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書道家Syuunの忘れ物

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syuun の不思議な少年時代 その18 第二部 希望を持って

2007-09-22 12:31:55 | syuun の不思議な少年時代
syuun の不思議な少年時代 その18
第二部 希望を持って
「希望は人を成功に導く信仰である」とは、ヘレンケラーの言葉だ。
小学校5年生の3月、今から思えば「天冲殺」という運勢の停滞時期を抜けた時期に当たる。
ヘレンケラーの言葉を知ったのは、なんと書家と自称するようになってからである。
時は、昭和38年・1963年だった。
60年安保という、あの日本中を狂気の中に巻き込んだ風潮も東京オリンピックという「希望」のもと既に忘れ去られてきていた。
60年安保では、「岸」が悪いと一般国民まで「岸」嫌悪に陥っていたが、その内容については誰も言ったことはなかった。
日米安全保障条約廃棄と言うものの当時の条約は非常に妙な条約であった事は、安保の熱が去った後に知った。それにしても前年の1962年というのは、あの「アルジェリア紛争」が終結したときだった。
このことは、ラジオのニュースで報じられていた。ラジオのニュースでは現地での歓声が聞こえたように記憶する。
そして、「アルジェリア紛争」をフランス政府が独立戦争と認めたのは50年以上経ったつい最近だった。
事はそれだけ「アルジェリア紛争」には複雑な背景があり、元々テロという形でフランス系住民の赤子から婦人老人まで皆殺しにした事から始まるからである。
 映画ロスト・コマンド 「名誉と栄光のためでなく」1966年 米‥は、この「アルジェリア紛争」を題材にしたものだった。
60年安保の時から10年、1970年の70年安保は、安保延長だったが実は60年安保ほど一般国民には浸透しなかった。
このときには、60年安保の実態は既に十分に左翼人士、極左活動家にも浸透していたように記憶する。
そして、60年安保でノンポリ学生を犠牲にして生き残った無傷の学生は、大学では教授などの教官になり、実業界では管理職になって高度成長時代を生き抜く。
そして、今現在政界では又60年安保時代の再燃を繰り返しているのは実に不可解である。しかも、60年安保に荷担して学生運動を起こしながら何の反省もなく、しかもその経歴和ひた隠しにして来たのが、65-70歳の爺様だ。
そんな狂気の時がほんの二年少し前にあったということなどすっかり忘れ去られ、38年はオリンピック一色になった。
そして、当時の皇太子のご成婚の時にテレビが普及したのと同じように、テレビを無理しても買おうという雰囲気になったのはこの頃である。
では、我が家と言えば、戦後の就職難から安月給の公務員なった父の給料からは、中々その金は出てこなかった。
結局買ったのは、この年の秋昭和38年東京オリンピック1年前である。
実は、ジョン・F・ケネディ暗殺事件シーンを初めて衛星中継で見たのもこのときだった。
「まさにその日行われた初の日本とアメリカ間のテレビ中継実験(衛星通信)を通じ、日本にも即座に報じられた。ウィキペディア(Wikipedia)」
いずれにせよ、小学校5年生は終わり、昭和38年度の新しい小学校6年生が始まろうとしていた。
新しいというのは、今まで4クラス52人強のクラスが再編成されて、新しい教師の元新クラスが編成されることになったからである。
そして、今の元となる「書道塾」へ自ら「行きたい」と言って行くことになった。
不思議なことに、父は地元で生まれた土地っ子であるはずなのに、こういう事には全く関与しなかった。
だから、書道塾と言っても、今で言えば二流の弱小の塾と言って良い。
しかし、小さいときの失敗や悔しかったことは、必ず「糧」となって将来に生かせると思ったのは、今だから言えることだ。

syuun の不思議な少年時代 その17

2007-07-21 01:16:50 | syuun の不思議な少年時代
東京タワーが創建当時、東京タワーに登るためにその一画を何重にも取り巻く見学列というのは有名だった。それから3年経った時でも未だ長い列は健在だった。
確か、品川まで国電(親たちは省電(鉄道省)なんて言ったりした) で行き、そこからタクシーで210円(?)。
遠くから見えたオレンジと白の塔が間近に見えてきたなと思ったら、タクシーが道ばたに止まった。なぜかというと道路反対側が行列の最後尾だった。多分街路の半周はしていた。

この頃というのは、娯楽と言えば映画か、テレビ中継したプロレス程度のものしかなかった。力道山と良く人の話には聞いたが、未だ小生の家にはテレビがなかった。
だから、夏休みになると毎年小学校の校庭で映画をやった。始まる前はプロレスのTVをプロジェクターで見せていたりもした。映画は大体古い映画で、ほとんど覚えていない。
小学校でいっぺん見た豊田佐吉(豊田自動織機の創業者)の伝記の映画(モノクロ)は、二度目だから良く覚えている。
この頃映画を見たと言えば、怪獣映画だった。
初めての怪獣映画は、ゴジラだった様だが寝てしまって良く覚えていない。
次に見たのが
『空の大怪獣ラドン』1956年に公開・東宝だった。
なんだか、カラスの様な感じだった。
次は、『大怪獣バラン』1958年(昭和33年)公開の東宝・だった。怪獣が羽を広げて飛び去るという妙なヤツだったがモノクロだけに迫力があった。
次はと言いたいが、怪獣映画は怖いからと連れて行ったもらえなかった。
だから、以後は子供同士で行った。
36年と言えば『モスラ』(1961年)だ。ザ・ピーナッツがモスラ使いとしてで出来たのには驚いた。そして、この怪獣映画と抱き合わせで放映していたのが加山雄三の若大将シリーズだった。
但し、大学の若大将 (1961年・東宝/杉江敏男監督)は見ていない。なぜかと言えば、遅くなるので怪獣映画だけ見て帰ったからだ。
銀座の若大将 (1962年・東宝/杉江敏男監督)は記憶にないが、日本一の若大将 (1962年・東宝/福田純監督)は多分見たと思う。
確実に記憶があるのは、ハワイの若大将 (1963年・東宝/福田純監督)からだ。
海の若大将 (1965年・宝塚映画/古澤憲吾監督)
エレキの若大将 (1965年・東宝/岩内克己監督)映画館で見たのはここまでだ。
寺内タケシがソバ屋か何かの出前をやっていた。
「君といつまでも」の星百合子は八重歯で、この頃が一番綺麗だったねぇ。
確か、星百合子は従兄弟と同じ神田の小学校だったと、昔をよく知る従兄弟は言っていた。

以下 つづく‥‥


syuun の不思議な少年時代 その16

2007-07-19 23:26:34 | syuun の不思議な少年時代

昭和35-6年というのは、東京タワーが出来た直ぐ後のことだ。
昭和36年(1961)、江戸っ子(?)の従兄弟が推薦入学で大学へ入り、暇で案内してくれた東京タワー。
出来て直ぐに行かなかったのは、東京タワーに登る行列が凄くてとても行けたものではなかったからだ。
それでも、このときの東京タワーはどこかの高層ビルの展望台に登る騒ぎだった。
直下に国会議事堂が見えたのを覚えているが、遠くは霞んでいた。
高層ビルの展望台とは違うのは、エレベーターを使わずに外階段で下りることが出来たことで、これを下りたから本当に足が震えた。
網は張ってあるが、外が丸見えなのである。

東京も未だ都電が走る街だった。
都電の良いところは、都電が来たと言うので都電の後を走って行く追いつき乗れたことだ。
場合によっては、線路を追ってどこへ行くのか見て、当てずっぽうでも乗れたことだろう。
そして、まだまだ東京都いえども車は少なかった。
いずれにせよ、何やらくすんだ都市という印象が残っている。

この頃から、公害が騒がれ大気汚染が緩和された1980年代まで、東京人はその顔色で判った。要するに日が当たらず、顔が青白いのである。
それで、よく東京に住むと水がよいのか、色白になると言われていた。当時汚染が始まった東京の水道水が良いはずはない。
今は、スモッグもなくなって東京人も地方人も肌の色は変わらなくなった。

都電の石畳を残す東京とは違い、地方はまだ未舗装だった。
但し、国道17号は東京タワーが出来る頃にコンクリート舗装になった。
なぜなら、相馬が原の自衛隊に戦車が置かれてあったからだ。その戦車が国道17号を走っていつもどこかへ行っていた。
鉄のキャタピラだったから、ゴーというもの凄い音がした。
だんだん主要な道路は舗装されたが、当然市道がほとんど舗装されるのは未だ未だ後のこと。

この頃には、朝の納豆(始め5円後10円、15円~35円~)売りも豆腐売りも回ってこなくなった。
学校給食は未だに脱脂粉乳なのに、一般家庭には牛乳を取っていたのもころころ。お米は未だ配給米だったが、配給キップを出さずに買えたようだ。
夏になると、未だ金魚売りは未だ健在だった、

又木枯らしが吹く頃になると学校の校門の外にゴム鉄砲屋の屋台が並ぶ(多くて2台)こともあった。
このゴム鉄砲というのは、針金で何やら上手にこしらえたもので、ピストル型の一番安くて簡単なものでも70円から150円位した。
高いのは、300、500円位。結構高いものだ。
それで、このゴム鉄砲の一番安いヤツを2回ほど買ったことがある。買って、少し遊んでいると鉄砲の先端の針金がグニャリ。
これでフニャフニャになった針金はゴムの張力に耐えられず、一巻の終わり。
そうでなければ、連発式のものは何やら針金が引っかかって調子が出ないなど色々だった。
そのほか、祭りでもないのに飴細工の屋台が、校門の出入り口付近にあることもあった。
まあそんな時は、大体子供の持っている金からすると高いから、家に帰ってから近所の駄菓子屋に何やら、お口直しに見学に行くと言うのが常だった。

それにしても、街の中心部にある色々な細かいところが、変わって行くのに気がつくものだった。
直ぐ横の通りに大きなショーウィンドーの店があり、中にはかって輸入物の高価そうなトラクターや耕運機が展示されてあった。
しかし、その頃はそのショーウィンドーにはカーテンが掛けられたままだった。

そこでは、トラクターにつけて使う大きな鍬だか鋤だかのものがあったと思ったら、消え、そのうち何ヶ月後にドロの付いてたまま展示してあったこともあった。
そこの息子は、小生と別のクラスの児童だったが、共通の友人がいて多少顔見知りだった。
いつも学校帰りに立ち寄ると、お菓子をくれたことがあったから、よく覗いたものだ。

それが、その店について行くとある時から父親の電話の声だったり、母親が電話を受けている時だったり慌ただしい雰囲気にかわった。

その農機具屋、既にその頃から農協が勢力を伸ばし農家に農機具を売りつけていたから、フリーの農機具屋は太刀打ちできなかったようだ。
その上、月賦でと農機具を農家に押しつけるが、月賦の金額が入らないと催促すると借金取りにもって行かれたとか‥‥‥いろいろあったらしい。
まあ、あまり使い物にならない高価な農機具を売ってと言うが売れもせず、代金回収も出来ず結局夜逃げをした。
夜逃げの前日に、その農機具屋の息子に会った。
なんと、明日から「いなくなる」からこれでお別れだ。
いや、もう行くところは決めてあるし、多少の金もあるから何とかなるのだ‥‥‥と。

そして、向かいのオートバイ修理工場も突然工場を閉鎖してどこかに行ってしまった。
兎に角、この頃というのは何やら変化の兆しが大部見えてきた頃であった。

以下つづく‥‥


syuun の不思議な少年時代 その15

2007-07-14 10:47:45 | syuun の不思議な少年時代

小学校の4~5年というのは、自分の存在意義を否定された時代であったが、それなりにいつか今度こそはといつも誓っていた。
しかし、今度はいつ来るのかは判らない。しかも自分がスロースターターであることに未だ気がついていない時だった。
スロースターター‥‥それは、みんなが走り始めているのに、未だ走り方の基本が掴めていない、航路が見えないとスタートしない姿だ。
但し、一旦スタートすれば、ワープ航法だから、先の者も一瞬にして抜き去っていることに本人が気がつかないこともある。‥‥と知ったのはずっと何年も後のことだ。

今から考えれば、幼児から抜けきらない子供から、もう少し大きな少年への過渡期だった。その足踏み状態が大きいというのは、今から考えてみたら、驚くほど多くのことをやっている時期だった。
4年の夏休み、扁桃腺肥大の扁桃腺を手術。‥‥これで風邪を引かなくなった。
5年の夏休み、二回目の海へ行く‥‥これで泳げるようになった。
但し一回目は4歳、熱海だから海にはほとんど入らず。
4年の冬初めてのスキー・スケートをする。共に赤城山の天然リンクなど。

旅行というのは、実は母の実家の埼玉の行田市へ行くのが旅行だった。そしてたまには、東京の千代田区の叔母の家に行き、従兄弟にあうことが何年にいっぺんはあった。
そして、最後のC62の蒸気機関車を見たのはいつだったかはよく覚えていない。
最後に見たのはC62だったが普通はC58形だった。
C58は無骨な感じだったが、C62はスマートだった。
しかし、小学4~5年の時には、高崎線は、湘南電車型という深緑の地に窓の部分に橙が入った電車だった。
但し、両毛線も含め、えび茶色の電車も走っていた。

この頃の写真は?というとあまり残っていない。
なぜなら、今のようにカメラが普及していないからだ。カメラかなかったというと、二眼レフの大型と小型そして、おもちゃのようなカメラがあった。
そして、いつもまともな写真が撮れていないのは当時の常識だった。
子供がペトリなどというバカチ 
<wbr>ョンカメラをもって歩くことがあったが、写真は?と聞くとほとんどピンぼけで、撮れたのは一枚もないと言う有様だった。
まともな二眼レフは兄が持っていた。しかし、二眼レフは故障したらしく、その後見たことはない。そして、今でも残骸がある小型の二眼レフのお下がりをもらって撮った写真が多少残っている。

それで写真機をと‥‥父と兄と小生で、なんと高崎の駅前のカメラ屋まで父の12月の年末ボーナスでカメラを買いに行った。
当時のカメラはレンジファインダーカメラだ。
ニコンは、というと値引きなしで50000円(?)位だったか、兎に角びっくりするようなもの。
結局買ったのは、型落ちのヤシカのレンジファインダーカメラだ。
確か15000円くらい。
すばらしいメカの物だっが、兄によるとまともに撮れたことはなかったという。
だから、このカメラで撮った写真はほとんどない。
しかも、5年の春、母の実家からの帰りの列車の中でなくしてしまった。

5年の頃は失敗の連続だ。その上、注意散漫な時期だった‥‥なぜだろう。

以下 つづく


syuun の不思議な少年時代 その14

2007-07-13 15:55:10 | syuun の不思議な少年時代

小学校の4-5年というのは、実は母から一時的に見捨てられた時代だった。
なぜなら、5年生の時は、兄の大学受験を控えていたらだ。
それならば4年の時はどうなのかとうと、なぜだか兄の高校での成績が良く、母は弟はまあそこそこやってくればよいと放任した時期に当たる。

一方、何故だか知らないが、兄は暇さえあれば小説を読み、冬は毎週、フィギュアスケートに凝っていた。但し赤城山の天然リンクでだ。
中学から「凄いヤツ」と評判の兄だったが、高一の時は鳴かず飛ばず、前橋高校の高二で上位10%強に食い込んだ。
しかし、息切れしたのか高三は多少低迷していたようだ。

小学5年の夏休みの宿題に、水中翼船を本を見て造った。
高価なバルサを買ってきて削りだして作る。実は、この頃カッターというものが未だ通していなかった頃だから不揃いな切り方だ。
結局兄のアドバイスを受けたが、塗料を厚く塗りすぎて結局水上から浮くと言うことにはならなかった。
今から考えると、たとえ上手く作っても、まともに滑走する代物ではなかった気がする。

そんな受験の邪魔のその他は、HOゲージの切り替えポイントを作ってもらったことだ。
HOゲージの鉄道模型は、4年の時に今まで貯めていたお小遣い全てを…と思って買ったものだった。
買ったのは、丸いループの線路一式‥‥真鍮製線路1本400円。(8本)
電気機関車‥水色に塗られた変なもの‥‥1000円。
客車1両‥‥750円。
パワーバック‥‥1000円

こんなものだった。
ところが、当時はOゲージ(軌間32mmの線路‥?)という大型のものが普通で、OHゲージというものは新しいものだった。
本当は、Oゲージの本物そっくりの模型が欲しかった。
しかも、当時の電車そのままに塗られ、内側から空き缶の再利用という印刷が見えるもの。
精々650円~850円だった。
安いもの650円は、貨物用の気動車だった。
それにしても上手く作ってあった。こんなものは、戦後職がない技術者が本職の力で作った凄いものだった。
天賞堂のオール真鍮製のD51模型など、今では作れないそうだ。

線路もアルミ製で1本55円。
パワーバック650円で高性能。
これなら、何とか買えるという代物だった。
しかし、兄は何を思ったが今ならOHケージだろうと、Oゲージを真っ向から否定した。その上Oゲージなら自分で買いに行けと突き放したから、結局つまらないHOゲージになった。
この辺のところは、実は今でも多少兄を恨んでいるところなのだ。

ジオラマを作らない鉄道模型はタダの動く電車のおもちゃ。
しかも作りが良くないものだった。
真鍮は直ぐさびる、すると電気抵抗が増し、線路の電気が流れないのだ。
パワーバックも多少壊れ、大学時代、家にいない時に、誰かにもって行かれた。
これ持っていって良いか??何でも良いよ!
と言っていながら、何を持っていたが分からない有様だった。

以下 つづく‥‥


syuun の不思議な少年時代 その13

2007-07-11 23:42:27 | syuun の不思議な少年時代
突然一番前の机に座らせれて、試験問題をもう一度やらされる。
こんなことは、以前からたまに2~3人の児童がやらされることがあった。
試験問題の2題ぐらいでこの連中は1時間(45分)考えても出来たためしがない。
今回は、呼び出されたのは、小生を含めたから常連組を含み5-6人になった。
中には1問だけというKもいたから、元の机に返される児童が続出して、小生のようにまず2問次に1-2問と随分やらされた者は小生だけたった。
残された最後の3人だ。
以前は、試験で出来なかった問題を再度指導するのようなことだったが、実はカンニングの確認テストだった。
なぜこんなことになったのかというと、最近算数の試験の成績が良かった。
だからたまに100点を取ることも珍しくなかった。
しかし、「小生は馬鹿」と言うことになっていたので、算数で100点など取るはずがないと言うことだったようだ。
実際、5年の2-3学期からはそこそこ算数は良い点数だった。但し、通信簿には反映されないが。
だから最近は、隣のKの答案をカンニングして点数を稼いだと思われたのかも知れないと後になって思いついた。
実際は、隣のKより点数はよいのだ。それに出来ないヤツの答案など見てもしょうがないではないかと言うところだ。

これには、さすがの小生も「カチン」来たので、母に来てもらった。
カンニングをしていたのではないかと言うような話をしたようだったが、証拠はないし、試験をやらせても出来るわけだから‥‥‥ねぇ。

しかし、これにはもう限界だと母は分かったようだった。

3月が近づき、鼓笛隊の交代の時期になった。
一番人気は小太鼓だったが、そんな情報は全く知らなかった。
第一、先生もお気に入りの児童にしか話さなかったようだ。
他のクラスはちゃんと知らされたというのに。
それを気がついたのは、何やら毎日太鼓のバチをもって叩いて練習をしている連中からだった。
それではというのだが、選考の当日、あわてて太鼓のバチを借りて試験を受けたが、出来るはずがない。
倍率2-3倍で当然落選。
鉄琴は、女の子が4人手を挙げて決定。
実は、笛を吹かなくて良いなら、中太鼓程度でも何でも良かったのだが、中太鼓は誰も手を挙げる者がなかった。
この頃は、馬鹿だったねぇ‥‥ぼ~~としていた何も気がつかなかったようだ。

もっとも、NY先生の下で又何やらやらされるのも嫌だったが、何か自分の命運というか自分そのものが未だ見えてない時期だった。
TKは、大太鼓の予定だったが、結局6年が始まった時は、先頭の指揮者だった。
そして、小生は成績の悪い「馬鹿」人間ととして一番後ろからやる気もなく、のこのこついて行く笛の一員だった。
但し、気分が楽だった。

5年の3月、上級生のベビーブーマーが全部卒業することになり、教室が余ったので52-56人4クラスから44人5クラスへ編成替えになることになった。
校長先生から母は予め聞かされていたらしく、今度増える6年5組の編成替クラスに行くことになっていたという。
そして、実際今までのクラスは、実は大きく変わらず半数程度が移動したような感じだった。
だから依然として6年2組はNY先生担当だった。
当然のこと、お気に入りのほとんどは残留した。

実は、別のクラスに行くのを希望していた児童が別にもいた。
それは、母親が学年の副代表をしていた材木屋の娘Iだ。
Iは、5年の後半、何か髪の毛が後ろの産婦人科医の娘・UEの机に落ちたとか何とかで、UEになぜか苛られるようになっていた。
Iは、大人しい子で反論も出来なかったから、何も反論しなかった。
UEというのは、わがままで、底意地の悪い嫌なヤツだったから小生も近づかなかったが、この児童の周囲は、何をされるか分からない危険区域だった。
その上、成績優秀で先生のお気に入りと来ては、不満を訴えても無理な話なのだ。
‥‥どんな風‥‥UEさんが授業中後ろから悪戯するのです‥‥UE‥やっていません。
で終わり。
‥‥が、実際は、毎時間何やら後ろから突かれるなどの嫌がらせをやられ、2-3日来なかったことがある。そんなときは、Iの母親が怒鳴り込んでくるのだが‥‥どうしてる?で大体帰った。
実は、UEというのはクラス委員だ。国立の学芸学部付属中学へ試験で合格したくらいだから当時は勉強は良くできた。
その上、優等生を偽装していたから困ったヤツだった。
容姿‥‥当時は少々小悪魔的な美貌で細身、今で言えば小学生のくせに「ブランド」娘。
金の力とプライドはひときわ高いというガキのくせに嫌な娘だった。

小学校に購買があり、4年の時みんなが見ていたのは、水色の綺麗な絵の具(ブリキ製)入れだった。
ところがこの値段が高い。確か750円。
普通の筆箱が100円の時代だ。高級品というものでも2-300円が精々。
小遣いの何ヶ月分を中々あんなパレットに掛ける勇気もなかった。

そのパレットをいとも簡単に買ったのがこのUEだった。
ところが、このUEというのは結構物を大事にしない。5年になる頃には薄汚れてペコペコだった。‥‥最後はクラスのゴミ箱にポィと捨てた。
小生など、無理して買わなくて良かったとは子供ながらよく分かったものだ。

後から聞いたら、みんなそう思ったそうだ。
まして、UEの前に無理して買ったら、きっと意地悪されていたろうと心をなで下ろすものだった。
そして、当然2組残留組だ。NY先生のお気に入りだったからである。
このIもUEも共に前橋女子校で同窓生になったはずだ。
Iの母親には、25年後には色々会うことになったから、Iの消息は聞いた。
UEは、よく分からない。東京の有名大学を卒業して東京に住んでいるという噂だけだ。但し、婿取りだったUEの母親は、相撲取りの様な大デブで比較手は早くに無くなった。卒業写真でも異様な風体だった。

以下 つづく‥‥

syuun の不思議な少年時代 その12

2007-07-10 00:04:27 | syuun の不思議な少年時代

鼓笛隊、今ではマーチングバンドだが昔は鼓笛隊という、太鼓と笛のものだった。
この鼓笛隊というものを市の小学校は全部作ることになったようだ。
だから夏頃から急に早朝練習と言うことになった。早朝練習があるから朝の塾は行かなくなったともいえる。
なんと言っても、今度この曲をするから練習してくるようにと言う。
しかし教科書に載っていたかどこかにあったかという曲だ。
元々やる気のない感じだったから、なんとかズルをして適当に吹いていた。
そう、5年生の時は本当に何もやる気がなかった。
実際は、まともに吹いている児童など本当にいたのかと思わせる寂しい音だった。

男のクラス委員には、相当反感を買っていたTSと色の白い好男子風のTKがいた。
TKは優等生で後に前高から都立大(首都圏大学)へ行った。
そのTKはこの頃成長が早かったのだろう、もう背が大きかった。
それで突然に大太鼓に抜擢された。‥‥なり手がいない??と言うことだそうだ。

まあしようがないとはいうものの、鼓笛隊もあっという間にまともな鼓笛隊なったのは不思議だった。
だんだん冬が近づき、寒くなってくると暖房の時期になるのだが、新校舎だからとガスストーブと言うことになった。
養護学級(保健学級)の時は、スキー場でも使われるような重油ストーブの立派なヤツで、これは特別に設置されたと以前T先生が言っていた。
4年の旧校舎の時は、石炭のだるまストーブだ。こいつはお湯が沸かせるから色々と都合が良かった。但し湯を使ったことはないが。
それが今度は、円筒形のガスストーブ。
ガスストーブの大きさに比べて教室が大きいから、正に寒い教室だった。
なんと言っても、本当にストーブの周りしか暖かくない。

そんなストーブもまだ12月はよい。1月末の冷える頃になると本当に寒いのだ。
そしてこの頃学年末が近くなったのか、何やら試験ばかりだった。
夏前の全国統一試験で算数100点を取ったMMがクラス委員になったりもしたが、特に変化もない。
逆に言えば、MMは、たまに先生のお眼鏡にかなった点数が取れない時もあり、「実力試験の点数はマグレだったのか」と試験答案を返す時、NY先生が言い出すこともあった。

何やら最近NY先生はかなり強気なのだ。
母によるとPTAでもうどこにも転任させることは出来ない、何年も居座ると行っていたそうだ。
事実その後10年くらい桃井小学校にいたらしい。
それから10年と言えば小生が大学生になっている頃だ。随分と長い。

正月の元旦、以前は元旦は学校の招集日だった。
元旦に学校へ行って、寒い校庭で校長の話を聞き、クラスに帰ってミカンをもらって帰るこんなことだった。
但し、3年になったときには冬の招集日が無くなった様な気がする。
そして、夏休みの招集日もだんだん無くなってしまった。

今は、全校児童を集めて、先生のお話というのは体育館でする。
しかし、昔は体育館もなかったし、だいいち1000人も入る場所はどこにもになかった。
校庭に整列している写真が卒業写真に使われている。
昔は、いつもそんなものだった。

席替えは学期ごとに行われたが、3学期は算数が得意(?)と言われたKと隣り合わせになった。
クラスでは、以前Kは算数が出来ることになっていたが、実際は算数の計算が得意で、少し複雑になると全くお手上げだった。
逆には、小生は計算は苦手だか多少面倒な算数に困ることはなかった。

だから授業の算数の練習問題は、計算式まで出して最後の計算をする時に答えだけ教えろと言うわけで写していたことがある。
逆には、分からないからと計算式まで教えて、計算だけさせていたことがある。
どうせ、かけ算、割り算などは、時間を掛ければ出来るのである。
ついでに言うと、算数の概念より数学の概念の方が性に合っていた。
かけ算も‥‥10円の物が5個は、10×5   は◯
しかし、5個あるものの1個の値段は10円だと 5×10  は×
少し言い回しが変だが、数学的に同じだ。

そうやって算数の授業は、適当に手抜きでやっていた。
今から思えばなぜだったのか‥‥と思うが、何やらやる気をなくしていたというかよく分からない。
6年になった以降そんなことは一度もないのだ。

今自分の子供を見ていて、同じように適当に誤魔化していい加減なのは、同じDNAのなせる技なのか‥‥何やら心配になるところだ。

だから、普段の試験も同じようだった。
問題の計算式全てを書いて、隣のヤツ(K)に計算だけさせていた。
これは、立派なカンニングというヤツだが、どちらかと言えばほとんど理解できていない隣のKの方にメリットは大きかったはずだ。
但し、いつもやっているわけではない。

ところが、ある時の試験後、NY先生が一番前の空いている席に座れと言う。
そして、この前の試験の問題の難しそうな「これ」と「これ」をやれと言う。
別に、内容は分かっていたから、短時間に解けたので出来ましたというと、今度はこれをやれと言う。
計算問題は面倒だったから嫌だったが、計算が少ない文章体は得意なのだ。
それも難なく解いたら、席に戻れと言う‥‥‥

まあ、ストーブの前で暖かくて良かったと思った一日だか、何やら嫌な感じがした。
いずれにせよ、試験の点数はつかなかった。

前に座らされたの理由。
その後に周りに言われて気づくが、随分と見くびられたものだと感じた。

‥‥先生よ俺の本当の実力を知らないな‥‥だ。‥‥

なんと言っても、5年も最後の何ヶ月となると、4年生の最初に(成績優秀者候補として)並んだ児童の何人かはとっくの昔に脱落していた。

但し、クラス委員になっていたほとんどは、そのまま優等生に変わりはなかった。
委員になった6人のうち4人は少なくとも前高、前女には将来進んだからだ。
しかし、その他のうち養護学級出身者2人は見逃していたようだ。
教師のメガネというのは時々曇ることがあるものだ。

以下 つづく‥‥