回想 会報[山の足音1983年別冊]より
皇海山(すかいさん)2144m
日光ノ 手前ニ未ダニ 野生動物ニ 出会エル山ニテ
『日本百名山』 深田久弥著 No,38[皇海山]のなかで 木暮理太郎、藤島敏雄が大正8年(1919)に登山記を記し この山を紹介している。
………「皇海山とは、一体どこにある山か名を聞くのも初めてであるという人がおそらく多いであろう。それもその筈である。この山などは 今更、日本アルプスでもあるまいというつむじ曲がりの連中が2000mを越えた面白そうな山はないかと蚤取り眼で地図を捜して、ここにも一つあったと漸く探し出されるほど世に聞こえない山なのである。」と書かれているが、この言葉は40年後の今日でも、まだ通用する。皇海山は、今なお静寂のなかにある。……
この『日本百名山』の初版が1965年、僕達は昨年(1982年)の11月と年末に訪れた。そして…納得した。この本を読むとその山の由来や庚申山、庚申講との関わりが伺える。位置は関東北部、日光の裏側、足尾の町の背後、奥白根山から南下する稜線上にある。近くに際だった景勝地がないことも、半世紀以上、過ぎた今でも原始性 を保って来られた理由のひとつかもしれない。
原始性 即ち、野生動物が安心して生活できるという地域。山仕事で生計をたてる必要の少なくなった現代では、さらにその傾向は強くなっていくだろう。しかし、その現代は世と人の心を変に歪曲させているから恐ろしい。安請け負いの自然復帰ブームが逆に彼ら野生動物達に値札を付けさせている。密猟である、降雪こそ少ないものの-10℃の夜中に着の身着のままライフルを抱いて焚き火の周りに寝ころび夜を明かす。マタギの子孫かと思われる屈強なおそらく地元の狩人達だ。獲物を買い取るシステムが黙認されている以上、これで生活する人達がいて不思議はない。「特別保護区」の看板の元でもとても、野生動物が安心して住める地域では無さそうだ。
■ 1982.11.21—22 O川 K藤 [庚申山~皇海山~六林班峠]
11月後半の初めて入山の朝、小雨交じりの庚申山自然歩道にて僕達は甲高いキョ~ン、キョ~ン、の声に迎えられた。この山をお正月に登ろうとの誘いをO川から受けたのは一昨年のこと。このときはボツで、結局、2年越しの計画になった。私には未知の山域だ。(栃木県民で釣師のO川は鋸~庚申山付近まで3回ほど)なので、正月の偵察行として11月末に入山した。
21日朝、丸石沢橋にO川の4WDを駐車させ、曇り空のなか出発(7:00)した。庚申山荘(10:20)、山荘背後の信者が修行した大岩壁を鎖や梯子に沿っての急登。トラバース道など凍結すると厄介だと話しながら上に出た。やっと頭上が晴れてくる。さらに15分ほどで樹林の中の庚申山山頂、少し先の展望台(11:30—12:00)に着いた。主稜上にある鋸山を経て皇海山を往復して六林班峠から庚申山荘に戻る計画だ。ポイントは庚申~鋸の状態と幕営適地の確認、六林班峠道の積雪期の予想などだった。
少々、涼しいが立食とする。目の前の皇海山はなかなか全貌を現さない。西山腹を真っ白に樹氷で染め上げうずくまっている様子はまるで 鈍牛だ。ここまではハイカーの領域だ。彼らの視線を背中に感じながら皇海山へ向かって出発する。山慣れた二人連れパーティと相前後して行く。鋸の歯先までは樹林とクマザサ帯を交互に交えた割と広い尾根だ。小平地も幾つかある。まだ昼過ぎなので鋸を越えることにする。
ブナの林立し幹の所どころ地面から50—60cm位の片側が白く樹皮が剥がれている。シカかサルの仕業か意見が対立。そのあいだにも ピー、ロロルル(と聞こえる)の声が谷から聞こえてくる。鋸の歯は大小10峰あって信仰の名残か小さなピークにも名前が付けられている。
やはり、鋸歯は昨夏の台風で荒れたままになっていた。8峰(蔵王)は南側への崩壊、9峰手前は表土が削げ落ちて岩盤が露出気味、9峰と10峰の鞍部は両側切れ落ちて鎖が下がっているが左手の谷底に振られる形になるとか、10峰尾根左側が崩壊して針金が宙ぶらりになっていて刃先をハイマツを掴んで通過するとか、修験者はさぞやキモを冷やすに違いない。なんだかんだと寒風とガスのなか鋸山頂(14:30)に着く。早々にビバーク地点を探しながら峠側に進む。翌日の行動を考えて10分ほど降りた小ピークの根元にツェルトを張った。
夜半、風の音と明らかに違う物音、すぐ近くで生き物の気配だった。翌朝、尾根を越えるケモノ道が近くにあった。
■ 1982.12.30—31 O川 K谷 K藤 E子 [六林班峠道より皇海山]
積雪は多くて足首が潜る程度、全く水が得られないことも予想して各自2Lの水を担ぎ、庚申山荘より六林班峠道に入る。庚申川と庚申尾根との間の1500m~1600mのコンターを延々と辿り1800mの峠に到達する。今も営林署の作業道であり彼らの受持区域を示す班名が峠の名前になっている。
山荘から30分ほどは犬と多分山荘の人の足跡。その先をいくトレースは彼らのものだけになった。カモシカかシカか?サルやウサギかイタチかネズミか小動物の真新しい足跡が峠道の新雪を往来している。立ち止まって一息ついたり辺りを見回したり、急に引き返したり、急に消えたと思ったら迂回して戻ったり、泥浴び場があったり、僕達は確かに彼らの自然圏に入ったのだ。雪の消えた枝尾根の鼻先を回り込む辺りはケモノ道がやたらに交差。まさにケモノ達の銀座四丁目スクランブル交差点だ。
いつ、その角で…!?『あ!、あそこ!』O川の声の先に二つの白い尻の焦げ茶色の獣が躍動して、右上の山腹から左下のブナの点在する笹原に今まさに駆け下っていった。二頭のニホンシカだ、立派な角のある奴だった。偵察山行のとき声だけで姿を見損なった僕はしっかりと頭に白い尻を焼き付けた。
やがて小径は大小10本ほどの谷を横切る。積雪の多い場合、気になっていた辺りだ。幸い雪は少ないが、幾つかが巻き道から流水への降り口付近が凍結していて緊張させられる場面もあった。峠の最後の谷の手前で大崩壊を横切るところは、たぶん昨夏の台風によるものと思われる。
もう、ワンピッチになった頃、彼らの足跡のなかに第三者の足跡が登場した。それはビブラム底(登山者)ともゴム長(小屋番)とも違う、ゴム底で丸い鋲らしきのついた大きさは22—24cmほど、割と小柄の体格の、たぶん男だ。僕達はシャーロックホームズのように想像を巡らす。この頃からシカの足跡は少なく古くなっていく。そのとき左下の谷側のブナ林からけたたましい犬の吠え声、猟犬だ!狩人だ。峠の下にはさらに四人の別の足跡が立ち止まっている。中には平靴もある。
六林班峠(13:45)は静かだ。侵入者達は峠の向こうから来たようだ。長居はよそう、一応予定地点まで歩を進めなければならない。このあたりで積雪は深くてヒザ位。先月、赤布を付けながら降りてきた主稜へ登って行く。1800m付近は尾根が広くて迷いやすい。倒木に古い黄色と赤色のプレートが打ち付けてある。P1835mの登りにかかる辺りにテントを設営(14:30)した。
樹林の間に足尾の街の灯、-8℃、月食、無風。夕方頃、5—6人の狩人が上がってきた。ライフル以外は手ぶらで犬は連れていない。先ほどの足跡の主とは違うグループのようだ。編み上げ靴に、釣用の鋲打地下足袋が二人、革ジャンパー、つなぎの上下といった程度の服装だ。その晩、彼らは我々のすぐ上で焚き火をして夜明かししたようだ。
12月31日 3:30起床、吹雪いている。食事を済ませテント撤収、デポしてサブザックで(6:30)皇海山へ出発。
鋸山(7:30)着、手前の先月のビバーク地点でアイゼン付ける。露岩がむき出しになる個所あり、無事通過。そして100m程降りるとて鞍部、ここは木立のなかで溝状に雪が詰まっていた。先月はドロンコ滑り台で一部針金あり。小ピークを過ぎると、いよいよ皇海への登りになる。鞍部には「特別自然保護地区」の黄色い看板が白々しい。先月、別パーティはここでビバークしていた。
年末の新雪の樹林を楽しみつつ軽いラッセルで登る。天候はまだ風が強いが頭上が明るくなってきた。岩記号のところまでくれば、着いたも同然で一登りで急登はなくなり樹林のなかを右手に回り込み気味にラッセルすると、ふいに傾いた巨大な剣が、皇海山山頂(2143m)に着いた(9:15--30)。鋸の歯が白黒の不気味なコントラスト。雲の動きが早い、長居は禁物だ。今日は大晦日だし足尾温泉泊まりだ。
先ほどの鞍部(10:00)で、今朝、鋸を越えてきたという二人連れに会う。やはり相当厳しかったようで、あれを戻るのかとため息をついていた。鋸山(10:40)、幕営地点(11:15)、早々に六林班峠(11:55)着。ここで、昨夜の狩人達に会う、なんとニホンシカの頭部を担いでいた…。僕達は憎しみと興味半分で得意げな連中と言葉を交わす。
僕達の心は湿りがち、素晴らしい山頂を踏んできたのに、どうも後味が悪い。再び長い長いコンターの峠道を下り始める。しばらく歩いて山の鼻にさしかかる、小さな谷を横切る。そのとき、背後に『ドドド!』同時にO川の叫び声!振り返った3人の視界に三頭の巨大なニホンシカが、まるでスローモーションのように駆け下っているところだった。右上方の山腹から左下の谷側へ斜めに真っ逆様に。たった今通過した数10m先の山道を横切って突っ走っていった。少し小柄な一頭を間に4~500kgはありそうな奴らが、数分前だったら確実に跳ね飛ばされていたところだ。三つの躍動する白い尻が目に焼き付く。
すっかり心は晴れ上がってしまった。ナントナントここは、再び自然圏なんだ。まもなく、今度はトツプを歩いていた僕が声を上げる。次の鼻先を見渡せる道で足を止める。すぐ左手目前の山腹20mほどを、これまた優美なスローモーションで、リズミカルな跳躍を交えて三頭のニホンシカが横切って行く。雪の木立のなかを焦げ茶色の立派な角の白い尻の後ろ姿が駆け下っていった。美しかった。
春のような陽差しのなか、岳樺の白い木立、一面のクマザサの斜面。トップの僕は何かの気配と物音に立ち止まった。『今度は何カナ』と全員で覗き込む。眼下の木立に何かいる!動いた!思わず叫ぶ。ザワザワと笹藪が鳴り木立が大きく揺れ動き、黒い姿が幾つも飛び降りる。猿だ!ワイワイ騒いで(騒いだのは僕達)いると、20~30頭は見える。ワッショワッショと(猿が)、蜘蛛の子(猿)を散らすように慌てて逃げて行く。でも、全部が一目散に飛び降りるのではなく、何匹かは木陰からこちらを伺っている奴もいておかしい。
丸石沢橋(16:30)着、汚れた姿でO川の4WDに乗り込む、そして足尾温泉へ。銀山平には宿一軒と上に国民宿舎があった。閉山した足尾鉱山の坑道から出た鉱泉を引き湯して加熱している。
素晴らしい足尾の山々と自然と温泉と賑やかな仲間、それによく冷えたビール。1982年を締めくくる大晦日にこれ以上の催しはなかった。
皇海山(すかいさん)2144m
日光ノ 手前ニ未ダニ 野生動物ニ 出会エル山ニテ
『日本百名山』 深田久弥著 No,38[皇海山]のなかで 木暮理太郎、藤島敏雄が大正8年(1919)に登山記を記し この山を紹介している。
………「皇海山とは、一体どこにある山か名を聞くのも初めてであるという人がおそらく多いであろう。それもその筈である。この山などは 今更、日本アルプスでもあるまいというつむじ曲がりの連中が2000mを越えた面白そうな山はないかと蚤取り眼で地図を捜して、ここにも一つあったと漸く探し出されるほど世に聞こえない山なのである。」と書かれているが、この言葉は40年後の今日でも、まだ通用する。皇海山は、今なお静寂のなかにある。……
この『日本百名山』の初版が1965年、僕達は昨年(1982年)の11月と年末に訪れた。そして…納得した。この本を読むとその山の由来や庚申山、庚申講との関わりが伺える。位置は関東北部、日光の裏側、足尾の町の背後、奥白根山から南下する稜線上にある。近くに際だった景勝地がないことも、半世紀以上、過ぎた今でも原始性 を保って来られた理由のひとつかもしれない。
原始性 即ち、野生動物が安心して生活できるという地域。山仕事で生計をたてる必要の少なくなった現代では、さらにその傾向は強くなっていくだろう。しかし、その現代は世と人の心を変に歪曲させているから恐ろしい。安請け負いの自然復帰ブームが逆に彼ら野生動物達に値札を付けさせている。密猟である、降雪こそ少ないものの-10℃の夜中に着の身着のままライフルを抱いて焚き火の周りに寝ころび夜を明かす。マタギの子孫かと思われる屈強なおそらく地元の狩人達だ。獲物を買い取るシステムが黙認されている以上、これで生活する人達がいて不思議はない。「特別保護区」の看板の元でもとても、野生動物が安心して住める地域では無さそうだ。
■ 1982.11.21—22 O川 K藤 [庚申山~皇海山~六林班峠]
11月後半の初めて入山の朝、小雨交じりの庚申山自然歩道にて僕達は甲高いキョ~ン、キョ~ン、の声に迎えられた。この山をお正月に登ろうとの誘いをO川から受けたのは一昨年のこと。このときはボツで、結局、2年越しの計画になった。私には未知の山域だ。(栃木県民で釣師のO川は鋸~庚申山付近まで3回ほど)なので、正月の偵察行として11月末に入山した。
21日朝、丸石沢橋にO川の4WDを駐車させ、曇り空のなか出発(7:00)した。庚申山荘(10:20)、山荘背後の信者が修行した大岩壁を鎖や梯子に沿っての急登。トラバース道など凍結すると厄介だと話しながら上に出た。やっと頭上が晴れてくる。さらに15分ほどで樹林の中の庚申山山頂、少し先の展望台(11:30—12:00)に着いた。主稜上にある鋸山を経て皇海山を往復して六林班峠から庚申山荘に戻る計画だ。ポイントは庚申~鋸の状態と幕営適地の確認、六林班峠道の積雪期の予想などだった。
少々、涼しいが立食とする。目の前の皇海山はなかなか全貌を現さない。西山腹を真っ白に樹氷で染め上げうずくまっている様子はまるで 鈍牛だ。ここまではハイカーの領域だ。彼らの視線を背中に感じながら皇海山へ向かって出発する。山慣れた二人連れパーティと相前後して行く。鋸の歯先までは樹林とクマザサ帯を交互に交えた割と広い尾根だ。小平地も幾つかある。まだ昼過ぎなので鋸を越えることにする。
ブナの林立し幹の所どころ地面から50—60cm位の片側が白く樹皮が剥がれている。シカかサルの仕業か意見が対立。そのあいだにも ピー、ロロルル(と聞こえる)の声が谷から聞こえてくる。鋸の歯は大小10峰あって信仰の名残か小さなピークにも名前が付けられている。
やはり、鋸歯は昨夏の台風で荒れたままになっていた。8峰(蔵王)は南側への崩壊、9峰手前は表土が削げ落ちて岩盤が露出気味、9峰と10峰の鞍部は両側切れ落ちて鎖が下がっているが左手の谷底に振られる形になるとか、10峰尾根左側が崩壊して針金が宙ぶらりになっていて刃先をハイマツを掴んで通過するとか、修験者はさぞやキモを冷やすに違いない。なんだかんだと寒風とガスのなか鋸山頂(14:30)に着く。早々にビバーク地点を探しながら峠側に進む。翌日の行動を考えて10分ほど降りた小ピークの根元にツェルトを張った。
夜半、風の音と明らかに違う物音、すぐ近くで生き物の気配だった。翌朝、尾根を越えるケモノ道が近くにあった。
■ 1982.12.30—31 O川 K谷 K藤 E子 [六林班峠道より皇海山]
積雪は多くて足首が潜る程度、全く水が得られないことも予想して各自2Lの水を担ぎ、庚申山荘より六林班峠道に入る。庚申川と庚申尾根との間の1500m~1600mのコンターを延々と辿り1800mの峠に到達する。今も営林署の作業道であり彼らの受持区域を示す班名が峠の名前になっている。
山荘から30分ほどは犬と多分山荘の人の足跡。その先をいくトレースは彼らのものだけになった。カモシカかシカか?サルやウサギかイタチかネズミか小動物の真新しい足跡が峠道の新雪を往来している。立ち止まって一息ついたり辺りを見回したり、急に引き返したり、急に消えたと思ったら迂回して戻ったり、泥浴び場があったり、僕達は確かに彼らの自然圏に入ったのだ。雪の消えた枝尾根の鼻先を回り込む辺りはケモノ道がやたらに交差。まさにケモノ達の銀座四丁目スクランブル交差点だ。
いつ、その角で…!?『あ!、あそこ!』O川の声の先に二つの白い尻の焦げ茶色の獣が躍動して、右上の山腹から左下のブナの点在する笹原に今まさに駆け下っていった。二頭のニホンシカだ、立派な角のある奴だった。偵察山行のとき声だけで姿を見損なった僕はしっかりと頭に白い尻を焼き付けた。
やがて小径は大小10本ほどの谷を横切る。積雪の多い場合、気になっていた辺りだ。幸い雪は少ないが、幾つかが巻き道から流水への降り口付近が凍結していて緊張させられる場面もあった。峠の最後の谷の手前で大崩壊を横切るところは、たぶん昨夏の台風によるものと思われる。
もう、ワンピッチになった頃、彼らの足跡のなかに第三者の足跡が登場した。それはビブラム底(登山者)ともゴム長(小屋番)とも違う、ゴム底で丸い鋲らしきのついた大きさは22—24cmほど、割と小柄の体格の、たぶん男だ。僕達はシャーロックホームズのように想像を巡らす。この頃からシカの足跡は少なく古くなっていく。そのとき左下の谷側のブナ林からけたたましい犬の吠え声、猟犬だ!狩人だ。峠の下にはさらに四人の別の足跡が立ち止まっている。中には平靴もある。
六林班峠(13:45)は静かだ。侵入者達は峠の向こうから来たようだ。長居はよそう、一応予定地点まで歩を進めなければならない。このあたりで積雪は深くてヒザ位。先月、赤布を付けながら降りてきた主稜へ登って行く。1800m付近は尾根が広くて迷いやすい。倒木に古い黄色と赤色のプレートが打ち付けてある。P1835mの登りにかかる辺りにテントを設営(14:30)した。
樹林の間に足尾の街の灯、-8℃、月食、無風。夕方頃、5—6人の狩人が上がってきた。ライフル以外は手ぶらで犬は連れていない。先ほどの足跡の主とは違うグループのようだ。編み上げ靴に、釣用の鋲打地下足袋が二人、革ジャンパー、つなぎの上下といった程度の服装だ。その晩、彼らは我々のすぐ上で焚き火をして夜明かししたようだ。
12月31日 3:30起床、吹雪いている。食事を済ませテント撤収、デポしてサブザックで(6:30)皇海山へ出発。
鋸山(7:30)着、手前の先月のビバーク地点でアイゼン付ける。露岩がむき出しになる個所あり、無事通過。そして100m程降りるとて鞍部、ここは木立のなかで溝状に雪が詰まっていた。先月はドロンコ滑り台で一部針金あり。小ピークを過ぎると、いよいよ皇海への登りになる。鞍部には「特別自然保護地区」の黄色い看板が白々しい。先月、別パーティはここでビバークしていた。
年末の新雪の樹林を楽しみつつ軽いラッセルで登る。天候はまだ風が強いが頭上が明るくなってきた。岩記号のところまでくれば、着いたも同然で一登りで急登はなくなり樹林のなかを右手に回り込み気味にラッセルすると、ふいに傾いた巨大な剣が、皇海山山頂(2143m)に着いた(9:15--30)。鋸の歯が白黒の不気味なコントラスト。雲の動きが早い、長居は禁物だ。今日は大晦日だし足尾温泉泊まりだ。
先ほどの鞍部(10:00)で、今朝、鋸を越えてきたという二人連れに会う。やはり相当厳しかったようで、あれを戻るのかとため息をついていた。鋸山(10:40)、幕営地点(11:15)、早々に六林班峠(11:55)着。ここで、昨夜の狩人達に会う、なんとニホンシカの頭部を担いでいた…。僕達は憎しみと興味半分で得意げな連中と言葉を交わす。
僕達の心は湿りがち、素晴らしい山頂を踏んできたのに、どうも後味が悪い。再び長い長いコンターの峠道を下り始める。しばらく歩いて山の鼻にさしかかる、小さな谷を横切る。そのとき、背後に『ドドド!』同時にO川の叫び声!振り返った3人の視界に三頭の巨大なニホンシカが、まるでスローモーションのように駆け下っているところだった。右上方の山腹から左下の谷側へ斜めに真っ逆様に。たった今通過した数10m先の山道を横切って突っ走っていった。少し小柄な一頭を間に4~500kgはありそうな奴らが、数分前だったら確実に跳ね飛ばされていたところだ。三つの躍動する白い尻が目に焼き付く。
すっかり心は晴れ上がってしまった。ナントナントここは、再び自然圏なんだ。まもなく、今度はトツプを歩いていた僕が声を上げる。次の鼻先を見渡せる道で足を止める。すぐ左手目前の山腹20mほどを、これまた優美なスローモーションで、リズミカルな跳躍を交えて三頭のニホンシカが横切って行く。雪の木立のなかを焦げ茶色の立派な角の白い尻の後ろ姿が駆け下っていった。美しかった。
春のような陽差しのなか、岳樺の白い木立、一面のクマザサの斜面。トップの僕は何かの気配と物音に立ち止まった。『今度は何カナ』と全員で覗き込む。眼下の木立に何かいる!動いた!思わず叫ぶ。ザワザワと笹藪が鳴り木立が大きく揺れ動き、黒い姿が幾つも飛び降りる。猿だ!ワイワイ騒いで(騒いだのは僕達)いると、20~30頭は見える。ワッショワッショと(猿が)、蜘蛛の子(猿)を散らすように慌てて逃げて行く。でも、全部が一目散に飛び降りるのではなく、何匹かは木陰からこちらを伺っている奴もいておかしい。
丸石沢橋(16:30)着、汚れた姿でO川の4WDに乗り込む、そして足尾温泉へ。銀山平には宿一軒と上に国民宿舎があった。閉山した足尾鉱山の坑道から出た鉱泉を引き湯して加熱している。
素晴らしい足尾の山々と自然と温泉と賑やかな仲間、それによく冷えたビール。1982年を締めくくる大晦日にこれ以上の催しはなかった。