Chinaの崩壊が近いと喜んでいる毎日ですが、その実現は間違いないのじゃないでしょうか。
習皇帝が企てていた新都心がゴーストタウン状態だそうです。宮崎さんが日本の歴史を例にしてその危うさを説いてくれています。
とは言え、世界の金の亡者達がChinaの延命に力を貸しそうで不安です。その筆頭がニセ大統領(バイデン)との恐れも出てきているようです。
「宮崎正弘の国際情勢解題」より 令和三年(2021)10月22日(金曜日) 通巻第7089号
習近平肝いりの新都心「雄安都市」は、ゴーストタウンに?
雑草が生い茂り、人の出入りは殆どなく、コンクリート残骸
2017年、習近平は新都心「雄安都市」建設を高らかに宣言した。また一つゴーストタウンを増やそうというわけでもなかっ たが、河北省の僻地、アクセスが悪い上に水利に問題があると指摘された。
案の定、いまでは雑草が生い茂り、人の出入りは殆どなく、コンクリート残骸の山が築かれた。
政府機関の一部や社会科学院などを強制移転され、雄安新都心は輝かしい中国の未来をしめす新しい都市として無人バスなどの 実験も行われた。大型トラック、クレーンが林立し、建物はあちこちに出現したのも束の間に現象だった。
習近平の狙いは、上海浦東、深セン特区につづく、三番目の大規模な新都心だった。予算が付けば業者は潤う。
コンクリート・ミキサー、ブルドーザが集中し、労働者も夥しく集まり、建設現場は活況を見せつけた。2020年から武漢肺炎 という疫病のため、多くの工事が中断した。
日本では「副都心」として、難波宮が造成されたことがある。しかし難波宮は不運の都市だった。副都として機能したのは僅か の期間だった。
前期難波宮は「乙巳の変」(645年〉)直後、孝徳天皇が遷都を決断され、白雉3年(652年)に完成した。孝徳天皇崩御 のあと、飛鳥にいた皇極天皇は、斉明天皇として重姐され、飛鳥板蓋宮に戻った。その後、天武天皇が複都制の詔をだされ、難波 を副都とするも朱鳥元年(686)に難波宮室は全焼した。
持統天皇が建てた藤原京は、宏大な敷地が残り、一部レプリカで宮殿の台座が再現されている。
早々と藤原京は捨てられた。湿地帯で水はけが悪く、首都機能を果たせないと判明したからだ。
乙巳の変から100年後の744年、聖武天皇は難波宮遷都の詔を出された。この後期難波宮を聖武天皇が再造営に着手し平城 京の副都とした。
ところが、翌年に難波京から紫香楽宮へ遷都がなされる。そして延暦3年(784)、桓武天皇は長岡京に遷都された。
▼遷都の目的は防疫、旧体制一斉、裏に陰湿な権力闘争
たびたびの遷都は旧体制の桎梏から、権力闘争から逃れての新政が目的だったが、疫病の防御という別の目的もあった。
延暦3年(784)政務を担当していた藤原種継は山背国乙訓郡長岡へ遷都を建議した(長岡京は継体天皇の乙訓宮の跡地)。
同年、藤原種継は桓武天皇から長岡京造宮使に任命され、遷都プロジェクトの責任者となるが、延暦四年九月に矢で射られ、暗 殺された。
桓武天皇が留守中の事件で、「犯人」として大伴一族ら多数が斬首となった。直前に死去していた大伴家持にまで累が及んだ。
真犯人は分からないが、ほかにいたはずである。
この時代は王宮と豪族と坊主たちの陰湿な権力闘争が展開されており、長屋王、穴穂部皇子、大津皇子、早良親王らの暗殺が連続 した。
遷都に反対する勢力が放火など露骨な妨害をした。
その後、長岡京は廃止され、平安京へ遷都したのも、早良親王の怨霊が原因とされる。京への遷都は和気清麻呂が建議した。地 政学的に京都のほうが守りやすいからでもあった。
習近平政権が狙った雄安都市という副都心計画の目的は防疫、旧体制一斉、裏に陰湿な権力闘争が絡んでいる筈である。11月 8日から北京で開催される六全中会で、この問題への追及がなされる可能性は少ない。
習皇帝の意図はどこにあるのでしょうか。いずれにしても、延命させることだけは避けなければなりません。
その為にも、これ以上Chinaに金を注ぎ込む金の亡者達の動きを止める必要があります。
やはり、それが出きるのはトランプさんでしょう。一日も早い復活が待たれます。