▼「コロナ五輪」開催を直前にし、五輪の「政治利用」の実態が鮮明になってきた。つまり五輪は、アスリートのためでも世界の平和の祭典でもない。スガ政権による【憲法改正】への政治利用なのだ。
▼そう断定できるのが、東京都の4度目の【緊急事態宣言発令】だ。東京は五輪開催を控え「コロナ・ウイルス弾?」がさらに多く投下され、ウイルスが蔓延しだしてきたからだ。
▼ついに「無観客の五輪」という決断を余儀なくされたようだ。というより、国民が無観客を要望したように仕組んだのだ。
▼コロナが終息すれば、無観客など国民が望むわけがない。「緊急事態宣言」の発令と緩和を繰り返し、国民に無観客の五輪開催を納得させたのだ。
▼無観客となれば損失は大きい。だがそれに見合うだけの成果があるからだ。その成果とは【憲法改正】だ。
▼♪一度だけなら許してあげる♪、そんな歌があったのを思い出す。それが4度目ともなると「緊急事態宣言」は、国民の「危機感」を「期待感」に変換させてしまっているのではないだろうか。
▼さらにワクチン接種にみられる、国民感情のコントロールだ。『2度打てばさらに効果がある』『異なるワクチンを打てば効果がある』。
▼近年富に信頼感の薄れた政府の言いなりになる国民は、催眠術がかけられているのではないかと指摘する声も聞こえてくる。
▼それはただの戯言だと思えばそれまでだが、新聞には政府高官の声として、無観客については【国民の総意だ。流れに逆らわないのも大事だ】と報道しているのを、見逃してはならない
。
▼無観客が国民の総意ではない。国民はむしろ「五輪中止」の方が安全だと考えているのだ。「五輪を開催するならやればいい」。ここまで来たからには【しかたがない】という状態に陥らせただけではないか。
▼大本営発表!「令和3年7月23日、コロナ五輪開催。我ガ国のメダル獲得ハ史上最高ノ勢イ」などという、めっぽう明るい国営放送が流れるような気がする。
▼度重なる「緊急事態宣言」。海外ワクチンの国家による「強制的接種」。国民の安全・安心というお題目を掲げるその先には、何が待っているのだろうか。
▼自民党改憲草案第98条は「緊急事態」の憲法への明記だ。それは現憲法第2章「戦争の放棄」を「安全保障」と書き換え「国防軍を保持する」という改正案と、セットなのだ。
▼つまり軍隊を持ち「緊急事態宣言」を憲法に明記すると、軍隊は内なる狂暴化を表面に出してくるのだ。
▼そのスガ政権の“悪だくみ”?!に、まんまと乗せられてはならない。こんなことを私がほざいても何の足しにもならないが、フランス文学者であり思想家の内田樹著「街場の天皇論」より、私が特に印象深く感じた言葉を引用したい。
▼【自民改憲草案は「何一つ安定したものがなく、あらゆる価値が乱高下し、システムがめまぐるしく変化する社会」の到来を約束している。歴史上、様々な憲法草案が起草されたはずだが、「現実的であること」(つまりいかなる理想も持たないこと)を国是に掲げようとする案は、これが初めてであろう】。
▼さらに戦争が出きる憲法の改正は【国民国家解体】のシステムだ。「国民主権」が「国家主権」となれば、帝国憲法下の国に逆戻りをするということになる。
▼習近平体制の中国のように、世界のトップは「国民主権」より【国家主権】の方が「安全・安心な国家づくり」には効率的ではないかと考え始めているのではないだろうか。
政治に辛く自分に甘いと感じる私
三等下