後藤新氏を副知事にと何度も押して結局果たせなかった。
その後、後藤新氏が2年前に県議選に当選して県議として続けると言うはずだったが、蓋を開けてみれば知事選の予行演習だったと言うことである。
しかも、事実上の民主党候補であるのに無所属で出馬している。
考えてみれば、広島出身の後藤氏は元々群馬に思い入れがあるわけでなく、又ポピュリズムにはしり、政策は付け焼き刃である。
その「選挙戦においては、大衆迎合的なスローガン」とは、県民税10%減税、県人件費10%削減と知事給与30%削減、県民所得10%アップ‥‥‥と続くように経済のなんたるかが分かっていないというのは過去官僚ならではである。
そして、県民から見れば未だに官僚臭と自治官僚のエリート思考臭、良い大学を出でいれば良い政治が出来るような無意味さはごめんだと言うことである。
それは、「何もしない知事」として有名だった過去の幾人もの官僚知事と同じように、またも官僚臭が漂い群馬を関東の過疎地にすると思えば誰も支持するというのはあり得ない。
ここでやはり大沢知事の仕事の一つというのは、群馬県庁から官僚臭を払拭してサービス業に徹すると言うことである。
そのサービス業に未だに徹していないと言う結果が、東京銀座に出店したアンテナショップ「ぐんまちゃん家ち」が大赤字に陥っていることからでもよく分かるというものである。

菅総理を支持し菅政権を擁護する国民の22%とはどんな人

2011-07-01 20:20:24 | 読み解けば‥‥
菅総理を支持し菅政権を擁護する国民の22%とはどんな人

ここのところのいろいろな放送を聞いていると、時々「エッ」と驚いてしまうことに出くわす。その驚いてしまうのは、取りあえず放送局のアナウンサーの言葉でそこで取り上げられた一般人ことではない。
2011/06/30文化放送の「くにまるジャパン」では、コメンテーター伊藤惇夫氏が種々政治の蘊蓄を語るのが常になっている。当然のことながら、菅総理の日本人離れした居座りとそれの延命を述べるのは事の次第。
そこで文化放送の石田絵里奈アナウンサーがすかさず「日本ではなぜ(米国の様に)直接総理を選ばないのでしょうね」という突拍子のないことを言う。
そこは伊藤惇夫氏は憲法の議院内閣制を説明し「もし、日本が直接選挙で総理大臣を選んだらタレントが当選してしまいます。」という。
まあこの石田絵里奈アナウンサーというのは派遣社員の文化放送アナウンサーで、カリフォルニア大学バークレー校を卒業という経歴から日本の法律に関して疎いというのは分からぬでもない。
しかし、もし米国の放送局なら辞任ものの発言なのである。
なぜなら自国の憲法の基本すら知らない国民にあるまじき人物。こんな人物がアナウンサーとしては使い物になるものではないからである。
そして、伊藤惇夫氏は日本が首相公選制にしたらタレントが当選すると本当に考えているとしたら多少思慮の欠けている。
なぜなら、この前の参議院選挙を見てみれば分かる様に大阪で「おわらい100万票」と言われているのにタレント議員は軒並み落選だった。
自民党政権時代の安定した一応の保守なら、例え多少いい加減なタレント議員が出現しても体制に影響がない。しかし、国民の生命安全に影響があるとしたら誰だっていい加減な人物を選ぶことはない。
そして、憲法上そんなことはないとしても首相公選制になれば、米国のように多くのハードルを越えなければならない。
そうであるなら鳩山元総理などの母親からの「子ども手当」などいの一番に出てくるから最初のハードルさえ越えられまい。
今の菅総理も外国人からの献金がばれて、首相の人選からも漏れるはずだ。
今となってみれば、首相公選制にすれば鳩山元総理も菅総理も出で来なかったわけで議院内閣制の限界というものである。

そういう今や菅総理に対する支持は低迷して、与党民主党からにして
安住淳国会対策委員長は「大きな原因を作り出したのは、政権与党側だ。野党や国民に申し訳ない」と陳謝し、国会正常化に向け、野党に協力を求めた。(産経新聞)
という状況である。

ところが菅政権に対して、今のこの時期になっても約22%もの国民の支持がある。
その支持している人達はどんなことを言っているのかというのは興味深いものである。
ここで地方紙の上毛新聞(群馬県全域)の投書欄「ひろば」2011/06/28に二つの菅政権支持の意見が載っていたので興味を持って読んでみた。
地方紙の投書欄なので、朝日新聞の投書欄と違ってプロ公務員やプロ主婦、プロ教員というのは存在しないから生の投書というものである。

その1は、「菅首相の続投に期待」という高崎市の79歳の人物の投書である。
この投書を見るとなぜか菅総理が東日本大震災で行動した疫病神の様な行動が出で来ない。それどころか「止める」と言っておきながら続投して「ペテン師」と呼ばれたことさえ出で来ない。
一括してその菅総理退陣論を「醜い争い」と言っている。
そして、東日本大震災に対して与野党として一丸になって対処して欲しいと言うのだが、その障害になっているのが菅総理であるという観点はない。
次に、首相が1年で替わるのが好ましくないと言うのだが、「2年後の8月の総選挙まで総理を務め‥‥」というのは悪い冗談でしかない。

この観点から見ると、79歳の人物というのは非常に情報が欠落しているのか菅総理に対する情報が何も書かれていない。それはなぜ菅総理を退陣させたいのかという理由に対する反論が書かれていないことからも分かる。
この歳でパソコンが自由に使えるはずもなくTVはNHKしか見ないで、新聞は昔から取っている朝日新聞と地方紙しかなければそんなことになるのかも知れない。
なぜなら、朝日新聞は菅総理、民主党の応援団であるし、NHKも同様であるとすれば情報格差というものはこんな風に付くものであろう。

その2は、「ねじれ障害なら参院廃止せよ」という榛東村の67歳の人物。
これも冒頭で自民党批判をしているのだが、自民党が東日本大震災で何百という提案と復興支援をしているということを全く無視している。
それは「いままでの野党とちっとも変わらない」と言う表現である。
「ねじれが原因で法案が通らないのなら参院を廃止したらよい。」という極論になってしまっている。
常識として、議論を重ねて納得しなければ法案が通らないのは当たり前で、そうでなければ立法府の国会の意味がない。
次に、西岡参院議長の菅総理に対する批判に対して、「『菅おろし』を先導するかのような発言は慎むべきだ。」と述べるのだが、西岡参院議長の批判の中身についして言及していない。
そして、「緊急手当が必要な法案を通すのに『ねじれ』が障害なら、参院を廃止せよ。」とまたもや結論づける。

いずれにせよ、議論の中心が菅総理の日本人にあるまじき不誠実と言うところなのだが、この菅総理の資質について一切言及がないと言うのか前投書と全く同じ展開である。

これから見ると、朝日新聞や毎日新聞が菅総理の不誠実や居直り、そして民主党の内の反発などを隠して、又は分かりにくい表現をして伝えない、又NHKが焦点をぼかす。
こんなことによる情報格差というものが菅総理を擁護する言論、意見になっていると言って間違いない。

安倍政権を潰した年金問題の異常なマスコミ報道を見ても分かる様に、日本のマスコミは真実を伝えないという報道にやはり問題があると言うことであろう。

さっぱり何を言っているのか分からない加藤陽子東京大教授の言論

2011-06-20 22:30:05 | 読み解けば‥‥
さっぱり何を言っているのか分からない加藤陽子東京大教授の言論

多少古い話になるのだが、「毎日新聞 2011年6月12日 東京朝刊」に
「時代の風:原発事故、失敗生かすには=東京大教授・加藤陽子」というコラムがある。
この記事・コラムは、原発事故「検証委員会」の件についてであって、冒頭「委員長が畑村洋太郎氏だと聞いて、少しだけ明るい気分になった。」とある。
我々庶民から見れば、またも東大名誉教授という言わば政治とは関係ない学究の人たちばかり菅総理は選ぶのだなと思う。
ついでに言えば、またしても70歳の老人だ。
加藤教授から見れば、自分たちの「お仲間」が委員長だからある意味「ほっとする」というのは言われなくとも分かるものである。
そこで「お仲間」と言ってしまえばそこで終わりだから、「畑村氏は知る人ぞ知る『失敗学』の創始者」でと擁護する。
その擁護する前段で「(畑村洋太郎)氏が『原因究明を優先するため責任追及はしない』と語ったことで、早くも不安を抱いた方もいるかもしれない。」との話からである。

まあその「失敗学」を否定するものではないが、実際の話は失敗学とは全く関係ないところにあるのではないかと言うことである。
実は、この原発事故に関してはナポレオン三世の普仏戦争におけるナポレオン三世と、ナポレオン三世が捕虜になったあと、その皇后であるウジェニー皇后の戦争指導によく似ているのである。
要するに、原発事故の検討委員会というのは本来政治検証であると言うことなのである。
政治とその政策であるから失敗と共に責任という物がついて回る。
しかし、その責任追及というのは戦前のノモンハン事件以降、まともにやられてないというのは動かさざる事実である。

何度も書くように、あのバブル潰しによる経済衰退の検討だけでなく責任追及も当然されていない。分かりやすく言えば「みんなほおかむりして」しらばっくれてしまったのである。
なぜしらを切ったのかと言えば、NHKから経済評論家、経済紙、経済学者、日刊紙、官僚、政治家まで全て、バブル潰しを良しとした言論を流布したからである。
分かりやすく言えば、政治、経済の中枢がバブル潰しが日本にとって正しい選択である判断したからである。
我々から見ればそれこそ責任者出でこいなのだが、時の橋本蔵相は責任追及さえされずに総理になり、第2の消費税増税という失敗を繰り返す。
正に、昭和の陸海軍の生き残った将軍そのままの構造というのは、変わっていない。

丁度、今消費税増税とか復興増税とか散々推奨する日刊紙や政府の委員会など。
かれらはその通りに実行して、日本がそれこそ経済的廃墟になったとしても全く知らぬ存ぜぬで責任すら取らないと言うのは知れたことである。

こんな風に書いてくると、加藤教授が延々と畑村洋太郎東大名誉教授の「失敗学」を説明しても無意味であると言う事がよく分かる。
そういう観点から言うと、
そこには人間の関与と、入力と出力をつなぐ仕組みやカラクリがあったはずなのだ。要因と結果をつなぐカラクリ。それを浮かび上がらせる失敗学は、タフで優れた手法だといえるだろう。」というのは、今追及されている原発事故とは直接関係ないことが分かる。

なぜなら、一番の問題点として原発事故に関して政治が絡み、そしてそもそもその原因が「核アレルギー」から来た安全神話を崩さないための不用心にあることである。
そして安全に原発を運用しようとしたら、より安全を強固にしなければならない。しかし、安全を強固にする工事をすれば「安全神話」が崩れるというジレンマが生じるというものである。
少なくともあの福井県知事の原発再開を認めないと言う態度を見ても「核アレルギー」が如何に強いのか明白である。
そして「原発事故は起こらない」ということを主張すれば起こらないと思い込む一種の狂信的考え方と言うものにも警告をしなければならないはずだ。

ところがこの加藤教授は「原因究明の前には責任追及も後回しにされるゆえんを説明してきた。それは、最も有効に知識化しうるよう情報を取り出すためだった。」と書くのだが、どうも視点がずれている。
それは、原発事故に対する純粋な作業にのみ係わる事ならばその通りだろうが、実際そんなことは追及されていない。
現場は、出てきた状況に対するモグラ叩き、トライアンドエラー(試行錯誤)で延々と作業をしているだけである。
そして最後に「主観的な情報こそが、実のところ将来起こりうる事故や失敗を未然に防ぐワクチンとなりうる。失敗学の勘所は、実のところ歴史学のめざすところと同じだ。」と言い放つのだが「嘘つくな」である。
なぜなら、加藤先生が延々と実際の現場とは関係のない失敗学を述べているのは単に菅総理の擁護論でしかない。
そして、「歴史学」の失敗は政治による失敗で有り、責任追及をされない限りその失敗というのは明らかにされないというのは文字通り歴史が証明している。

前出のナポレオン3世とウジェニー皇后はイギリスに亡命し、3世は二年後に死去。
英国の士官学校にいたその息子ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト(ナポレオン4世)は、ウジェニー皇后の反対を押し切ってアフリカの植民地に渡り、簡単なパトロールで現地人に殺された。
要するに、ナポレオン3世一族は歴史によって、十分責任をとらされた。

時代の風:原発事故、失敗生かすには=東京大教授・加藤陽子

 ◇主観的情報、ワクチンに

 新聞各紙は、6月7日午前、東京電力福島第1原子力発電所の事故原因解明や安全規制のあり方を検討する事故調査・検証委員会の初会合が開かれたと報じた。委員長が畑村洋太郎氏だと聞いて、少しだけ明るい気分になった。

 氏が「原因究明を優先するため責任追及はしない」と語ったことで、早くも不安を抱いた方もいるかもしれない。たしかに、氏が語ったという、原因究明と責任追及の関係については、少し説明がいるだろう。

 畑村氏は知る人ぞ知る「失敗学」の創始者で、科学技術分野における主要な失敗の事例を系統的に分析してきた第一人者である。手近なパソコンでいち ど、お暇な折に「畑村洋太郎のすすめ 畑村創造工学研究所」で検索してみてほしい。そこに載っている「失敗知識データベース」は、知りたい人が知りたいと きに、知りたい中身を、欲しい形で利用できるように工夫されていて、圧巻だ。

 畑村氏の考え方の基本は「図解雑学 失敗学」(ナツメ社)等からも知ることができる。本書の刊行は06年。多くの人々が命を落とすような重大な事 故を起こしてしまったとき、人は誰でも二度とこのような大惨事を起こさないと誓うだろう。だが、事故は繰り返される。その構造的要因について畑村氏は、失 敗情報の「知識化」が、きわめてまれにしかなされてこなかった点に求めた。

 失敗の知識化とはそれほどに難しいものなのだろうか。答えはイエス。5年前に刊行された本書の中で、失敗情報の「急激な減衰化」の例として岩手県 宮古市姉吉の津波石碑の例が、失敗情報の「歪曲化(わいきょくか)」の例としてチェルノブイリ原発事故が挙げられているのを見れば、誰しも背筋に冷たいも のが走るのではないか。

 減衰化とは聞き慣れない言葉だろう。明治や昭和に何度も大津波被害を受けた三陸における津波石碑は、本来であれば貴重な失敗情報だった。だが「此 処(ここ)より下に家を建てるな」との石碑の戒めも、減衰化を免れなかった。祖父母から孫まで世代が隔たれば、情報伝達という点で減衰化は免れられなくな る。

 次にチェルノブイリを例とした、失敗情報の歪曲化を見ておこう。86年4月に起こった事故の原因についてソ連政府は、運転員の規則違反だと説明し た。真の原因は、規則違反に加え、原子炉そのものの構造的欠陥にあったが、西側諸国は自国内での反原発運動の激化を恐れ、運転員の規則違反によるとのソ連 側説明を黙って受け入れた。まさに畑村氏が卓抜に表現するように、失敗の原因は「変わりたがる」のである。

 急速に減衰化し歪曲化されやすい性質をもつ失敗情報。まことに気難しい性質に生まれついた、この失敗情報を知識化するには、失敗の事象・経過・原 因・対処・総括まで、脈絡をつけて記述することが特に重要となる。そのため、第三者は当事者から情報を聞き出すとき、細心の注意を払わねばならない。

 それは当事者へおもねることを意味しない。いったん失敗情報が知識化され、客観的な脈絡ある図が描ければ、第三者は矛盾点を発見でき、当事者が意 図的あるいは無意識に隠蔽(いんぺい)した点をも逐次発見できるようになる。原因究明と責任追及に関する冒頭の発言には背景があるのだ。

 さて、ここまで読んでこられた方の中には、未曽有の大地震と大津波、またそれらがもたらしたチェルノブイリ級の原発事故を「失敗」という言葉で呼 ぶのはおかしいと感じた方も多いのではないか。人間が万単位で亡くなる大惨事を、失敗という、いささか軽く響く単語でくくるのは、むごいと。だがまずは、 畑村氏のいう失敗の定義に耳を傾けていただきたい。氏は「失敗」を「人間が関わったひとつの行為が、望ましくない、あるいは期待しないものになること」と 定義する。

 ポイントは、人間の関わりという点と、望ましくない結果、の二つ。ごく緩やかに定義することで、かえって、自然の猛威という大前提と、ただでさえ 制御が難しい巨大システムの存在が前景に見えてくるのではないか。我々に見えるのは常に結果だけだ。だから、わかりやすい原因を早々と見つけて留飲を下げ たい衝動にかられる。だが、自然の猛威がそのまま入力された結果、今回のような事態が出力されたとは誰も思わないだろう。そこには人間の関与と、入力と出 力をつなぐ仕組みやカラクリがあったはずなのだ。要因と結果をつなぐカラクリ。それを浮かび上がらせる失敗学は、タフで優れた手法だといえるだろう。

 原因究明の前には責任追及も後回しにされるゆえんを説明してきた。それは、最も有効に知識化しうるよう情報を取り出すためだった。だが、いま一つ 別の理由もある。それは、当事者が、どのようなことを考え、どのような気持ちでそのような行動をとったのかという、当事者の側に立った主観的な情報を取る 必要があるからだ。主観的な情報こそが、実のところ将来起こりうる事故や失敗を未然に防ぐワクチンとなりうる。失敗学の勘所は、実のところ歴史学のめざす ところと同じだ。心からのエールを送る。=毎週日曜日に掲載


村上春樹・核を制御できなかった日本の卑怯者であることを世界に公言

2011-06-10 19:42:22 | 読み解けば‥‥
村上春樹・核を制御できなかった日本の卑怯者であることを世界に公言

たとえ話、ある人々(民族)同士がケンカを始めた。
始めは素手での殴り合いが、ある一方が棍棒を持ち出すと対抗してもう一方も棍棒を持って打ち合いになる。そこで怪我人が出るからと、互いに話し合いになってある程度のところで手打ちで納めるという話。
これは、ケンカになってやられれば相手に対抗して同じ武器を持ち征服されないようにするというのは、古代からの常識である。
もしそうでなかったら、インカ帝国が少数の馬に乗ったスペイン人に絶滅させられたように民族の絶滅は必須である。
ここで、この棍棒を核、原爆と置き換えると広島、長崎に日本は原爆を落とされたから日本は一番先に原爆を持つ権利があると主張するのが世界の常識である。

しかし、日本の常識は全く逆で原爆を持つどころか相手の「棍棒」を捨てろ、捨てる権利があると主張する。棍棒を持っている相手にそんなことを言っても通用しないのは単純な論理である。
それどころかそんなことを言えば棍棒を持っている相手は、棍棒で打たれるのが少なかったかと言って尚も打ちかかってくると言うことは予想できる。
そこで日本は棍棒を持った用心棒を雇って、その用心棒の後ろから「棍棒を捨てろ」と怒鳴っている様なものである。
こんなことを端から見たら実に見苦しいと言うより、卑怯者であるという感覚を持つ。
だから、核に関する言論を諸外国から見れば、日本は正に卑怯者である。


そして、古い原発が大震災で放射能をまき散らしたのは、政府や東電、原発関係者の大失敗に間違いないが、福島第一以外のたった10年後の原発では被害を出していない。
要するに原発が全て危ないと主張するのは何か昔の学生運動の時、続発した「短絡思考」によく似ていてあまりその論理というのはよく分からない。
考えてみれば、その短絡思考の渦の中に菅総理は学生時代にいたわけで、理系の論理的なアタマと言うより学生運動家の思考回路そのままである。

さて、こういう短絡思考を考えて、村上春樹のカタルーニャ賞で「核に対するノー」演説。

以下、毎日新聞Webから発言要旨を抜粋

●東日本大震災と福島第1原発事故に触れ、原爆の惨禍を経験した日本人は
「核に対する『ノー』を叫び続けるべきだった」
●「非現実的な夢想家として」
原発事故は、広島、長崎に原爆を投下された日本にとって「2度目の大きな核の被害」とし、今回は「自らの手で過ちを犯した」
●政府と電力会社が「効率の良い発電システム」である原発を国策として推進した結果、地震国の日本が世界第3の原発大国になったと指摘。
●「われわれは持てる英知を結集し原発に代わるエネルギー開発を国家レベルで追求すべきだった」とし、それが広島、長崎の犠牲者に対する「集合的責任の取り方となったはずだ」
●復興に際し建物や道路と違って簡単に修復できないのは「倫理や規範」だと指摘。「倫理や規範の再生はわれわれ全員の仕事だ」とした。「夢を見ることを恐れてはいけない。『効率』や『便宜』という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはならない。われわれは力強い足取りで前に進んでいく『非現実的な夢想家』でなくてはならない」

この演説を読んでどう思うだろうか。
まず「核に対する『ノー』を叫び続けるべきだった」というのは、核アレルギーの最たるものであると同時に日本人にしかない感覚に違いない。
毎日新聞の抜粋なので正確なところは分からないが、
広島、長崎の犠牲者に対する「集合的責任の取り方となったはずだ」というところも、世界の常識から見て倒錯している様に思える。
しかも、原発の否定をしながら村上春樹氏自体は原発で作る電気の恩恵を受けていなかったのかという話になる。
ここで、自分は原発に反対であったから東電から電気を引かずに自己発電で電気を使ったというのならなるほどと感心するかも知れない。
しかし、そんなことは絶対にあるまい。
要するに自身は日本と日本国民から見て高い位置に身置いて、神のごとく見下ろしているという感じなのか。
そこで次に妙なのは、「簡単に修復できないのは『倫理や規範』」とは何なのかさっぱり分からないところである。
そして続くのは「倫理や規範の再生」なのだが、これも全く不明である。

世界が今注目して日本批判に転じているのは、日本は原爆被害国だから原発に対してより制御できる筈だったと言うことである。
日本人の核アレルギーは実は、日本の存在自体を危うくしていると言うのが分かっていない。

それは何かと言えば、「核は安全だ」「原発事故は起きて欲しくない。起きない」と思い込まなければ、そして言い続けなければ原発が使えないと言うことである。

技術には、全て完全というものは無い。
完全ではないから常に改善して安全に近づける努力が必要である。
原発を止めて運転しても、核の制御は変わらない。
原発を止め、後ろ向きになって「原発はない」と無いものにする。そうすると、その時点で原発の、核の技術は止まってしまう。
古い技術、古い観念というのがこれが一番危険なことであることは福島原発を見ても明らかなことである。
むしろ運転して常に新しい技術を開発して行く事によって、新しい安全な核の始末ということが生まれてくるというものである。
今、原発廃止を訴えるデモが行われている。
その先頭に立つ人たちというのが昔のテロリストの一派であったり、過激派、不思議なことに外国人だったりする。
原発を全て止めても、核の制御は全く変わらないと言うことを知らなければ、村上春樹氏の様な原発を廃止すれば核から逃れられると言う無知を披露してしまう。

結果として、少なくとも村上春樹氏は、日本の卑怯者の代表として世界に名を晒したと言うことは間違いない。

村上春樹さん:カタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文(上)

カタルーニャ国際賞の授賞式で、スピーチする作家の村上春樹さん=スペインのバルセロナで2011年6月9日、ロイター
カタルーニャ国際賞の授賞式で、スピーチする作家の村上春樹さん=スペインのバルセロナで2011年6月9日、ロイター

 9日のスペインのカタルーニャ国際賞授賞式で配布された作家村上春樹さんの受賞スピーチの原稿全文は次の通り。(原文のまま)

 「非現実的な夢想家として」

 僕がこの前バルセロナを訪れたのは二年前の春のことです。サイン会を開いたとき、驚くほどたくさんの読者が集まってくれました。長い列ができて、 一時間半かけてもサインしきれないくらいでした。どうしてそんなに時間がかかったかというと、たくさんの女性の読者たちが僕にキスを求めたからです。それ で手間取ってしまった。

 僕はこれまで世界のいろんな都市でサイン会を開きましたが、女性読者にキスを求められたのは、世界でこのバルセロナだけです。それひとつをとって も、バルセロナがどれほど素晴らしい都市であるかがわかります。この長い歴史と高い文化を持つ美しい街に、もう一度戻ってくることができて、とても幸福に 思います。

 でも残念なことではありますが、今日はキスの話ではなく、もう少し深刻な話をしなくてはなりません。

 ご存じのように、去る3月11日午後2時46分に日本の東北地方を巨大な地震が襲いました。地球の自転が僅かに速まり、一日が百万分の1.8秒短くなるほどの規模の地震でした。

 地震そのものの被害も甚大でしたが、その後襲ってきた津波はすさまじい爪痕を残しました。場所によっては津波は39メートルの高さにまで達しまし た。39メートルといえば、普通のビルの10階まで駆け上っても助からないことになります。海岸近くにいた人々は逃げ切れず、二万四千人近くが犠牲にな り、そのうちの九千人近くが行方不明のままです。堤防を乗り越えて襲ってきた大波にさらわれ、未だに遺体も見つかっていません。おそらく多くの方々は冷た い海の底に沈んでいるのでしょう。そのことを思うと、もし自分がその立場になっていたらと想像すると、胸が締めつけられます。生き残った人々も、その多く が家族や友人を失い、家や財産を失い、コミュニティーを失い、生活の基盤を失いました。根こそぎ消え失せた集落もあります。生きる希望そのものをむしり取 られた人々も数多くおられたはずです。

 日本人であるということは、どうやら多くの自然災害とともに生きていくことを意味しているようです。日本の国土の大部分は、夏から秋にかけて、台 風の通り道になっています。毎年必ず大きな被害が出て、多くの人命が失われます。各地で活発な火山活動があります。そしてもちろん地震があります。日本列 島はアジア大陸の東の隅に、四つの巨大なプレートの上に乗っかるような、危なっかしいかっこうで位置しています。我々は言うなれば、地震の巣の上で生活を 営んでいるようなものです。

 台風がやってくる日にちや道筋はある程度わかりますが、地震については予測がつきません。ただひとつわかっているのは、これで終りではなく、別の 大地震が近い将来、間違いなくやってくるということです。おそらくこの20年か30年のあいだに、東京周辺の地域を、マグニチュード8クラスの大型地震が 襲うだろうと、多くの学者が予測しています。それは十年後かもしれないし、あるいは明日の午後かもしれません。もし東京のような密集した巨大都市を、直下 型の地震が襲ったら、それがどれほどの被害をもたらすことになるのか、正確なところは誰にもわかりません。

 にもかかわらず、東京都内だけで千三百万人の人々が今も「普通の」日々の生活を送っています。人々は相変わらず満員電車に乗って通勤し、高層ビルで働いています。今回の地震のあと、東京の人口が減ったという話は耳にしていません。

 なぜか?あなたはそう尋ねるかもしれません。どうしてそんな恐ろしい場所で、それほど多くの人が当たり前に生活していられるのか?恐怖で頭がおかしくなってしまわないのか、と。

 日本語には無常(mujo)という言葉があります。いつまでも続く状態=常なる状態はひとつとしてない、ということです。この世に生まれたあらゆ るものはやがて消滅し、すべてはとどまることなく変移し続ける。永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。これは仏教から来ている 世界観ですが、この「無常」という考え方は、宗教とは少し違った脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、民族的メンタリティーとして、古代からほとん ど変わることなく引き継がれてきました。

 「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、いわばあきらめの世界観です。人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だ、という考え方です。しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。

 自然についていえば、我々は春になれば桜を、夏には蛍を、秋になれば紅葉を愛でます。それも集団的に、習慣的に、そうするのがほとんど自明のこと であるかのように、熱心にそれらを観賞します。桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば混み合い、ホテルの予約をとることもむずかしくなりま す。

 どうしてか?

 桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまうからです。我々はそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びま す。そしてそれらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、小さな灯りを失い、鮮やかな色を奪われていくことを確認し、むしろほっとするのです。美し さの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、かえって安心を見出すのです。

 そのような精神性に、果たして自然災害が影響を及ぼしているかどうか、僕にはわかりません。しかし我々が次々に押し寄せる自然災害を乗り越え、あ る意味では「仕方ないもの」として受け入れ、被害を集団的に克服するかたちで生き続けてきたのは確かなところです。あるいはその体験は、我々の美意識にも 影響を及ぼしたかもしれません。

 今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けましたし、普段から地震に馴れている我々でさえ、その被害の規模の大きさに、今なおたじろいでいます。無力感を抱き、国家の将来に不安さえ感じています。

 でも結局のところ、我々は精神を再編成し、復興に向けて立ち上がっていくでしょう。それについて、僕はあまり心配してはいません。我々はそうやっ て長い歴史を生き抜いてきた民族なのです。いつまでもショックにへたりこんでいるわけにはいかない。壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は修復できま す。

 結局のところ、我々はこの地球という惑星に勝手に間借りしているわけです。どうかここに住んで下さいと地球に頼まれたわけじゃない。少し揺れたか らといって、文句を言うこともできません。ときどき揺れるということが地球の属性のひとつなのだから。好むと好まざるとにかかわらず、そのような自然と共 存していくしかありません。

 ここで僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、簡単には修復できないものごとについてです。それはたとえば倫理であり、たとえば規範です。それ らはかたちを持つ物体ではありません。いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。機械が用意され、人手が集まり、資材さえ揃えばすぐに拵 えられる、というものではないからです。

 僕が語っているのは、具体的に言えば、福島の原子力発電所のことです。

 みなさんもおそらくご存じのように、福島で地震と津波の被害にあった六基の原子炉のうち、少なくとも三基は、修復されないまま、いまだに周辺に放 射能を撒き散らしています。メルトダウンがあり、まわりの土壌は汚染され、おそらくはかなりの濃度の放射能を含んだ排水が、近海に流されています。風がそ れを広範囲に運びます。

 十万に及ぶ数の人々が、原子力発電所の周辺地域から立ち退きを余儀なくされました。畑や牧場や工場や商店街や港湾は、無人のまま放棄されていま す。そこに住んでいた人々はもう二度と、その地に戻れないかもしれません。その被害は日本ばかりではなく、まことに申し訳ないのですが、近隣諸国に及ぶこ とにもなりそうです。

 なぜこのような悲惨な事態がもたらされたのか、その原因はほぼ明らかです。原子力発電所を建設した人々が、これほど大きな津波の到来を想定してい なかったためです。何人かの専門家は、かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことを指摘し、安全基準の見直しを求めていたのですが、電力会社はそれを 真剣には取り上げなかった。なぜなら、何百年かに一度あるかないかという大津波のために、大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかったから です。

 また原子力発電所の安全対策を厳しく管理するべき政府も、原子力政策を推し進めるために、その安全基準のレベルを下げていた節が見受けられます。

 我々はそのような事情を調査し、もし過ちがあったなら、明らかにしなくてはなりません。その過ちのために、少なくとも十万を超える数の人々が、土地を捨て、生活を変えることを余儀なくされたのです。我々は腹を立てなくてはならない。当然のことです。(バルセロナ共同)

日本人はなぜか、もともとあまり腹を立てない民族です。我慢することには長けているけれど、感情を爆 発させるのはそれほど得意ではない。そういうところはあるいは、バルセロナ市民とは少し違っているかもしれません。でも今回は、さすがの日本国民も真剣に 腹を立てることでしょう。

 しかしそれと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないでしょう。今回の事態は、我々の倫理や規範に深くかかわる問題であるからです。

 ご存じのように、我々日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ国民です。1945年8月、広島と長崎という二つの都市に、米軍の爆撃機 によって原子爆弾が投下され、合わせて20万を超す人命が失われました。死者のほとんどが非武装の一般市民でした。しかしここでは、その是非を問うことは しません。

 僕がここで言いたいのは、爆撃直後の20万の死者だけではなく、生き残った人の多くがその後、放射能被曝の症状に苦しみながら、時間をかけて亡く なっていったということです。核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、人間の身に、どれほど深い傷跡を残すものかを、我々はそれらの 人々の犠牲の上に学んだのです。

 戦後の日本の歩みには二つの大きな根幹がありました。ひとつは経済の復興であり、もうひとつは戦争行為の放棄です。どのようなことがあっても二度 と武力を行使することはしない、経済的に豊かになること、そして平和を希求すること、その二つが日本という国家の新しい指針となりました。

 広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 素晴らしい言葉です。我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこにはそういう意味がこめられています。核という圧倒的な力の前では、我々 は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出し たという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります。

 そして原爆投下から66年が経過した今、福島第一発電所は、三カ月にわたって放射能をまき散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。そ れをいつどのようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆 弾を落とされたわけではありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているの です。

 何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?

 理由は簡単です。「効率」です。

 原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイル ショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディア を買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。

 そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。

 そうなるともうあと戻りはできません。既成事実がつくられてしまったわけです。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足り なくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられます。国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本 で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていき ます。

 そのようにして我々はここにいます。効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。それが現実です。

 原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。

 それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北 でもありました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなり ません。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。そうしないことには、またどこかで同じ失 敗が繰り返されるでしょう。

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 我々はもう一度その言葉を心に刻まなくてはなりません。

 ロバート・オッペンハイマー博士は第二次世界大戦中、原爆開発の中心になった人ですが、彼は原子爆弾が広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受けました。そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。

 「大統領、私の両手は血にまみれています」

 トルーマン大統領はきれいに折り畳まれた白いハンカチをポケットから取り出し、言いました。「これで拭きたまえ」

 しかし言うまでもなく、それだけの血をぬぐえる清潔なハンカチなど、この世界のどこを探してもありません。

 我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。

 我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったので す。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられ た、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだった のです。

 それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして 社会的メッセージが必要だった。それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安 易な基準に流され、その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。

 前にも述べましたように、いかに悲惨で深刻なものであれ、我々は自然災害の被害を乗り越えていくことができます。またそれを克服することによって、人の精神がより強く、深いものになる場合もあります。我々はなんとかそれをなし遂げるでしょう。

 壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事 になります。我々は死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄にするまいという自然な気持ちから、その作業に取りかか ります。それは素朴で黙々とした、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くよう に、みんなで力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。

 その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関われる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉 とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げてなくてはなりません。それは我々が共有できる物語であ るはずです。それは畑の種蒔き歌のように、人々を励ます律動を持つ物語であるはずです。我々はかつて、まさにそのようにして、戦争によって焦土と化した日 本を再建してきました。その原点に、我々は再び立ち戻らなくてはならないでしょう。

 最初にも述べましたように、我々は「無常(mujo)」という移ろいゆく儚い世界に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅び ていきます。大きな自然の力の前では、人は無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、滅び たものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も 我々には具わっているはずです。

 僕の作品がカタルーニャの人々に評価され、このような立派な賞をいただけたことを、誇りに思います。我々は住んでいる場所も遠く離れていますし、 話す言葉も違います。依って立つ文化も異なっています。しかしなおかつそれと同時に、我々は同じような問題を背負い、同じような悲しみと喜びを抱えた、世 界市民同士でもあります。だからこそ、日本人の作家が書いた物語が何冊もカタルーニャ語に翻訳され、人々の手に取られることにもなるのです。僕はそのよう に、同じひとつの物語を皆さんと分かち合えることを嬉しく思います。夢を見ることは小説家の仕事です。しかし我々にとってより大事な仕事は、人々とその夢 を分かち合うことです。その分かち合いの感覚なしに、小説家であることはできません。

 カタルーニャの人々がこれまでの歴史の中で、多くの苦難を乗り越え、ある時期には苛酷な目に遭いながらも、力強く生き続け、豊かな文化を護ってきたことを僕は知っています。我々のあいだには、分かち合えることがきっと数多くあるはずです。

 日本で、このカタルーニャで、あなた方や私たちが等しく「非現実的な夢想家」になることができたら、そのような国境や文化を超えて開かれた「精神 のコミュニティー」を形作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。それこそがこの近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過して きた我々の、再生への出発点になるのではないかと、僕は考えます。我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」と いう名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。人はいつか 死んで、消えていきます。しかしhumanityは残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなり ません。

 最後になりますが、今回の賞金は、地震の被害と、原子力発電所事故の被害にあった人々に、義援金として寄付させていただきたいと思います。そのよ うな機会を与えてくださったカタルーニャの人々と、ジャナラリター・デ・カタルーニャのみなさんに深く感謝します。そして先日のロルカの地震の犠牲になら れたみなさんにも、深い哀悼の意を表したいと思います。(バルセロナ共同)





大館市の中学校で震災募金強制・校長居直り

2011-05-20 23:57:50 | 読み解けば‥‥
大館市の中学校で震災募金強制・校長居直り

秋田県大館市立第一中学校で「震災義援金に協力しない生徒名を黒板に掲示した。」
「募金していない生徒名掲示 秋田県大館市の中学校」(産経新聞)
秋田県大館市立の中学校では、生徒総会で1人200円以上募金を行うことを決め、震災義援募金していない生徒の名前を黒板の端に張り出した。
保護者の指摘を受け「同校の菊地俊策校長は『懲罰の意味で掲示したわけではないが、募金はお金に関することなので、配慮に欠けていた』と話した。」と言い訳するが実はそんなことは思っていなさそうだ。
そもそも生徒総会で義援金の募金を行うと言うことでさえ、生徒は自発的と言うより教師(学校)の指導の下で行われたから事実上の強制徴収という意味合いが強い
===
募金を200円以上としたことについては、中学校校長は、義務に近いものであったことからそう設定したと説明した。中学生はお小遣いから出すことになるが、「学年通信にも載せて、保護者にも協力を呼びかけ、理解してもらいました。ですから、問題ないと判断しています」と言っている。===(Jcast ニュース )
報道によれば、募金は義務だと校長は述べている。
ここで「学年通信にも載せて、~~」というのは、事実上募金ではなく徴収を意味している。
こういう立場は、秋田県大館市教育委員会学校教育課の担当者は真っ向から否定している。
常識から考えて、いくらでも良いからと募金箱を廻す程度というのが適当というものだろう。
多分、もしそうしたら中学校としていくらも集まらないと危惧したのかも知れない。
しかし義援金というのは、お金の金額もさることながらその時出せる金額の気持ちというものが「教育として」は重要なのではないか。
こういう募金に関して、金額の大小ではないというのは聞きかじりだが聖書にあるようである。
この校長というのは教育としての募金よりも、金額の大小を考えたと言うことだろう。
そして、募金と名を借りた強制徴収だから募金しない生徒の名前を公表したと言うわけだ。
義援金としては10万円程度が集まったと言うが、真実としてこの募金というのは教育としての募金の意味はなさなくなった。

それにしても東日本大震災後は書道関係でもいくつも義援金の要請が来た。
中には、選挙の時の支援者名簿のごとく、義援金を出す金額と人名の明細書を出せ最初にというのもあった。
個人的に義援金を出すというのはそれはそれで構わないことであるし、正式な領収書さえあれば税金の控除も受けられる。
しかし、金は送ったけれど詳細も何も分からない報告もないと言うこともあるし、現在送った金のその後は掌握していない。
そして、漏れ伺うところによると審査会員はいくら、無鑑査はいくらと金額指定があったという話もある。
何だこれは、書道関係というのは義援金の寄付ではなく強制徴収に近いではないかと思えたりする。
書道関係の先生方というのは、学校の先生が多いから秋田県大館の市立中学校の校長の様な感覚というのは、どこにでも存在すると言うものだろう。

守銭奴・ソフトバンク孫正義氏、転んでもただでは起きない

2011-05-16 23:24:16 | 読み解けば‥‥
守銭奴・ソフトバンク孫正義氏、転んでもただでは起きない

「ソフトバンクの孫正義社長は16日、寄付金を配分するための財団を6月上旬にも設けると発表した。」
「『東日本大震災復興支援財団』(仮称)を6月上旬に設立し、100億円のうち40億円は、財団が震災遺児に奨学金を出したり、被災地で活動するNPO法人を支援したりする資金にあてる。」 (朝日新聞Web)
ソフトバンクの孫正義社長は、東日本大震災に対して100億円を寄付すると言っていたのだが、2ヶ月経ったも1円も寄付していなかった。
それが今回「日本赤十字社と中央共同募金会にこの日、各10億円を寄付」をした上で財団を設立するという。
確かに、「孫社長は、2011年度から引退するまで、ソフトバンクグループ代表としての報酬全額も寄付する予定で、震災遺児などへの支援に役立てるという」(読売新聞)と言うことだが、一々日本赤十字社に寄付をしていても埒があかない。
そもそも国は、義援金を配布するシステムが出来ていないのだから孫社長の財団設立というのは理に合っている。
考えてみれば分かることだが、孫社長が役員報酬を返上しても元々税金でもって行かれる金を財団に移すと言うほかに他ならない。
小生などの様に、もし給料を返上したら明日から食うに困るという人たちでないというのは孫社長が事実上のオーナー社長であるからである。
黒字会社の株配当ぐらいで充分金に困らないくらいな事は想像出来る。
いずれ、「東日本大震災復興支援財団」は「孫財団」に名前が変わるだろうし、そうすることが世界の一つの常識である。
言い換えれば、孫社長も老後を考えてカーネギー財団のように名前を残すという方策に燃えているというものだ。
東日本大震災では、ソフトバンクの携帯電話だけが中々使えない時期が長かった。そして、種々の噂も週刊誌に流れた。
一方で、「孫社長が菅首相を激励 自然エネルギー推進で意見交換」とやたらと菅総理を激励しているというのはどう考えても理解に苦しむ。
「孫氏は、太陽光発電など自然エネルギー推進の重要性を指摘。」と言うから、孫社長も発電事業でも行うのかと思ったらどうもそうではないらしい。
太陽光発電と言うのも自然を相手にするから中々定常的に発電出来ず、しかも電気は貯めておけない。簡単に言えば、夜は発電出来ないから蓄電池に貯めておく必要がある。
膨大な蓄電池が必要なら、今度は蓄電池の問題も出る。
日本では、台風、地震があり、風力発電所を設置する遠浅の海はなく、風力も安定しない故に風力発電が事実上成立しない。
そのために今言われているのはヘリウムを使う「高温ガス炉」という今までの沸騰水型原子炉に代わるものである。(日経新聞)
技術は進歩するから今後どうなるか分からないが、沸騰水型原子炉のうち古い型はなるべく早く廃棄して少なくとも新しいものに取り替え、新技術を待つしかあるまい。
少し前、SoftBankの本社にテレビカメラが入ったことがあった。
その巨大で近代的なビルというのは、米国映画で見たような超デラックスなものだった。
その絵に描いたようなと言うか、TV番組のセットにでも出て来そうな社内。
こんな豪華に仕事をしていて、我々からは年200,000円もふんだくるのかと思ったりして。
東電の社長の役員報酬が7,000万円を超え、SoftBankの社長が100億円寄付する。
東京にある会社というのは、地方や協力企業を犠牲にして成り立っている虚業という感じには、SoftBankの社長も当てはまるように感じるものである。
それにしても、もうSoftBankの「お父さん犬」CMも飽きてきた感じがしないでもない。

家系図を作ってみて分かった面白さ

2011-05-15 23:11:23 | 読み解けば‥‥
家系図を作ってみて分かった面白さ

先日従姉妹くらいに相当する親戚が亡くなった。小生くらいの歳になると親というのは過半が亡くなる場合が多い。そして、昔の友人というのがボツボツなくなったと言う話を聞いたり、年賀状の返事の代わりに訃報を書いた寒中見舞いが来たりもする。
母方の実家では、墓の改葬をするとかで法事に託(かこつ)けて親戚縁者が集まったことがある。旧家だと、昔は土葬だったから人1人亡くなると一つの墓が出来る。それで沢山の墓が出来て、故事来歴というのが一目瞭然と言うこともある。
そこで渡されたのが、墓を元にして作られた過去何代に亘っての直系だけの家系図である。直系だけだから、その家系図には小生などは影も形もないどころか母の名前すら無い。
それで、「わが家」はどうなっているのかと戸籍謄本を見て概略をつかんで一つ作ってみた。
自分の直の家系は、見知っている人もいるのだからあっと言う間に出来てしまうし、明治以前というのは付票で分かる事もあるし、分からない事もある。
それでも曾祖父の時代くらいは粗方判明した。
ところが、祖父というのが埼玉から婿に入っている。それは、まったく別系列の家系の混入でその系列の家系を調べないと良く分からないと言う事になる。
実は、その家系からは母方の祖母が出でいて、益々複雑な親戚関係というものを形成している。
昔というのは、こういうふうに親戚、遠縁からの姻戚を持ったのでこんなことになっているというものである。
その祖父の戸籍謄本というのは、不思議なことに母の戸籍謄本を取ったときに母の実家の市役所から交付された。多分、事前に種々の姻戚関係を説明しておいたので取り寄せてくれたのかもしれない。
それで図らずも祖父の姻戚関係が明らかになって、家系図の横の広がりというものがはっきりした。
その戸籍謄本、実は非常に読みにくい。筆書きだったり、良く分からない癖字で細かく書かれていたりなのである。
それを解読するだけでなく、系列化して行くと言うのは結構面倒である。但し、戦前は「家督相続」であったので一つの戸籍謄本で全て書かれてある。
それが戦後になると、分籍になるのでほとんど分からないと言うものなのである。
その手書きでまとめてあった二家族の家系図を、パソコンで書き直して見るといろいろ疑問点が出で来る。
結局、分かる範囲の4家族の家系図を一つにまとめてやっと全容が掴めたと言うものであった。
なぜそんな面倒な作業を再開することになったかと言うと、先日亡くなった親戚というのが、100歳で健在の大叔母(祖父の兄妹)のところに来た養女なのである。
その養女に来た先が祖父の姻戚関係というものだったからである。
そうだとすると、家系的にどういう関係になるのか興味を引かれるところである。
亡母あたりはピンと来たらしいが、見た事も聞いた事も無い遠縁というのはまったく未知というものである。
そうして幾日も掛けて完成に向かってきた家系図というものは、新たな興味が出で来る物なのである。
その一つというのもが、江戸時代名主だった家が大方「○右衛門」だったことである。
正確には、何代目・○右衛門である。
ちなみに出てきたのは、「安右衛門」、「茂右衛門」、「勘右衛門」である。
このうちの勘右衛門は、寛文年間までは石高500石の武士であって、主家が取り潰されて帰農したしたと年代記にあるという。
しかも、その分家には江戸町奉行所の与力もいたと言うから、江戸時代の兵農分離というのは見せかけだけである。
新田源氏の家系に位置する我が家系というのは、分家、分家となっていて実は何だか分からない。但し、現在の本家は二代で絶えていて「安右衛門」の系統から婿が来たと言うことである。
そして、母方は「茂右衛門」、「勘右衛門」の系統になっている。
もう20年前に、頻繁に世話になった親戚、遠縁というのがいたのだが、未だにこの系譜は全然わからない。
見当をつければ、母の祖母の実家の系譜らしいのだがその戸籍が手に入らぬし、そちらの親戚に会う事も無いからこれで終わりと言うものかもしれない。
そして、明治以降当地に移り住んだ曾祖父の形質を一番継いでいるのが、なんと大叔母だったとは当然ながら今頃気がついた。
小生の父も含めて、初代の形質などこれっぽっちも継いでいないというのは、良かったのか悪かったのかである。
それにしても自分の子どもを見て、隔世遺伝というのは悪い形質として良く出るものだと感心する。まったく困ったものなのである。