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"四季折々 この一枚″

ブログのタイトルを上記に変更しています。アドレスは同じです。
右端にカレンダーが出ればご覧いただけます。

神戸北野の坂と桜

2013年04月03日 11時20分29秒 | 紀行

神戸の北野の異人館通りは地元の人には見慣れた風景になっています。

今回は季節がら、神戸の「坂」と「桜」をテーマに3枚の写真を掲載します。

坂が急勾配で、もう、この坂は歩いて上がるのははむつかしそうです。

「風見鶏の館」の東側にある、「北野天満宮」です。

この石段も、もう、上がる気はしません。

異人館のようですが、誰か住んでいるのでしょうか。

石段の上の桜が目に止まりました。

 

(もう一つのブログ、「春夏秋冬 75」も更新しています。
 よければ、ここをクリックしてください。画面が転換します)


学園祭さかん

2012年11月04日 17時30分10秒 | 紀行

10月から11月にかけて、大学の学園祭が全国的にさかんです。

西宮市内の大学でも「文化の日」の3日、大勢のOBや現役を集めて
盛大に行われていました。

秋晴れの祝日とあって足の運動をかねて、学園を訪れた人が多かったようです。

 


「鈴木よね」と神戸

2012年10月11日 14時07分35秒 | 紀行

六甲ケーブルの南、神戸灘区の高台に、そのお寺はありました。

大阪から堺、須磨、一の谷までを一望のもとに見下ろすことができた
このお寺は、平清盛のころが最も栄えたといわれています。

長い歴史の中で、明治の初年、廃寺となった寺は、
昭和2年、神戸の大商社、「鈴木商店」の社長、いや、「お家さん」と呼ばれた
「鈴木よね」さんや政・財界人の喜捨によって、
臨済宗妙心寺派(禅宗)の寺として、ここに、再建されました。

そのお寺の本堂西側、「鈴木よね女史像」と刻んだ大きな石の上に
同女の胸像が乗っていました。

石の側面には、「昭和貮年五月 建之」と刻んであります。

この像の横には、鈴木商店を実際に動かし、大きくした、大番頭の「金子直吉」翁と
同商店の発展に尽くした「柳田富士松」翁の「頌徳碑(しょうとくひ)」も建っています。

 頌徳碑は、「人の功徳を記した記念のための石碑」を言うそうです。

「鈴木よね」が姫路から神戸に出てきたのが明治10年、25歳のとき。
当時、バツいちだった彼女は、神戸で商売をしていた兄の友人、鈴木岩治郎と再婚。

主人の岩治郎が明治27年に、54歳で死亡したあとも、「よね」は、
神戸で商売を続け、大番頭の金子直吉や柳田富士松とともに、
会社を大きくしていきます。

大正の時代、「鈴木商店」は、三井、三菱財閥をもしのぐ
日本の大商社に育ちました。

このあたりは、ドキュメンタリー作家、「玉岡かおる」さんの「お家さん」を
読んでいただければ、「鈴木商店」と「鈴木よね」の成長の過程が、
よくおわかりいただけるとおもいます。

新潮文庫の「お家さん」読後感は、私のもう一つのブログ、
「春夏秋冬 75」にも記載しますので、あらためてご覧ください。

大商社に駆け上がった神戸の鈴木商店も、昭和2年、資金難から、ついに破綻。
波乱万丈の商売、人生を送った人たちも、やがて、世を去ります。

お寺の境内から、神戸の港を一望におさめた「鈴木よね」の胸像も、
いまでは、海も見えないくらい住宅が建てこんでいました。

 

もう一つの「春夏秋冬 75」も更新しています

 


「京」の夏模様 6

2012年08月30日 10時48分17秒 | 紀行

「京の夏模様」と言いながら、またまた、お寺で恐縮です。

こちらは、浄土宗総本山・知恩院。

「青蓮院門跡」の南側に位置します。開基(創立者)は法然上人。

残暑のきびしい日でしたが、少年たちが三門からつづく急な石段を
元気に駆け足で登っていました。

去年、法然上人800年大遠忌を迎えた知恩院は、御影堂(みえいどう)を
大修理することになり、今年はじめから、その作業が始まっていました。

御影堂は本尊の法然上人を祀る本堂で、寛永16年(1636)、
徳川家光によって再建されました。
国宝です。

大修理には8年の歳月がかかるそうです。

大晦日の「除夜の鐘」でおなじみの大鐘楼です。

梵鐘の重さは70t、高さ3.3m、外径2.8m、
同じ東山の方広寺、奈良の東大寺と並んで、日本三大梵鐘の一つといわれています。
国の重要文化財です。

静かな木立の中にひっそりと立つ大鐘楼を見ていると、しばし、
京都の暑さも忘れさせてくれます。

ただ、セミの声だけはやかましく、一瞬、われに返ると、熱中症の心配が頭をよぎりました。


(「京」の夏模様、終わり)

 


「京」の夏模様 5

2012年08月29日 10時40分59秒 | 紀行

粟田口三条坊町にある「青蓮院門跡」です。

門跡とは、皇族か摂関家が門主(住職)を務める特定の寺院を指し、
格式の高いお寺をいいます。

 青蓮院門跡は、天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡の一つで、
ほかには、「三千院」、「妙法院」があります。

境内の拝観は、華頂殿、小御所、宸殿、などを回遊でき、同時に庭園も
見て回ることができます。

今回は、以前から、一度、訪ねてみたいとおもっていたので、良い機会でした。

ここばかりは、残暑のきびしい京都にありながら、しばし、
一服の清涼剤を味わった感じです。

青蓮院門跡は平安時代末期に比叡山から京都に移り、現在に至ります。

江戸時代の天明8年(1788)には、大火によって御所が焼けたとき、後桜町上皇が
ここを仮御所として避難されたことから、「粟田(あわた)御所」ともいわれています。

境内に5本もある大きなクスノキ。

(つづく)


「京」の夏模様 4

2012年08月28日 09時49分48秒 | 紀行

「いもぼう」。伝統の京料理のひとつ。

海老芋と棒鱈を炊き合わせたもので、京野菜の海老芋は里芋の一種です。


江戸時代の中期、平野権太夫という人物が宮様の行幸に従ったとき、九州から
持ち帰った唐芋(とうのいも)を円山で栽培し育てました。

そして、海老芋と棒だらを一緒に炊き上げる工夫を重ね、その技と味を一子相伝で
現代に伝えてきたものと言われています。

円山公園には、現在、「いもぼう平野家本店」と「いもぼう平野家本家」の2軒が
営業しています。

(つづく)


「京」の夏模様 2

2012年08月25日 10時13分49秒 | 紀行

「東山区白川筋三条下る梅宮町」。
夏の暑い日差しと風に、柳の緑が川面にゆれています。

比叡山の山麓に発した「白川」の流れは、ここから、さらに南へ下り、四条通リの北側で、
鴨川へそそぎます。

この辺り、京都の風情を感じさせる絶好の場所です。

4年前、この地を訪れたときに知り合った「光秀饅頭」を売る「餅寅」(もちとら)さん。
店の裏に明智光秀の首塚があります。

その、お餅やさんが、三軒ほど南に大正時代の古民家を買い取り、手を加えて、
「京町家  貸し切りの宿  白川庵」をはじめたというので案内してもらいました。

建物は京の町家らしい造りで、意外に、しっかりしたたたずまい。

一日一組貸切限定、一泊朝食付き、9人まで宿泊できるそうです。
大勢で泊まる方が割安になるとのことでした。

水遊びをする子どもたちには、ゆるやかな水の流れと柳の緑が
暑さを忘れさせてくれるのかも知れません。

 炎天下、まだ、暑さはきびしいが、見た目は涼しげな「京 白川」の流れです。(つづく)

 


「京」の夏模様 1

2012年08月24日 15時11分54秒 | 紀行

臨済宗南禅寺派大本山の南禅寺です。

三門の高さは22mあるといわれています。
あの石川五右衛門が「絶景かな、絶景かなーー」と言った山門です。

南禅寺の境内は緑も多く、それなりに「涼しさ」を感じますが、市内は、いかにも、暑そうです。

早く、「秋」になってほしいとおもいながら東山付近を回りました。(つづく)


旧九鬼家住宅

2012年07月13日 10時13分21秒 | 紀行

JR三田駅から徒歩で約15分、三田市内屋敷町に「旧九鬼家住宅資料館」はありました。

明治初期(明治8年前後)に建てられた全国でも数少ない「擬洋風建築の建物」で、
平成10年4月に兵庫県重要有形文化財に指定されています。

1階は和風、2階が洋風に造られた家屋で、全国でも数少ない建築様式です。

三田藩の家老職を代々勤めた九鬼家の住宅として、
明治の初期(明治8年ごろ)、九鬼隆範(りゅうはん)が自ら設計して
建てたものです。

主屋(おもや)は1階が土間、台所を除いて6室。

2階は洋風に造られており、東半分がベランダになっています。、
洋間には床に畳を敷いたり、壁や天井は壁紙の代わりに
日本的な襖(ふすま)紙を張るなど、洋風の技法が取り入れられているといいます。
 
(2階は開館日が決められており、この日は、2階へは上がれませんでした)

九鬼家は、もともと、九鬼水軍の家柄で、徳川時代に入って三田へ移封されました。

屋敷内には、昔をしのぶかのような、大きな和船の模型も飾られていました。

 

(写真は、7月8日(日)に撮影しました)


中山道・守山宿を歩く 3

2012年06月12日 12時18分15秒 | 紀行

京都から東海道を東に歩くと、街道は草津の追分で東海道と中山道に分かれます。
(このブログの2010年12月2日付けをご参照ください)

その中山道の最初の宿場、守山宿の町中には、かっての街道を感じさせる
雰囲気がありました。

町中には水路が多く、豊かな水が流れていました。

明治初期の町屋を改装した「中山道街道文化交流館」は、現在の宿場の中心でしょうか。

館内は地元の人たちの展示品が並び、観光客の交流の場となっていました。

2階の大広間。

屋根瓦越しに見えるマンション群。

昔の宿場町にも近代化の波が寄せているようでした。

(守山宿 おわり)

 


中山道・守山宿を歩く 2

2012年06月11日 09時43分06秒 | 紀行

古民家が散在する中山道・守山宿にも「銀座」の地名がありました。

その守山宿に入ってすぐ、西側、街道に面して、「東門院(とうもんいん)」という
お寺があります。

この寺は、788年に比叡山延暦寺の東を守るお寺として建立されたと伝えられ、
正式には、「比叡山東門院守山寺」と呼び、守山の名前もここからとった、
といわれています。

街道に面した「だんごや」さん、「鶴屋吉正」。

店内の広い土間と座敷に、宿場町のたたずまいを感じさせてくれます。

天保14年、1843年の中山道の記録によれば、当時の守山宿の家屋数は415軒、
人口は1.700人、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠30軒だったとされています。

(つづく)


中山道・守山宿を歩く 1

2012年06月09日 14時22分27秒 | 紀行

守山宿・町家 「うの家」。
あの宇野宗佑氏の「うの」である。

場所は、滋賀県守山市守山町一丁目。今年、平成24年1月にオープンしました。

旧中山道に面したこの町家は、江戸時代末期から明治初期に建てられた母屋や
造り酒屋の趣を残す蔵などを改修し、展示室、ギャラリー、レストランなどを
営業しています。

内部に展示されている竹細工。趣味の人たちが集まって作った作品だそうです。

宇野家に伝わる大名行列の人形たち。

数多くの旅人や大名行列が通った「中山道」。
京都から東へ、草津までは東海道と共用ですが、草津からは中山道と東海道に分かれます。

その守山の手前、吉川(よしかわ)は、かっては、川幅20間と言われていたそうです。
(上の模型写真)

ところが、現在は、わずか5m足らずの川幅。
今宿町からセメントづくりの「土橋」を渡れば、守山町です

中山道は美濃から信濃、上野、武蔵、そして、江戸へ。
山の中を通る街道ですが、大きな川が無いため、河どめにあうこともなく、
日程が守られたことから、以外に多くの旅人が
利用したと言われています。

徳川家に嫁にいった篤姫の行列も、「中山道」を通って江戸へ向かいました。

(つづく)


 


奈良・東大寺を見る 5

2012年05月02日 10時10分16秒 | 紀行

東大寺は、1998年、古都奈良の文化財の一部として、「世界遺産」に登録されました。

「南大門」も「大仏殿」も「二月堂」も、国宝建造物です。
修学旅行の生徒たちが多いのも、当然のことかもしれません。

国宝の間に、昔からの日本の風情が残るのも、奈良らしく感じた。

 

(写真は、いずれも、4月24日に写したものです。 おわり)


奈良・東大寺を見る 4

2012年04月30日 15時16分12秒 | 紀行

二月堂の上から西方を見る。中央、大仏殿の屋根が見える。

大仏殿から東へ、坂をあがったところに「二月堂」がある。
過去に兵火や失火で焼けたが、現在のお堂は、1669年に再建されたもの。
これも国宝。

本尊は十一面観音。三月一日から十四日まで行われる修二会は、
お水取りの行事で知られている。

お水取りの行事を修二会と呼ぶようになったのは平安時代で、
関西では、「お松明(おたいまつ)」と呼ばれることが多い。

国宝の二月堂といえども、いまや、外国人観光客を無視するわけにはいかない。
外国語の案内文字も目立つ。

画面の手前は「閼伽井屋(あかいや)」、別名「若狭井(わかさい)」と呼ばれる井戸。
「お水取り」では、この井戸から香水を汲み、本尊に供える。

お水取りの行事は、「興隆仏法」「天下安泰」「万民豊楽」「五穀豊穣」を
祈ったとされている。

(つづく)


奈良・東大寺を見る 3

2012年04月29日 10時00分45秒 | 紀行

修学旅行か遠足か、東大寺には、生徒たちの姿が多かった。

修学旅行といえば、昔は「秋」の行事だった。それが、4月から始まっているのだ。
観光バスの駐車場も入れ替わり立ち代り、バスの出し入れで混雑していた。

鹿だけは、いつもと変わらぬ様子だ。春は、毛が生え変わる時期なのか、いささか、汚かった。

(つづく)