書道家Syuunの忘れ物

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syuun の不思議な少年時代 その18 第二部 希望を持って

2007-09-22 12:31:55 | syuun の不思議な少年時代
syuun の不思議な少年時代 その18
第二部 希望を持って
「希望は人を成功に導く信仰である」とは、ヘレンケラーの言葉だ。
小学校5年生の3月、今から思えば「天冲殺」という運勢の停滞時期を抜けた時期に当たる。
ヘレンケラーの言葉を知ったのは、なんと書家と自称するようになってからである。
時は、昭和38年・1963年だった。
60年安保という、あの日本中を狂気の中に巻き込んだ風潮も東京オリンピックという「希望」のもと既に忘れ去られてきていた。
60年安保では、「岸」が悪いと一般国民まで「岸」嫌悪に陥っていたが、その内容については誰も言ったことはなかった。
日米安全保障条約廃棄と言うものの当時の条約は非常に妙な条約であった事は、安保の熱が去った後に知った。それにしても前年の1962年というのは、あの「アルジェリア紛争」が終結したときだった。
このことは、ラジオのニュースで報じられていた。ラジオのニュースでは現地での歓声が聞こえたように記憶する。
そして、「アルジェリア紛争」をフランス政府が独立戦争と認めたのは50年以上経ったつい最近だった。
事はそれだけ「アルジェリア紛争」には複雑な背景があり、元々テロという形でフランス系住民の赤子から婦人老人まで皆殺しにした事から始まるからである。
 映画ロスト・コマンド 「名誉と栄光のためでなく」1966年 米‥は、この「アルジェリア紛争」を題材にしたものだった。
60年安保の時から10年、1970年の70年安保は、安保延長だったが実は60年安保ほど一般国民には浸透しなかった。
このときには、60年安保の実態は既に十分に左翼人士、極左活動家にも浸透していたように記憶する。
そして、60年安保でノンポリ学生を犠牲にして生き残った無傷の学生は、大学では教授などの教官になり、実業界では管理職になって高度成長時代を生き抜く。
そして、今現在政界では又60年安保時代の再燃を繰り返しているのは実に不可解である。しかも、60年安保に荷担して学生運動を起こしながら何の反省もなく、しかもその経歴和ひた隠しにして来たのが、65-70歳の爺様だ。
そんな狂気の時がほんの二年少し前にあったということなどすっかり忘れ去られ、38年はオリンピック一色になった。
そして、当時の皇太子のご成婚の時にテレビが普及したのと同じように、テレビを無理しても買おうという雰囲気になったのはこの頃である。
では、我が家と言えば、戦後の就職難から安月給の公務員なった父の給料からは、中々その金は出てこなかった。
結局買ったのは、この年の秋昭和38年東京オリンピック1年前である。
実は、ジョン・F・ケネディ暗殺事件シーンを初めて衛星中継で見たのもこのときだった。
「まさにその日行われた初の日本とアメリカ間のテレビ中継実験(衛星通信)を通じ、日本にも即座に報じられた。ウィキペディア(Wikipedia)」
いずれにせよ、小学校5年生は終わり、昭和38年度の新しい小学校6年生が始まろうとしていた。
新しいというのは、今まで4クラス52人強のクラスが再編成されて、新しい教師の元新クラスが編成されることになったからである。
そして、今の元となる「書道塾」へ自ら「行きたい」と言って行くことになった。
不思議なことに、父は地元で生まれた土地っ子であるはずなのに、こういう事には全く関与しなかった。
だから、書道塾と言っても、今で言えば二流の弱小の塾と言って良い。
しかし、小さいときの失敗や悔しかったことは、必ず「糧」となって将来に生かせると思ったのは、今だから言えることだ。

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