ずうっと、お会いしたいと思っておりました。低温研のGさんに、もしその方がいらしたら、連絡してください、とお願いしてありました。午前中、ある会議に出席した後、研究室に戻ると置き手紙。「茅野春雄先生がいらしていますので、お時間がありましたらどうぞ」と。
胸をワクワクさせながら、茅野先生におられる部屋に向かう。どんな先生だろう? コワイ先生かな? おそるおそる、部屋の扉を開ける。部屋のなかには、スキーウェア姿の茅野先生がいらっしゃいました。
茅野先生が、東大から低温研に赴任したのは、1973年のこと。低温生化学部門を新設。当時、星元紀先生(後の、日本動物学会会長)もいらしたので、豪華メンバーで研究室が構成されていたことになります。茅野先生は、昆虫少年であり、ナチュラリスト。ナチュラリストの立場から、「昆虫はあんな小さな体でどうして飛べるのだろう?」、「休眠する昆虫の卵の中でエネルギーはどうなっているのだろう?」といった問題に生化学的アプローチで迫っていく。その研究の過程で、リポホリン(脂質を運ぶタンパク質)を発見。昆虫の体の表面は、ワックス(炭化水素の一種)の層で覆われているのですが、この炭化水素のおかげで乾燥から身を守ることができ、昆虫という生き物が陸上に上がれたと考えられています。炭化水素が生成されるエノサイトと呼ばれる器官から体表まで、炭化水素を運ぶ役目をしているものがリポホリンです。この発見は、生化学の歴史に残る仕事です。
茅野先生が都立大で助手をされていた頃のエピソードが面白い。ウニの発生学研究で知られる団勝麿先生から、あるときこんなことを言われたとのこと。「茅野君、君は論文や本を読むのがあまり好きではないようだね。しかし、それは悪いことではないよ。読みすぎると凡人はそれに囚われてしまう。いろいろな知識を頭に入れて、さてと言って始めた仕事にいい仕事なんかないよ」と。
茅野先生の信念は、「自分が不思議だと感じたことを自分の手でやる。流行は追わない」。その一方で、もう少し勉強をしておけばよかったなあ、という苦い想いもあるそうです。茅野先生のように、非凡な才のある研究者でさえ、「もう少し勉強をしておけばよかったなあ」と思うのですから、凡人の我々はより一層精進を重ねる必要がありそうですね。
現在、東京にお住まいの茅野先生は、毎年、スキーを楽しみに札幌にやって来られます。数えで80歳の先生ですが、凄いパワーです。矍鑠とした茅野先生にお会いして、我が身が奮い立ちました。
秋野美樹先生、茅野春雄先生、そして富野士良先生が築き上げて来た、都立大の昆虫生理生化学の研究室は、泉進先生の退職でひとまず幕を閉じることになりました。しかし、先達が培った研究スプリッツは、低温研出身の朝野さんがさらに受け継いでくれることを期待しています。
泉先生、長い間、ありがとうございました。私の無理なお願いも快くひき受けてくださり、頭が下がる思いです。新天地でのご活躍、期待しております。
モデルバーンから低温研に至る道沿いの白樺も春を待ちわびています。明日から4月。もう北の地の春は近い。
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<追記>
下記の茅野先生の著書は、研究者としての生き方を考える上でも、参考となります。是非、ご一読を!
茅野春雄著「昆虫の謎を追う~あるナチュラリストの奇跡~」学会出版センター