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書道家Syuunの忘れ物

趣味のパソコンやカメラの実機レビュー、書道展の情報発信、CyberLink MVPなのでYouTube配信をしています。

syuun の不思議な少年時代 その26 Episode 1 その6

2010-04-23 11:13:57 | syuun の不思議な少年時代
syuun の不思議な少年時代 その26 Episode 1
その6

【幼稚園の中のもう一つの幼稚園・年中時代2】

この頃、幼稚園のカリキュラムというのは単純だった。
その単純さは戦前からの、単に子供を預かっていればよいと言う感覚なのかどうか分からない。そして、ベビーブーマーが存在した頃というのは、既存の幼稚園、保育園などに人数的に行ける筈もなく、又通ったという人達は少なかった。
そのベビーブーマーの世代が過ぎ去った時代というのが、ほぼ全員幼稚園か保育園に行くという時代の流れだった。
但し、名目上席を置いていても、幼稚園に行っているとは限らないのが面白いところ。
実際、一年間で数回しか見た事がない(出席していない)園児が、卒業式だけにはキチンと出席して、何も問題がなかったこともあった。

そんな幼稚園だったから、運動会や遠足の予定というのはその時の思いつきの様なものだったのかも知れない。
そして、今も当時も幼稚園では必須という、秋につきものの運動会というものがなかった。
そんな中で、「リンゴ狩り」の遠足(?)をするという話が、幼稚園内で密かに持ち上がっていた。
市街地を外れると直ぐに赤城山の麓になり、りんご園や梨園が国道沿いにあちこちにあった。
実施時期は、限られた人達だけ知っているある日曜日。
公知されていなかった「リンゴ狩り」の遠足だから当然、うちの母のところには話がなく知らなかった。
そんな話を偶然母が耳にしたのは、月謝を払いに行った幼稚園でである。
それは何かと言えば、月謝を払いに来た父母(保護者)個別に、幼稚園側は「リンゴ狩り」の遠足の紹介とその出席の確認をしていたからである。
だからリンゴ狩りの遠足の話を知ったのは数日前である。
そんな話を聞いて、うちでもリンゴ狩り詳細を聞くと、募集していながら「個人的な集まりなので」諾(むべ)もなく「参加できません」と言うことらしかった。
しかし、行くりんご園と日時だけは後で聞いてきたようだ。

秋の一日、リンゴ狩りに行けるのか行けないのかはっきりしないままに、ある日曜日。
「土曜日にりんご園を見に行って、入園の確認もしてきたから」とか母は言って‥‥
その薄曇りの雨の降りそうな日に、お弁当を持って母に連れられて路線バスに乗った。
あるバス停が近くなると、「ここで‥」母が言って下車した。
国道沿いに少し歩くと、見逃してしまいそうな小さな入り口のある小さなりんご園があった。

syuun の不思議な少年時代 その25 Episode 1 その5

2010-04-19 14:46:02 | syuun の不思議な少年時代
syuun の不思議な少年時代 その25 Episode 1
その5
【幼稚園の中のもう一つの幼稚園・年中時代1】

昭和31年の夏は終わった。
この頃の夏は今とは何か違っているような気がする。それは何かと言えば、都市部でも今の郊外の田園地帯の雰囲気いっぱいであったことである。
まだ市の人口も10万人であったし、市街地から外れれば一面桑畑ばかりだった。
幼稚園までの道筋には、小さな製糸工場がいくつかあって排水溝から湯気の立つ熱湯が流れ出ていたし、蒸れたような「お飼い蚕(こ)」臭いが鼻を突いた。
雨が降れば水たまりばかりになる市道も車など通ってもたまにであるし、子供ながらそんな車を見るのも楽しかったものなのである。
母の実家から帰ってきたときに、雨が降ると泥濘(ぬかるみ)ばかりだったから、駅からタクシーを乗ることがあった。その車はヒルマン(Hillman)という元々は英国製のクーペスタイルのツードアの車。多分これはいすゞ・ヒルマンだったのかも知れない。
乗客は助手席のイスを倒して狭い後部席に乗り込むというお笑いなものだった。
この昭和31年ころは、まだ国産車といえる自動車はあまり走っていなかった。
なぜならトヨタの初代クラウンは1955年(昭和30年)1月発表で、タクシーがヒルマンからクラウンに変わるのはまだ先の話なのである。
ちなみに日産セドリックに至っては1960年(昭和35年)4月の発売である。
だから、昭和31年ではまだ占領下の雰囲気は多少残していて、教会の前を通ると青い眼ではなく「緑の目」の外人神父さんをよく見かけたものである。
そう言う外人の神父さんなどその後数年経ったら見ることもなくなり、こんな地方でも米国人と見られる人達もめっきり減った。
そして8月末、9月になると、いつもの通りのいつもの幼稚園生活が始まった。
この幼稚園では、朝、園児が園庭に集まるとクラスごとに整列させ、K園長が何やら講釈をぶっていつもの「お祈り」をしてからクラスごとに園舎に入る。
それは一応カトリック系だからお祈りをするわけである。しかし、そんな習慣がないSyuunなどは何が何だか分からなかったものだし、面倒なものだった。
但し、こんな講釈があるのは学期の始まりだけで、先生が暇な月の初めは時は並ばされることもあり、そうでない月末には単に時間が来たから園舎に入りなさいという指示が来るだけであった。但し、園庭を走るのは禁止であったし、園舎に入ってから「お祈り」だけは必ずやらされた。
そんなものだから、園庭の遊具で遊べるのは朝早く来て、整列させられるか指示が来るまでである。
その園舎の入り口の下駄箱(と言っても単なる棚)で靴を脱ぎ、荷物を置いて大広間という講堂に集まる。
そしてその講堂で厳しく言われていたのは又、「走るな」「騒ぐな」そっと歩けであった。
別に走ったり騒いだりすることもなかったが、「お遊戯」で部屋の廻りを廻っていると床板を踏み外すこともあった。要するに、講堂の床は傷んでボロボロの状態であった。
それで、翌年明けから講堂の修理と園舎の購入という名目で特別寄付が始まるのだがそれは後の話。
こうして午前中、全園児を一同に集め円形に並べた椅子に座らせて、2~3人ぐらいの先生で半日歌ったりで、何かでSyuunとしては無駄な時間を過ごしたというわけである。

そして「三つ子の魂百までも」とは、3歳児までに子供の心の基本が出来るという意味でもあるという。しかし、TVもなかった時代、今とは違って初めて他の子供たちと接する「社会」を体験する5歳児の頃というのもそれなりに大きな心の変化をもたらした。
そして、そんな5歳児が一番怖がっていたのは、母親から離れてそして、見捨てられてしまうと言うことだった。
最近の子ども虐待による死亡事例などを見ると、本来守ってくれる親による危害は、子供にとってどんなに悲しく悲惨であったかと言うことか。
子供に還った心境を思い出してみるとヒシヒシと分かるものである。

月の半分くらいまでくると午前中には、一人二人と講堂でのお遊戯を指導する先生が減り、月末頃になると朝、講堂に先生が誰も来ないと言う時も頻発する。
そこでどうしているのかと輪番で園児の代表が先生を呼びに行くのだか、先生たちは決まって園長の居間で会議をしているか、事務をしているのである。
そんなときは、お昼のお弁当を食べ昼休みに講堂で積み木(木製の大きなものがあった)に乗って遊び、午後の時間が来ても誰も呼びに来ないこともあった。
午後の時間、教室に入ると大方、お絵かきの時間か読み古した絵本を見ているかであるものの、2~3教室を一人の先生が受け持っていたりして、いつも人手不足であった。

そして、もう毎日のお遊戯に飽きてきた秋の月曜日、講堂に移動式の黒板が置かれていたことがあった。そこには馬の絵などと「Horse」とかの文字。
園児はなんだこれはと見るが、何だか分からない。園児が先生に「なにこれ!」と聞いても知らぬ振り。
時たま「園長先生のです。」とか「園長先生に聞いてください。」とかいうだけで後ろの方に片付けてしまう。
そう言う黒板が月曜日ごとに出現するから、とうとう「園長先生に聞いてみよう」ということになった。
そして、ちょいとませた男の子がK園長先生に聞く。
「これなんですか」
K園長「無言‥‥」
そして、そんなことが何回も繰り返すうちのある土曜日の昼。
本当は何時もならもう帰る時間なのだが、迎えは家の近くで母が出迎えているだけで、この日は「少し遅れてきなさい」と言われて1時(13時)過ぎまで居残っていた。
すると、講堂で園長先生が何かやっていると園児の声。
「それ‥‥」と居残っていた数人と駆けつけてみると、15人くらいの園児とともに園長先生と2人ぐらいの先生が「Horse」と「馬」の札を取り上げて、「水道のホースじゃありません」とかやっている。
しかし、そんなことを聞いてもさっぱりわからない。
「それはウマ!」などと言い出す園児もいる。
そこで「犬」の絵や「dog」という札を出すと一斉に「ドッグ」と園児が声を張り上げる。
そうこうしているうちに、なぜか今日はここまでと止めてしまった。
そして、翌週の土曜日もわざと遅くまで残っていると同じような事を始めたが、Syuunなどがいることが分かると、簡単に切り上げて止めてしまった。
あれは何だったのか、その後同じように居残ってみたが同じ光景は二度と見なかった。
そして、最終的に11月の声を聞く頃には黒板は片付けられていた。
その後事情を知っていそうな園児に聞いてみると‥‥‥
「あ! それ! 時間が変わったのだよ」だった。

syuun の不思議な少年時代 その24 Episode 1 その4

2010-04-17 01:31:38 | syuun の不思議な少年時代
syuun の不思議な少年時代 その24 Episode 1

その4


その3では、S幼稚園の今で言う年中組の夏休みの話しの途中で終わった。
なぜ「今で言う年中組」なのかと言えば、当時3年保育というのは保育園では当然としても幼稚園ではほとんどいなかったからである。
その理由というのは、一つには費用の点があったのではないかと思う。終戦後という雰囲気は、だいぶ薄れたとはいえ、いわゆる独立してから間が経っていない。
だから一応占領体勢がなくなったとは言え、まだMacArthurという言葉が普通に出てきた時代である。
当然、今で言う私立学校に対する憲法違反の補助などは行われていなかった。
それだけでなく、戦争から帰ってきて職がなく公務員や会社員に転身した人達は当然、新人の初任給しか貰えていない時代。
当時流行った「安月給」とは、30歳台半ばの人達が戦後の大学出たての人達と同じ給料で働いたから文字通り「安月給」である。
戦後の給与体系というものは、戦前の給与体系とは大きく違う。
戦前の給与体系とは、今の欧米などの給与に似ていて数少ないエリートの大学卒(学士)だと幹部候補生というので、初めから今で言えば年俸1,000万円くらいは貰えた。
帝大(旧帝国大学)出は月給100円、私大(早稲田、慶応、立教など)だと50~70円という時代。
1,000円あれば一軒家の家が建てられたと言うし、税金も高くなかった。
大学の下に旧制高校、旧制専門学校、旧制中学、旧制小学校。
旧制中学で代用教員の資格(今で言えば短大並み)が貰えたから、大卒というのが学士様と言うはずである。
日本の高度成長というのは、そう言う安月給の元々のエリートと軍需工場の優秀な技術者が薄給でも、その末端で支えたものである。
そして、まだ街の風景もバラックの様な建物がそこ、ここに残っていた。そんな建物は、一つの扉を開けるとそこが台所であり、玄関であり生活の場だった。

その夏休みの絵画教室は、少し名が知れた画家が直接教えるというものだった。
多分附属小学校でも絵を教えていた先生のようだった。
もしそうなら、大学の教授と言う事になるが、虚(うろ)覚えに名前(N先生?)を覚えているに過ぎない。
そして、その絵画教室は7月の土日曜日に4回(先生の都合で3回)、8月の夏休み明け直前の土日曜日に4回程度のプログラムだった。
7月の第1回から行かなかったのは、母が幼稚園に尋ねて行くとまだ「K園長先生がいらっしゃるので‥‥」と断られ、第2回目は「K園長先生が帰られたから‥‥」と言って、参加できたのである。
第3回目は母の都合で行かなかった。
後半の8月の第1回目は、2時頃に行ったのだがK園長先生は、この土日どこかへ出かけていて不在ということ。
だから、K園長先生は翌日も不在という話で第2回目は、午後1時半過ぎに出かけていった。
ところが奥の方に、例のK園長先生がいるではないか。
そこで何やら不意に見学に来たという風体で見ていると、K園長先生は無視している雰囲気。
そこは、元々絵画教室に来ていたのだから教えていたN先生が参加しても良いという態度を取ったために、何やら参加することになった。
そんなときというのは、やはり不思議と幼稚園の先生はどこかに消えていないというか、帰ってしまったようだ。
そして時間が来て、N先生が用事がありますのでと後片付けもせずに帰ってしまうと‥‥迎えに来た母親に頃合いを見計らって、このK園長先生が文句を言いに来た。
K園長先生・「これは(高額)寄付をいただいている人達のためのものですよ」
母・「はい分かりました。寄付をいたしますので‥‥参加させてください。」
K園長先生・「‥‥‥‥‥‥‥‥」
母が言うのには、7月、8月は夏休みで幼稚園に行かないので、寄付をしなかったそうだ。
それで、7,8,9月分をまとめて(金額を多くして)寄付をしておいたそうである。
それが第3回目になると、結構見た事がある園児の何人か参加し始めた。
‥‥それは、子供一人で家に置いておけないので、一緒に園に行って月謝と寄付を払いに行った時、居合わせた他の母親に「絵画教室」の話を聞かれてしまったからである。
そこで、それならうちでも参加したいという母親がいた。
そこで即座に寄付を払いその親は確認を取った上で、参加してきたと言うことである。
だからその絵画教室は、何やらやる気のない園児ばかりだった中に、何か学ぼうとする興味津々の園児が参加して俄に活況を呈した。
そして、それは今回は模造紙に描く場所を得られなかったくらいである。
しかし、そのK園長先生の顔をしっくり見ていると何やら「苦々しい」雰囲気が見て取れたのは面白かった。
‥‥というか、絵をまともに描けなかったからそんなことばかり見ていた。
そして教室が終わる時間に母親が迎えに来ると、最後にK園長先生は言ったのである。
K園長先生・「絵画教室は今年で終わりにします。次回は自由に来て構いません。」
第4回目は、母に用事が出来て遅めに連れられ、母はそのままどこかへ行ったのだが、例の「坊ちゃん風」の男の子(仮にFとする)はいつも通り先に来ていて、手持ちぶさたに菓子を食べている。
子供と言うのは、他人が何かしている時は一緒にやりたいと思っても、誰も何もやっていないとやりたくないものだ。
それでN先生が何か指示を出したが、そのF君は嫌々ながら立ち上がり、炎天下に広げられた模造紙に何か描き始めた。
F君「S君も描けよ‥‥」と誘われて、何やら書こうとしたものの何も思いつかない。
それでF君に
S・「今日はポスターカラーを使わないのかい?」と聞くと。
F君「ああ、今日は最後だから使わないんだよ。」と淡々と描き始めるが、何を書いているのかさっぱり分からない。
‥‥と途中で辞めて、又菓子を食べ始める。
それは、8月の末とはいえ炎天下では暑い。
この頃というのは、当然エアコンなどない時代、夏は決まって37℃でその上下にはピクリとも動かなかった。だから、多少涼しい園庭で絵画教室をやっていた訳である。
但し、舗装路も戦車が通る国道以外なかった時代であるし、庭木や草がそこ、ここに生えていたから結構風は涼しかったものである。
そして、毎日夕立が判で押したように午後に来た。
突然雨が、ポツポツと振り始め‥‥慌てて園児と母親、N先生などが濡れるものを片付けているうちに「ザー」という音と共に雷雨。
この雷雨は、帰るまで永遠に続くかと子供ながら思ったほどだがほどなく止み、見れば雷雨が上がった頃を見計らって幾人かは帰ってしまった。
又絵画教室が始まった。
ポスターカラーというのは、5歳の幼稚園児の頃は知らなかった。
そのポスターカラーの原色というのは、不思議と子供の目には実に鮮明だった。
今のように年寄りになると、目も濁って子供の頃ほど明るく見えない。
そうとは言っても、その頃の都市というものはどこもかしこも「無彩色」の世界だった。
母に連れられて乗った旧国鉄の蒸気機関車(SL)も白と黒。蒸気の白と車体の黒。
母が省線(鉄道省・線)と呼んでいた山手線。
当時はえび茶色に光り、日陰のアメ横の黒い雑踏は冬では釜飯の白い湯気がだ酔っていた。
白い舗装路などなくて、例え新しいものでさえ、直ぐに未舗装の道路からの埃で、何もかしこも薄汚れた雰囲気になった。
だから、ポスターカラーの原色というのは、夏の強い光りと共に子供の目に強烈に焼き付いた。

絵画教室は、雷雨が上がって再開した頃にはもう何も緊張感がなくなってしまっていた。
一旦終ったものをもう一度取り出すとは言うもの、もう終わりだからと何やらやる気のない雰囲気が漂う。
そして、時間が来て
「終わりにします。片付けてください。」というどこからとも無いかけ声。
F君に「このポスターカラーどうする?」と聞くと‥‥
F君・「あ!それ‥‥うちで持って来たんだ!」
    「うちじゃ要らないから、みんなやるよ!」
と手に持っていた派手な色や、使い掛けのポスターカラー瓶のを全部よこした。
何が何だか分からないが、N先生よりなぜかそこを仕切っている様なF君が不思議ではあった。
しかし、何やら妙な感じの幼稚園生活半年であったのである。
実は、この秘密のプログラムというのはそれ以降も深く潜行して続けられていた様なのである。
しかし、この時は何も分かっていなかった。

syuun の不思議な少年時代 その23 Episode 1 その3

2010-04-02 00:03:21 | syuun の不思議な少年時代

syuun の不思議な少年時代 その23 Episode 1
その3

ここで少し話の現実性を持たせるた めに、50年前の話ではなく幼稚園の代が2代も変わった今でも続いている事柄を説明しよう。
参考に出したのは、2004年7月の文書。
2004 年で多少古いものになるとはいうものの今でも続いている証拠である。
それから少し後には何も送られてこなくなったのは、住所が変わたのと郵政グ ループになり配達員が転送してくれなくなったからである。
要するに、既に小生は名簿にあると言いながら住所不明者というわけである。
そん な顛末は兎も角、ここに秋からの年中行事がこの文書には書かれている。
昔は、「○○の集(つど)い」とかは良く分からないが、バザーとかスキーな どはなかった。
なぜなら、二十歳以上になって幼稚園から招待状など来るはずもなかったと言うのが本当だろう。多分来ているのは従来からの寄付者 だったのかも知れない。
これはこの幼稚園の体質というもので、こういう案内状の本当の中身は不明なのである。
Img440 Img4402
そして、今現在もざっと50年前も変わらないのが「小学生のクリスマス」である。
昔は、小学生のクリスマスと言ったのかどうかは、はっき りしないが日時の日程はまるで同じである。
だからその昔は、これと同じような通知が個別に丁寧な形で郵送されてきた。
例えばクリスマスの 集いである。
そんな通知が着始めたのは小学校の3-4年の頃で、封書には「寄付金一口○○円・何口以上」と言うものが同封されていた。
今 で言えば数万円に相当する金額で、そんな金額を小学生が払えるものではない。
だから、一度も払ったためしはない。
その「クリスマスの集 い」は当時県民会館や文化会館があるはずもなく、その頃集会施設として唯一の「群馬会館」で行われた。
日時は、12月24日の2時~。
考 えてみれば妙な日程、時間であると思わないと察しがわるい。
その察しが悪いままに、小学校低学年の時に偵察に2時半ころ群馬会館に行ってみたら、 実は何もやっていなかった。
その翌年は、1時半頃に行ってみたら多少そんな雰囲気が残っていたもののやはり何もなし。
3年目は、学校から 帰ってきて直ぐに行ってみた。12時30分頃。
早く行けなかったのは、12月24日というのは公立小学校の終業式の日、午前中で終わりと言っても そんな時間になるからである。
それで会場らしきところに行くと、まだざわざわしている雰囲気で、偶然昔の級友にあった。級友と言っても同じ小学校 に通っているヤツ(C)。
C「おい、どうした!」
S「どこでやっているんだ!」
C「もう、終わったぜ!」
C「次の集まり があるから、一緒に来ないか?」
‥‥‥‥‥
S「案内書には2時からって書いてあるぜ!」
C「え! それなら同封されていた寄付を したかい?」
S「してない。」
C「バカだな、寄付をすると別の案内が来るんだよ。その時間ならクリスマス会は終わっているしね。その他い ろいろ案内があるんだよ!」
S「そんなものだと思っていたよ。しかし、午前中は学校があるんだぜ!」
C「あ‥!それね、僕は早引きしてき た。附属(付属小)は今日から冬休みだしね。」
‥‥多少むっとした感じだったが‥‥
C「ちょっと行かないか、急いでいるんだ!」
‥‥ と言うので、Cの後について行くと、何かの小部屋に何人か集まって帰り支度と言う雰囲気。当然クリスマスパーティだから女の子などは、相当めかし込んでい る。
急いで来た割には、手持ちぶさたなのはどういう事か。
Cのお目当ての女の子でもいるのか良く分からない。
そして、よく見回す と見ても見知っている人は誰もいないし、何やら場違いとは「絵に描いたよう」だった。
S「昼飯を食べていないから、かえるわ!」
C 「お~!」‥‥
何やら気まずい雰囲気を後にして、そそくさと群馬会館を出てきた。

そう言えば、この幼稚園というのは群大付属小へ行くのが過半で、公立小学校へ行くのは劣等生と見られていたような雰囲気があった。
そして、 その附属小学校が冬休みに入ったのに、公立の小学校の劣等生‥

  • ‥‥当時偏差値75程度以上、入試試験は満点以外入学出来 なかった前橋高校へ行ける公立学校の生徒は、公立の(ナンバースクール)1、3中以外、皆無に近かった‥‥

‥‥には配慮しないのは当たり前だった。
群大学芸学部附属だと半分は前高、前女には入っていたから、附属小学校の児童というのは将来の前橋 高生、前橋女高生‥‥優秀な「お坊ちゃま・お嬢ちゃま」と見る節というのは、特にこの幼稚園では強かったのである。
そして、そんなものであるから 公立小学校の時間割に合わせるわけはなく、そもそも幼稚園のクリスマスパーティが午後から始まるわけでもない。
そんなことは当たり前である。
そ れで、「クリスマスの集い」12月24日、午後2時からというまやかしに釣られて、例え見物と言えども出かけていったのは、結果、種々の事実を確かめるこ とになった。

そして、そんなインチキな案内というものが、四半世紀たっても行われている。
この体質というものは変わらないと改めて思ったものである。
ち なみに、この幼稚園には今でも園児バスがない。
送り迎えには両親の車に「○○幼稚園・園児送迎」というステッカーを貼ってある。
当然のこ とながら、母親のお買い物用軽自動車に貼ってあるのを見た事がない。
20年も前には、相も変わらずのこの体勢が噂に聞こえたのであるが、園児数 100人程度と2005年頃の紹介文にあって、そうだとすると各年次30人そこそこという規模である。
小生の子供が通った幼稚園は、300人以上 でこちらこそ、最近では附属小学校の予備校のようになっていて、うちの子の様に公立小学校へ進学する方が少数派になっている。

それにしても、当時の幼稚園の同期で附属小から前高へ進んだ級友は一人(東大へ進学)しか知らないし、Cも前橋高校では合わなかったような気がす る。


syuun の不思議な少年時代 その22 Episode 1 その2

2010-03-21 00:00:32 | syuun の不思議な少年時代
syuun の不思議な少年時代 その22 Episode 1
その2

昭和31年、32年の頃の物価というものはどんなものだったのだろうか。これを考えないと月謝や寄付金の金額というものは良く分からない。
そして、月謝というものは毎月父母が直接幼稚園に持っていったものである。
今や幼稚園や保育園などに行かない就学前の子供などはいないが、その昔というのは幼稚園に行くと言うのは、言わば上層階級のまねごとだった。
だから、時として長屋の子供も人によっては無理して行ったのである。
又、公立の保育園というものには、特別な事情がない限り入園することはほとんど出来なかった時代でもある。逆に言えばコネで何とかなった時代でもある。
大学だって、例えば日大の紹介入学制度という(正規のルートとしての)裏口入学が無くなったのは、昭和44年なのである。
だから、昭和30年代の東京六大学では金を積めば正規の合格者として、入学できる大学がいくらでもあった。
日本が形式上独立してから10年、昭和30年代初頭というのは今から想像できないコネ社会でもあったと言うことでもある。
そして、当時は保育園も少なかったのは当然として、市の規模で幼稚園すら2つぐらいしかなかった。あっと言う間に増えたのは昭和30年代半ばになってからである。
当時の物価‥‥毎日道の交差点で売っていた自転車の納豆売りの価格は、一袋5~10円。
瓶入り牛乳(中身のみ・瓶の返還の条件)は、10円。ヨーグルトは15円だった。
結構乳製品というのは高くて、バターは細長い棒状の100gが80円後~100円くらいだったか?6pチーズの半欠け(高価なので半分に切って貰う)が15円、後に25円くらいだったか?
これは、たまに買いに行かされたから覚えているがその他は、あめ玉が2~3個で1円くらいだった。
黒砂糖をふくらし粉(重曹)で含ませて固めた大きな「かるめ焼き」、これが5円だった。
ちなみな小生の父親の給料が手取りで16,000~18,000円だった頃の話。
今の価格から考えると10倍にもなっていないものもあるとは言うものの、凡そ20~25倍の違いはある。ただバターなどの乳製品が驚くほど高かったと言う事が分かる。
理由は、電気冷蔵庫の無かった時代で、氷を使った冷蔵庫を利用するしか無く、冷蔵するのが難しかったという理由が大きいかもしれない。

幼稚園に入園したのが4月のいつ頃だったのかよく覚えていない。
だが、風の強い晴れた決められた日に、母に連れられて、入園料と、月謝を払いに行った。
そして、そのまま園舎の方に行って、脇の入り口から単に大広間・講堂で他のみんなと並ばされて、K園長先生の祝辞を聞いたらしい。
そして、クラス分け。
初めて母と別れて不安で一杯だった時、クラスの先生が「母親と同じ目」をしていたから、直ぐに不安が払拭されたというのは驚くべきものだった。
この先生には、本当に良くしてもらった。
ならばどんな風に、と言っても何も説明出来ない。要するに、母のようにと言うだけである。
幼い子供というのは、母親の目だけ見ていれば不安もなにも感じないというのは、本能のようなものだろう。
その母と最初に幼稚園に踏み入れたところとは、幼稚園の事務所兼昼間の園長の居間というところだった。実は、そこから園長の自宅へ通じるドアがあったものの、誰もそんなドアがあるなど知るよしもなかった。
その事務所兼園長室は、昔の商家の入り口ようなところで、広い土間に杉板のスノコが敷いてあって、その先に障子で仕切られた畳敷きの10帖くらいの部屋があった。

その入園のお金を払いに行った時、「月謝だけではないのですよ寄付を払ってください」と言い終えたところ、K園長は奥の園舎ら呼ばれてどこかに消えてしまった。
そこで、母はそこにいた事務を執っていた教師に「幾らぐらい払えばよいのですか?」と聞くと、困ったような顔をしながら、「月謝の半分くらいで」と言っていたような気がした。しかも、それが毎月のようなのだ。
要するに、月謝という帳簿に付ける金額の他に、簿外でなにがしかの金を払うと言うわけ。
そして夏休みまで4ヶ月は、月謝と寄付を一緒に母は持っていたと後に言っていた。

その時の幼稚園の授業とは、午前中は年中、年長組を講堂というか大広間に一同に集め、多くて3人程度の先生が指導して、お遊戯やら何やらの時間つぶし。
午後は、個別のクラスに分かれて絵を描くとかの自習だ。時として、絵本を読んでいなさいと渡されてそれだけと言う事もあった。
何と言っても、毎回同じものでは飽きてしまう。それで、誰もいないから騒いでいると言っても、話をしているくらいなもの。
そこにK園長がやってきて、「うるさい」とか注意に来るが先生は不在だ。
なぜなら、幼稚園の先生の半分は朝から園児そっちのけで事務をしているのである。
特に経理担当の先生などほとんど教室には顔を見せない。
分かりやすく言うと、園児を教える先生はいつも不足というのがこの幼稚園だった。
午前中は、少ない先生で全体を一まとめにし、午後のクラスに分かれてからは一人の先生が何組も掛け持ちという具合。
だからいつも先生はK園長を気にしていたし、園長が不在と言う時は先生も事務で拘束されないので、のびのびと何でもやれたというものであった。

この幼稚園というのは、後から知ったのだが夏休みや冬休みになった頃に、内緒の不思議なプログラムが組まれていた。
それが何であったのかは良く分からない。しかし、後から考えてみるとK園長がちらりと漏らすことがあって推察できるというものだった。
年中組の時、と言っても2年保育が基本の頃だったから、1年次の時の夏休み前だったか、あまりに自習が多いので母が苦情を先生に言ったことがあった。
そんなに絵でも描きたいのであれば、夏休み中の○月の○○日から絵の先生が来て教えていますから来てみてはどうですか‥‥但し、午後の2時くらいですが。

それでその時期に母が幼稚園に行って、聞いて見た。
それは、午後2時か2時半くらいだったら「絵の教室」に来てもよいとのこと。
後から聞いたら、午後1時から3時までだったそうな。
分かりやすく言えば、午後2時にでもなればK園長は帰ってしまうので誰が来ても分からないと言うものだった。
それで1日目は、2時半頃に行ったらもう終わりだった。
その時、以前から顔だけ知っていた「坊ちゃん風」の「いけ好かないような」男の子が、「ずいぶん遅く来たでじゃないか、もう1時からやっているんだぜ」。
「だから飽きちゃって、終わりにするところだよ」
「そう、やるなら、そこんとこ、塗っといて!」
2日目は、もう少し早く行くことにしたのだが、そこでこのプログラムの趣旨が分かると言う次第になった。

以下 その3へ

子供の進学と昔の勉強法との違いに戸惑う  スパムコメント訂正

2009-02-03 23:59:58 | syuun の不思議な少年時代
子供の進学と昔の勉強法との違いに戸惑う

2月になって動き出した事の一つに子供の進学がある。
中学生となるとすると、もう学校訪問という案内が出回って、授業から部活までを見て中学校生活の予定を立てる。
こんなことは、自分の頃などにはなかった。
何故なら中学校へ行けば「進学、受験」ということばかりだったからだ。
戦後のベビーブーマー直下の世代としては、部活などやっていると「進学出来ないぞ」と脅されたものだった。
実際は、バレーボールの選手をやっていて学年(約540人中)で時として、成績一桁の人物(その後、工学博士)もいたから実際はどうなのか分からない。
今は、「部活」は必修での様で、それも目立った成績を残せないと良い内申書にならない‥‥高校に受からないと言うのだから困ったものだ。
しかし、それで矛盾するのは、そんな程度の部活では大学へ行くのには全く関係ないという事だ。
小生の兄の時代では、時代をもっと遡るからTV以前、ラジオの時代だ。
それで当時「電気部」というクラブがあって、十数人の弱小クラブは、兄(部長)が受験で退部する頃には50人超の大組織(最終的には掌握不可)になったという。
こんなものは、受験には関係無い時代だった。
昔を見れば、高校受験は内申書などあって無きがごとしの試験一本勝負だった。
それで、大方の受験合格範囲というものを決められて、最終的には滑り止めを受験合格して上で、本人の希望でトップ校を受けた生徒がいた。
だから純粋にトップ校不合格というのは、極めてまれだった。
それで、当時の我がクラスでは前高には5人受験で全員合格。前女は6人受けて4人合格。絶対受かると思われた1人が落ちて、落ちると思われた1人が合格。
その後は、トップの女子学生2人は医者と教師になったし、落ちて滑り止めで止まった1人は、当時の前女でも学年50番以内でないと入れないと言われた大学に入り今は教師をしている。要するに中学時代の成績そのままになった。
今ならはあり得ないだろう。
そんな部活の苦労をしなくても良いと言うのなら、中高一貫の公立校がある。
いわゆる実験校という部類で、来期で創立6年目‥要するに試験で受かった全生徒が揃う。
元になった高校というのは、今は廃校の憂き目だが理系進学が叫ばれていた頃に全国に理数科という特別進学クラス(昭和43年群馬県で初めての理数科を設置)が作られた県立高校(平成21年3月閉校)だった。
その第一期生は、前高、高高よりも偏差値(当時はなし)が高かったが、前橋から進学した話は聞かなかった。それが、石油ショックと共に理数系ブームが去ると閑古鳥が鳴き始め、普通科と変わらなくなって、実は前高、高高よりも完全にランク落ちの高校であるが故に事実上消滅した。
HPを見たら、18年度まで生徒を募集して、21年3月に卒業して廃校だった。
何やら英語教育を重視していた高校のようだが、歴史が浅くて(昭和38年創立)知名度が無い高校というのはあまり行きたくないものだ。
今年の四月から中央中等教育学校という実験校へ完全に生まれ変わるが、何やら難しい問題もあるのかなと思うものだ。
それは私立の中高一貫校とは全く違う成り立ちと組織構成というもの。
私立中高一貫校は、中学1年から高校の授業のようなカリキュラムを組んで、高校1年か2年で全授業終わらせるのがお決まりになっている。
ラサールみたいに成績順に席が決まるというえげつないところもあるからかなり厳しい。ところが、公立校はそうはいかない。
但し、受験がない分妙な勉強に強いられないが、結局予備校に通ってダブルスクールを強いられることになる。それでも普通の公立中学よりまだマシというものかも知れない。
一番の問題というのは、進学率というもの。
ここ3年の大学進学率の推移で、希望者が激減する可能性がある。
初期の適正試験は、小論文重視であったために、数学が特に弱いという噂がある。
そんな試験が3年続き、近年は突如一般の中高一貫校並程度の試験になった。
そして、小論文は今やオマケの順番づけというものだ。
多分採点は、適正試験I全問正解+αを予備合格ラインとして、それ以下は適正試験IIを採点しない可能性がある。要するに、適正試験I重視。
書道の審査でも、国家試験の審査でも数値という客観的なものが出ないものは、早めに合格と不合格を選別するというのは常識だ。
入試試験だから最終的には全部採点するとしても、適正試験I重視なら適正試験IIを採点してそちらが満点でも関係ないと言うものだろう。
それが試験の現実というものだ。

さて、その昔小生の頃は、群馬大学の附属中学が中学校から50人程度募集していたから、ここが「お受験」だった。
実際、東大合格者、有名大学医学部進学者の何人かは間違いなく附属中学出身者だった
しかし、ベビーブーマー世代が卒業していった後、優秀な子供ばかり集まり教育実習校として相応しくないという理由だか、小学校からのみの募集になった。
それで、現在前橋、高崎からの「お受験」は群馬県立中央中等教育学校と言う事になる。
今のところ、前橋、高崎の小学校から1人程度しか受からない高難度の学校(受験倍率約5倍‥開校時約10倍)なのだが、小学校の成績優秀者が全て受験しないところがミソ。

要するに、卒業すれば新設校であるし、母体となった群馬県立中央高校も2番手の高校であるからだ。
廃校‥‥又は発展的廃校もあり得るし、群馬県立中央中等教育学校のステータスは「元の中央高校ね」と言うものだからだ。
それで、高校は伝統高へと言う話しも聞く。

それにしても、「東大合格生のノートはかならず美しい」という本の話を聞いて、「なぜ」と思ったのは、大分古い人間だと言う事を思い知らされるものだった。
何故なら、昔は再び開いてみるノートなどあまりなかった。
高校時代、英語で100点しか取らなかった秀才のノートには落書きしか書いて無かったし(全て頭の中)、第一サブノートなど作っている暇がなかった。
それが、今の学生はノートを作る。
要するに予備校や塾で教えられた受験テクニックのノートというものだろう。
昔、前高ではまともに教える教師はいなくて、雑談で授業は終わり試験範囲は、開いてもいない教科書のページを言うだけ。
教えていないところは(全て教えていないが)、自分で勉強してくださいだ。
昔、今のような塾があったなら、楽だった。
その教師がその後高校の校長になった。
その下で、数学教師をしていたのが当時の同級生というのは皮肉なものだ。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
中央中等教育学校の関係者と思われる 人から コメントをいただいたので紹介する。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
(一部修正してあります。)

公立中高一貫校も、バリバリ先取り学習(高3までの内容を高2までに終わらす)をします。
「中央中等」もそうですよ。
ちなみに、中央中等の一期生の模試の平均偏差値で、高高(高崎高校)をわずかながら上回り、前高(前橋高校)に次ぐ2位になっているようです。
進学実績も期待できそうです。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
この書き込みは、あるところからの調査の結果「香蘭女学校(東京都品川区・中高一貫校)」生徒と見られる「スパム書き込み」でした。
但し、香蘭女学校の生徒というらしいと言う事にしておきます。
改めて、お詫びします。

結果は、来年分かると思いますけどね。

しかし、中央中等は今高二までで、今の高三は中央高校の生徒。
高二で大学の模試などやるのかなと思ったりもする。
そして、前高、高高も一学年は、320人程度で、昔から下位三分の一は「三流校並」と言われているところ。
それから見ると、中央中等は低すぎやしないか。
少なくとも、前高、高高よりもダントツに高くないと釣り合わない筈なのだが。
こんな疑問がある。
そして、中高一貫の私立高校並みの授業と言うが、私立校は「公然の秘密」としてやっているので、高校の授業を中学でしてはならないのが決まり。
別の言い方をすれば、中学でやる授業を終えて高校の授業を補講でする分には関係ないというもの。
公立校がどこまでやれるのかと言うものがあると同時に、受験校として「制度設計」されていないという部分があることは、群大の附属中学と同じ矛盾がある。


syuun の不思議な少年時代 その20

2008-12-28 23:10:11 | syuun の不思議な少年時代
syuun の不思議な少年時代 その20

第2部-2
syuun の不思議な少年時代を再開します。
種々な理由で中断していました。又、今後は支障のない場合は名前を実名にすることがあります。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
桃井(もものい)小学校の6年生
昭和38年、ちょうど東京オリンピックの前年に当たる。
だから、何やらあわただしい雰囲気が漂っていたが、別に地方では何事もなかった。
少なくとも、当時の少年の耳に残った事は何もなかった。
但し、ラジオからはコニーフランシスの「ボーイハント1960」や「カレンダー・ガール1961」の歌が流れていたりはした。
今で言うシャッター通りなどという言葉など信じられないほどアーケート街は繁盛し、既製服など無かったくらいだから、服の生地を売る店や呉服店の繁盛していた。
今スズラン百貨店となった店は、当時10年ほど前に古着屋から出発して、アーケード街にいくつかの店舗を持つ巨大店に発展していた。
季節の変わり目にいた、傷痍軍人の身なりをした「物乞い」もほとんど見なくなり、時として見ても、「偽物だから」と警告する人がいた。

新しい担任の教師は、国語の教師で山田先生と言った。
顔は面長で、メガネを掛け、黒い髪にポマードをつけたオールバック。
上履きのスリッパは古い靴のかかとをはぎ取ったような革のスリッパ。昔は古い靴が使えなくなったらこの様にして使ったのかも知れない。その後は初めからその様なものがあった。
映画俳優のカーク・ダグラスのようにあごが二つに割れていて感じはよく似ていた。
どちらかと言えば二枚目の方だろう。
年齢的には、もう教頭、校長にでもという感じだった。それが何故教頭、校長にもならず一介の小学校教師なのかというと、噂では結核の持病があって長期休職していたらしいという事だった。
そして、もう一つの噂は昔の「勤評」(勤務評定)反対運動をやり過ぎたという話はあったが、あくまでも憶測の域は出ていなかった。
その「結核の持病」の方は本当だったらしく、その後退官したあと程なく結核でなくなったとは四半世紀後に同窓会の後に知った事だった。
いずれにしろ、かなり古いタイプの教師であった感じがした。
だから、一旦怒鳴ると大音声で凄い迫力があった。
そして、今までのN.Y先生のようにある特定の児童のみ重要視するというのではなく、児童一人一人に役目(役職)を与え責任を持たせたりした。
そして、6月の小学校最後の一泊の修学旅行「江ノ島鎌倉」から帰ってきてから、何やらクラスの微妙な雰囲気というものが理解出来るようになってきた。
クラスのK.N君は児童会長で既に人気者であった上に、何か目に見えない取り巻きグループを形成してしていた。
Kは、クラス一番の美少女M.T嬢をつけ回していたし、一方、M.T君(男)は「理科が得意」という事にいつの間にかなっていて、山田先生は理科はMが得意だから、Mに答えさせるという風にしていた。
ところが、そんな事に踊らないのがMで、別に理科か得意であったわけではなくたいして勉強もせず成績も良くなかった。
但し、このM.T君とは群馬県立前橋高校1年の時同じクラスになった。
当時の群馬県立前橋高校の偏差値は、偏差値が公表される前の話で20年後に偏差値を見たら72だった。当時偏差値があったなら偏差値75はあったに違いない超々難関校であったことは間違いない。(現在は68)
クラス会で逢ったときは、M.Tは県庁の職員になっていて同期のA.T嬢によれば幼稚園で一緒になったとか‥‥
しかし、一回クラス会に出できただけで二度と参加する事はなかった。

修学旅行「江ノ島鎌倉」には、当時の羽田空港の見学とか、鎌倉の大仏とかの写真が残っている。
この修学旅行の時は梅雨だから、例年雨にたたられ江ノ島についたときは夕刻で、雨に霞んだ江ノ島は見えなかった。
そして、今から思えば特徴的だったのは「米」を持っていった事だ。
何故なら、米は統制が残っていて、普通に買える米は「ヤミ米」といっていたからだ。
しかし、行った旅館側では今は必要ないと受け取らず、そのまま持って帰ってきた記憶がある。戦後の残滓というものは、まだまだ残っていた。
その残っているものには、その時の修学旅行「江ノ島鎌倉」の旅行記がある。
その旅行記というのは、実は母によって完全に添削されて直された曰わく因縁のものなのだが、今読み返してもどこを直されたのか見当も付かない。
そして、その内容に少し因縁をつけてきたのが例の「ジャイアン」事T.Tであり、完璧なまでに仕上げてきたのがK.N君の旅行記だった。

その旅行記を見た母は、完璧すぎると驚嘆したが、実はK.Nには「姉」という2歳年上の家庭教師がいた。
小生が、前橋高校に通っていた1年時に、群馬大学教養部(桐生)の数学教師遠山教授による「数学教室」というのがあった。
これは、前橋の中心部に近いところにあった「洋裁学校」を日曜日の午前中だけ使って、手弁当に近い形(経費は数百円だった。)で毎週朝6時30分から始めたものだった。
ここには、前高、前女の高校生が集まって簡単な講義を聴いた後、45分で大学入試問題を解き提出するというもの。
その時の満点常連組が当時前橋女子高校3年だったK.Nの姉であったことが判った。
K.Nと比べて大柄で顔が小さく上背は多分165cm以上?といったタイプだった。
後に当時の「女の東大」といったお茶の水大学に現役で合格したほどの才媛であったから後から思えば当然というものだったろう。

そして、その他の男児というのはまだ目立たない存在で、逆に女児のA.Mとか超美少女M.T、もう一人の中学・高校時代には「こけし」の異名をとったM.T嬢などか成績優秀の上、女性としての「芽」を出し始めたところだった。
ちなみに、その3人は全て後に前橋女子高校に進学した。
前橋女子高校とて、中学のナンバースクールの進学校でもトップクラス、場合によっては学年主席でないと入学出来ない難関校だった。

こんな風に、夏休み前は順調に何の「苛めも・偏見もなく」進んだ。
学校の授業は新鮮で、正に乾いたスポンジに水を吸い込むようだっが、その19に書いた通り夏休み以降次第に微妙な変が現れてくる。

いずれにせよ、小学校の6年生というのは人生における一つの原点であると今でも思う。
何故かというと、子供時代‥児童からもう少し大きい少年、青年へ‥‥そして、自己確立(アイデンティティの確立)への転換点だからである。
又、それは一般的な物の見方なのであるが、小生にとっては「悪夢からの脱出」を意味した。
悪夢とは、小学校4.5年の時代であって、絶対にあの時代には戻らないと覚悟と強い意志持ったものだからだ。
事実として、小学校4.5年の時代というのは、身体、頭脳の停滞期であり、自分の能力は計れなかっただけでなく、分かりきった事を試した時期でもあった。
「分かりきった事を試す」というのは、大学時代同じ事をやった同期生がいて、やはり納得がいったと面白い事を言った。
そんな事は子供時代に全部やったとは言わなかったが、言葉に出たのは「当たり前だ」だけだった。
考えてみれば、当時の水準として両親はどちらかと言えば年寄りだし、兄とは年が離れすぎて相手にならず、何もかも自分で試してみなければならなかった。

そんなふうに小学校6年生活が始まったのだが‥‥、
四半世紀経ってクラス会という事で過半の人達と再会し、当時口も聞かなかった、目立つ事もなかった人達と親交を深める様になろうとは思いもよらなかった。
そんなクラス会の幹事として同窓会を主催したのも、実はこの小学6年の時に「芽」があった。
やって欲しい事があっても、誰もやってくれないのなら自らが「率先してやれ」という事である。そうすれば、そのメンバーから外れる事はないし自分が苦労する気なら何でも出来る。
そして、そんな能力という「芽」が僅かに潜んでいそうだと気がついてのがこの歳だった。
そのクラス会後に、親しくなった一人が、ブログEntry「友人の葬儀で『弔辞』を読み思うこと」で書いた「岸君」であって、小学校3年から6年まで同じクラスにいながらほとんど話をした事がない。
しかも、6年の時には「視界」から完全に消え、今でも当時の岸君の記憶は一切無い。
記憶がないといえば、その他今では一番親交が厚い4人も似たようなもので記憶としては、柔道で鍛えて暴れん坊の例の「ジャイアン」そのままだったTぐらいなものである。
そして、この桃井小学校6年から中学校へ進学するのだが、当時県下でも有数の進学校だった前橋市立第一中学校(当時ダントツの前橋では随一)とランク落ちの第三中学校、そして別格の群馬大学学芸学部附属中学校と別れる事になるのは昭和39年。
即ち東京オリンビックの歳となる。

つづく‥‥

友人の葬儀で「弔辞」を読み思うこと

2008-12-24 23:59:15 | syuun の不思議な少年時代
友人の葬儀で「弔辞」を読み思うこと

平成20年12月24日(水)、小学校の同窓生の葬式に行ってきた。
この年末になって急逝するというのはどういう事か、くも膜下出血か、心筋梗塞かと思ったら肺がんということらしかった。
平成20年12月23日の天皇誕生日の朝、けたたましく電話が鳴った。
それは、何やら慌てた声での同窓生Aからの話、「Kくんが死んだのよ、新聞に載っている」「Tくんは、今診療中で話が通じなかった。どうしたらいい~~。」
‥‥とはいうものの、その時間まだ新聞を取りに行ってもいない。
しばらくすると、同じくFからの電話「後輩に花屋がいるので花は、4人連名で注文しておく。今日のお通夜は出るでしょう。その時に詳しく‥‥」

ここのところの12月は先週2日遊びに行ってしまったので、今週はてんてこ舞いだった。
20日に故障したカーナビのカーウィングスの故障修理は、22日に原因が判明したものの、日産プリンスが3連休中?で何も出来ず。24日に問い合わせたものの全く分かっていなかった。
改正建築基準法による管理建築士の認定講習の申し込みやらに追われ、23-24日は葬儀に追われた日々だった。
23日の通夜には、通夜30分前に到着したものの既に同級生の4人は到着。
直ぐに、Fが飛んできて原因は肺がんだって‥‥花代は13400円で一人3400円と計算の合わない請求と矢継ぎ早に、弔電を出して置いたので580円と‥‥これは、「クラス会費でね‥‥と」
それで、話は終わり。
会場は、駅から5分という場所にあるのだが今時車だし、工場地帯で周囲の工場が軒並み潰れているので駐車場が奥に増えた。しかし、狭い。
狭いというのは、葬儀場もそうだった。
隣の250人入る葬儀場かと思ったら、内輪でやる葬儀の100人用。
中堅企業の取締役統括業務部長(工事部長)だったから、弔電だけでも60通は越えるという。だから、通夜だけで会場には入りきらなかった。

さて、明日の葬式にはと聞くと同窓生のT、F、A、Tも通夜だけという。
隣に座った中堅建設業の社長T氏も同級生だったが、香典返しの小さな箱を持っていたから明日は来ないのだなとの感じを持った。
それで、急遽香典を受付に出して、もし緊急の用事があって来られなくてもという予防線を張って置いた。
何か、現役バリバリの年齢にして逝くというのは、涙を誘うもので鼻をすする音が止まらなかった。

そんなわけで、通り一遍の通夜を後にしたが、後味の悪さを味わった。
非常に親しかった友達に対して、葬儀も出ずに逝かせるのかである。
結構薄情なのかな、例え年末とは言え、たかが半日ぐらい休みが取れないものか‥‥
そう言えば、中学校の恩師が亡くなったとき、何やらやはり後味が悪かった。
この時は、葬儀に参列したのだが弔辞は、恩師が校長をやった後のことばかり。
そして、教え子の代表としての「弔辞」は恩師の紹介で甥と結婚したI氏だった。
実は、後から、T氏が「弔辞」を頼まれたが、ことわったと聞いた。

そんなことならば、「弔辞」くらい強引に読んでやれば良かったと何やら「苦い思い」がした。
そして、そのことは3件の弔辞を聞くと共に明確になった気がした。
そんなとき、既に終わってしまった葬儀の後に、どこからとも無く述べるべき「弔辞」がわき出るものだった。
誰に聞かせるということでもなく、只思いとして残るだけのものである。

真夜中になって、悔いの無いようにKくんの弔辞を読んでよろうかと思い立って、案文を考え‥‥12時を回ってしまった。
これで何日目かの夜更かし。

翌朝、事務所に出かけ葬儀屋に電話をかけると、弔辞は1つだけ決まっているという。
弔辞は、精々3つが限度と大方決まっているから、既に3つあったら止めようと思っていたのだが‥‥
結局、葬儀屋が遺族に電話をして了解を取ってと‥連絡してきて、直接遺族に連絡を取って「弔辞」を読むことにした。
実は、「弔辞」を読んでもらえる人がいると遺族としては、本当にありがたい。
それも、こちらから依頼しないのに申し出でくれるほど助かる事はない。
事実、両親の葬儀には「弔辞」が一つもなかった。
母の時は兎も角も、父の時には「弔辞」を頼める人が沢山いたものの、泡を食っていたから気がつかなかった。
人間いろいろ経験を繰り返してみないと、人の痛みは分からないものだと思う。
さて、そうこうしている内に朝10時を軽く廻り、急遽走り書きの弔辞を練り直して‥‥手書きしている時間がない。
白い便せんもない。‥‥パソコンで便箋を作っている時間もない。そうだ、最近はパソコン打ち出しでも「良い」と聞いた。
それで行くか、白い封筒に「弔辞」と書き‥‥筆も墨も手元になかったから、サインペンで‥‥
慌ただしさなのか、今はこんな調子になってしまった。

昼の12時に出かける準備をして、葬儀場についたのは13時の開式にして35分前。
葬儀当日は、不思議と人が少ない。
葬儀の打ち合わせに間に合って、順番と席を決め‥‥現地に行ってみたら「弔辞」はもう一つあった。どうも会社関係から友人でもある下請け業者に依頼したらしい。
それで、二番目に「弔辞」を読むことになった。
当然、一番目は勤めていた会社のA社長である。
みたら、「弔辞」奉書紙にパソコン打ちだった。

社長も「弔辞」で詰まったり、後半泣き声になったり、三番目の「弔辞」の友人も結構つまっていた。
こういう弔辞を聞くと、やはり故人の人間性というものを思いやるものである。
そして、小生としては思い残すことはないすっきりしたものになった。

但し、弔辞の後はそそくさと葬儀場からで出来た。
親戚のように、出棺を見送ると言うこともしなかった。なぜなら思い出に残したくなかったからである。
葬儀というものにはいろいろある。只そこに思うのは、思い残すことを断ち切るということだろう。
小生にとっては、「弔辞」で完全に断ち切れたと思う。やはり通夜だけですませるものではない事もある。

名もない自分の家系のルーツを探す

2008-11-12 23:49:46 | syuun の不思議な少年時代
名もない自分の家系のルーツを探す

先週法事があった。
法事あったからと言っても、今や遠縁になってしまった親戚からのものである。
実際は、伯父、従兄弟の何回忌というものだったが、それに合わせて墓の改装をするという。
要するに、寺の住職が代わって(田舎だけど)広い土地の墓地を退かせて、跡を切り売りしたいらしいと言うこと。
そして、実際は移った先の墓地というのもその親戚が前の住職の時に、金を出して買った土地を寺に寄贈したのだとか。いろいろとあるものだ。
それで、その墓を移転するに当たって、位牌と墓石を照らし合わせて先祖の家系図を作ったと渡された。
まあその家は、元をたどれば清和源氏だし、武田信玄の室であった「於琴姫」はその家系からで出いると家系図にある。
当然、武田氏とは姻戚にあり、一時期「油川氏」と言ったようだ。
実際は、「於琴姫」の世代から3代下がる人物からその寺に墓石があるという。
そして現在の当主はそこから数えて13代目という。
その家系図を見ていると、昔従兄弟が「分家」の方が実は正当性があるといっていたことに思い当たることがあった。
それは、分家に別れた後二代に亘って、不思議と血統が絶えて分家から二代養子、養女が本家に入っていることだろう。
一方、分家はいっぺんも血統が絶えていないということだ。
そしてその分家といっても分家に別れたのが宝暦(1751)年間のころというから、分家とて意外に古い。



確かに、そんな古い家で江戸初期の寛文(1661)年間まで武士であったのが、その後武士を止めて土着し、平農分離されていなかったという真実は面白いところだ。
これを土佐では「郷士」といったらしいし、あるところでは「地侍」といったらしい。
関東ではどうなのかは良く分からない。
この江戸初期まで武士で一定の勢力を持っていたと言う野城の様な屋敷が、埼玉のある地方に残っている。
今は、崩れ落ちそうな長屋門が幾ばくかの面影を残すが、草に覆われて見る影もない。
屋敷の廻りの堀は、「市有地」だとして埋め立てられ道路となり、戦後二回の相続で3000坪あった土地、どれだけ残っているのか。
しかし、その「山」といわれた竹藪や庭は手をつけられた様子はない。
なぜかと言えば、そこにどんな生物や植物があるのか分からないかである。
一種の自然の宝庫が街の中にあるというところのようだ。
そして、樹齢5-600年を超す樹木を伐採する勇気というものは誰も持ち合わせていない。



その長屋門の天井には、昔見たときは船が何艘も乗せてあり、奥の米倉や物置の軒先にも船があった。何故海もない内陸部に船、と思うが昔は荒川の氾濫が凄く、その屋敷の高台にあった裏屋という屋敷の離れまで水が来たと母から聞いたことがあった。
兎に角、昔の屋敷は自給自足が出来るもので、北西には竹藪。
東には川から屋敷に水を引き入れて、生け簀があり、畑がありというものだった。
今では、門の内側にも入れないそうで人が住まなくなった家というものは、あっという間に廃墟と化す。

一方我が家の家系図は‥‥といっても、戸籍謄本から分かる範囲でしか分からない。
しかし、古い戸籍謄本を家中探し回り、それを見ながら家系図を作ったらなんと半日かがってしまった。
それも、父母から聞いた知識があったから容易であったはずで、妻、子どもでは中々実態が掴めないかもしれない。
名字は、地域に特徴的な名字だから、清和源氏系とほぼ推定はつく。
そして、埼玉の川越から明治維新年に、城主松平氏と共に当地前橋(厩橋)に来橋し、そのまま移り住んで、ほぼ大きく住んでいるところは変わらない。
ならば、間違いなく自称源氏の末裔と言いたいところだが、うちの家系も移り住んでから実は2代で本家が途絶え、分家から家督相続をして今に至っている。
なんと言うことはない、埼玉のある「大越」(今は加須市内)と通称された家系の傍系に血筋から見ればなっているということである。
その家系が明治以降、歴史上わずかに登場するのは「私立埼玉英和学校??」という一族を通わせるための中学校を作ったことぐらいではないか。
それは、今の埼玉県立不動岡高等学校になっているはずなのだが、ほとんど知られていない。それは兎も角も、その我が家系の分家というのも、古くはなくて埼玉から祖父が養子に来て分家したものだった。
そして、その「大越」とは小生の父母の時代までは交流があり、戸籍謄本からその名前に聞き覚えのある名が出で来るが、今は誰も知らないというものだ。

正直言って、自分の家の家系のルーツなど、「どうでもいいよ」というものではないか。そして、家系に歴史上有名人がいるわけでもなし、又居たとしても歴史の中に埋没している。
但し、どうも母方から見ても父親から見てもいわゆる「源氏」という系統に入るというのは間違いない。そして関東ではごくありふれた家系というものだ。

syuun の不思議な少年時代 その19

2007-09-26 23:53:08 | syuun の不思議な少年時代

syuun の不思議な少年時代 その19

第二部 希望を持って

新聞によると「ALWAYS 三丁目の夕日」の続編が作られそうだ。
「ALWAYS 三丁目の夕日」は、昭和33年(1958)年で、続編は34年だという。昭和33、34年と言えばノスタルジーを感じさせるかもしれないが、決して便利でも住みやすい世界でもになかった。
なんとしてもおかしいと思ったのは、33年にしてテレビがあったことだろう。
普通の家にはテレビなどほとんどなかった。そして、多分放送していたのはNHKと日本テレビくらいなもの。
力道山の試合は、8時か9時、「月光仮面」(TBS系)は7時くらいだった。
この頃は、夜更かしなどしなかった。
今で言う夜7時というのは当時は結構遅かった。
そして、他の民放が出来るのは34年頃だった。
そしてテレビが倍増したのが、34年の今の天皇のご成婚の時だ。それでも10軒に一軒もテレビはなかった。よく見たのは34年からのフジテレビ系の「少年ジェット」。
なぜ「少年ジェット」なのかと言えば、学校から帰って夕方友達の家に行って見たのがそうだったからだ。
TBS系の昭和33年から始まった「月光仮面」はほとんど見ることはなかった。
なぜか、それはまだどこにもテレビがなかったからだ。

そして、我が家にテレビが来たのが昭和38年の夏過ぎだった。確かNEC製。ナショナル製(松下)のテレビは高かったからかも知れないが以後NECばかりだった。
そして、その頃のテレビは「目に悪い」と言うので、青色の紫外線除けのフィルターをかぶせていた。実際、そんなフィルターを被せなければ白っぽくて見づらかった。

「ALWAYS 三丁目の夕日」でテレビを昭和33年に買ったと言うが、我が家ではラジオを買った。それも木製キャビネットの大きくて重いヤツ。当然真空管のもの。だから真空管が熱くなるまで音が出なかった。
何か短波放送も聴けるというのが自慢だったが、短波放送は株価ぐらいしかやっていなかった。
そして、地方ではNHKと東京放送が良く入感した。文化放送、日本放送になると深夜聞こえるかどうかだった。
そして、放送番組は夜9時で終わり、あと10時頃から文化放送で「戦争の話」をやっていた。戦争の話?、なんだと思って夜更かしして聞いてみたが、いわゆる訳の分からない「反戦」放送だった。
だから、そんなものを聞くなと父が言ったのは間違いなかった。

オリンピックが近づいた1963年、実はまだ電話がなかった。電話は、この頃高い債権を買わされた上、抽選だった。局番は2局のみ。
だから、緊急の場合は電報を打った。

小学校の6年生。
新クラスになってよく見ると、ほとんど知らない人達ばかりだった。
1学年200人強で今では街場の小学校の全学年に相当する。しかし、実際は4年から普通クラスに入ったから知らないのも当然だった。
教師は、Y先生といった国語を専門とする教師だった。
それがどういう訳か、小学校6年生に中学と同じ国語の授業をした。今までの3-4年生の授業とは180度違った。
但し、音楽は、歌が中心で先生は、オルガンも上手に弾いたが、楽典は教われなかった。
ある時、昔のN先生が音楽の授業を代講したとき、楽典の簡単な質問をしたが誰も答えられず、あからさまに児童を馬鹿にした。
しかし、そのN先生が言った「楽典」の内容について中学に進学したときも習うこともなかったし、参考書にも書いてなかった。その時大方想像はついたが、全く無意味なことだった。
このY先生は、書道も熱心だった。書は授業の回数ごとに「級」をつけた。
そして、期末の「書道」成績は上の級から5が付けられた。
書道塾も10級から毎回競書を出すごとに級が上がったか、塾の競書の方が級の分類が多かったから、学校での級の方が上がりか早かった。
但し、小生はいつも二番手で「4」の口だった。6年の終わりは、確か2級が最高で終わり。
そして、最後の書道授業の時、墨が無くなって隣の席のA.M嬢(「5」の口)に墨をもらって書いた。
そうしたら、何やら上手く書けて級は2級で最上位に並んだ。まあしかし、「5」とするには一人多い。結局先生も迷ったあげく結果は「4」だった。
6年の終わりには、競書雑誌の「級」が追いついて1級(小学生)となったが、この手の競書雑誌では、まだまだ初心者の内だった。

子供ながら、学校での「書」の書き方を再確認するものではあった。
小学校の6年生というのは、実は良く覚えていない。各教科でつまづく事もなかったし、別に塾に行くこともなくても分からないことはなかった。
5年の時、分からなかった文章題の算数も、分からなかったのが不思議ぐらいに解けた。
夏には、プールで早々4級(50m)を取り、親戚に連れられて千葉の海に行った夏の終わりには3級(100m)を取った。但し、3級の黒線1本を付けることはなかった。

夏休みが過ぎ、実は何やらクラスでは妙な雰囲気が漂った。
それは、今で言う「お受験だ。」
ここの小学校からは、毎年国立の附属小学校へ編入試験を受ける児童がいたが、中学からは一クラスの募集があって、それを目指していた。
我がクラスからは、男1、女1の「お受験組」がいた。
だから、社会の授業などは歴史年表の暗唱など当たり前だった。
「鳴くよウグイス平安京」とは、附属中学校へ受かった、学年一の美少女で秀才だったM.Mが言った年号だった。‥‥794年平安遷都。
M.Mとは、吉永小百合の小さい頃にそっくりだったと言えば、察しがつく。

一方、6年の夏休み後になって自分に現れた顕著だったのは、背が伸び始めた事だった。どちらかと言えば「ちび」だった4年生くらいから大部大きくなった。それにつれて、部分の力が出るようになった。
走る‥‥というのはこういう風に走るのか、とその時実感した。‥‥但しまだ実感が湧かなかった。