ぶちょうほうの画(え)日記(一語一画(え))

亭主「ぶちょうほう」の身の周りのいろいろな風物を「画(え)日記」ふうに綴っています。

俳人 河東 碧梧桐(かわひがし へきごとう) と お酒の「國盛」

2014-01-09 15:59:28 | 草花
知多半島の地酒を飲んでお正月を過ごしました。
写真の「國盛」(くにざかり)というブランド名は、明治維新を経て、文明開化の頃に更なる発展を願い、命名されたと聞いています。

お正月のお友達 ↓

ところでこのラベルの文字は明治から昭和に掛けて活躍した俳人河東 碧梧桐の書を元にしていると聞きます。



河東 碧梧桐の揮毫 ↓

河東 碧梧桐の書が知多半島の半田市にあるいきさつですが、彼は大正9年(1920)全国俳句行脚の折りに半田を訪れ、この酒造会社に逗留しています。
そして蔵の敷地内で句会を催し、この「國盛」の揮毫を残したものだということです。


ここで、河東 碧梧桐のことを知りたくなりました。
以下三句は彼の代表的な句ではないでしょうか。

赤い椿白い椿と落ちにけり

亡き人の向ひをるよな火燵かな

曳かれる牛が辻でずっと見回した秋空だ 


河東 碧梧桐は愛媛県松山市出身で正岡 子規の直弟子の一人です。

明治22年(1889)彼は、帰郷した正岡子規に野球を教わったことが
きっかけで、同級生の高濱清(後の高浜虚子)を誘い子規より俳句
を学び、俳句へ傾倒していきます。
以後、子規を師と仰ぎ、子規の没後に新聞「日本」俳句欄の選者を
受け継いでいます。
碧梧桐と高浜虚子の二人を、お師匠の正岡子規は:「虚子は熱き事
火の如し、碧梧桐は冷やかなる事氷の如し」と評したそうです。

碧梧桐と虚子は「子規門下の双璧」と謳われたが、守旧派として
伝統的な五七五調を擁護する虚子と激しく対立していったそうです。

碧梧桐は1905年(明治38年)頃より従来の五七五調の形にとらわれ
ない新傾向俳句に走り始め、1906年(明治39年)より1911年(明治
44年)にかけて新傾向俳句の宣伝のため二度の全国俳句行脚を行い、
独自の作風を追求しました。

また新傾向俳句から更に進んだ定型や季題にとらわれず生活感情を
自由に詠い込む自由律俳句誌『層雲』を主宰する荻原井泉水と行動
を共にしたりしましたが、やがて袂を分かつことになります。

こんなところになりますが、1920年に半田を訪れたときに詠んだ句はどういうものだったかそれが判りませんでした。
また学友にして同居したこともあり、同時に子規門下生になった親友の虚子と何故激しく対立することになったのかその理由も知りたいと思いました。
下世話なことになりますが、高浜虚子は1897年(明治30年)に、元来碧梧桐の婚約者であった大畠いと(糸子)と碧梧桐の入院中に親密になり結婚。・・・・これって二人の間の相当強烈な出来事ではなかったでしょうか。
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4 コメント

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こんにちは (多摩NTの住人)
2014-01-10 07:31:49
たいへん興味深いお話でした。
私が高校生の時、正岡子規は国語の教科書の中だけの人物でしたが、その後、「坂の上の雲」を読んで、初めてその生涯を知りました。虚子や碧梧桐の生涯についてのものも、読んでみたいですね。
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多摩NTの住人様へ (ぶちょうほう)
2014-01-10 08:22:28
多摩NTの住人様 こんにちは コメントをありがとうございます。
”子規”は「ほととぎす」という読みが一般的ですね。
鳴いて血を吐くホトトギス・・・・・・正岡子規が喀血してから自身をそのように比喩したと聞きました。

ところで今でも「ホトトギス派」は続いているのでしょうね。
五七五・季語をきっちりさせる流れは続いているようです。

小生の場合は碧梧桐や高浜虚子よりも尾崎放哉や種田山頭火・小林一茶のほうが身近に感じますが、こればかりは人それぞれの好みですね。
返信する
河東碧梧桐 (かなこ)
2014-01-10 11:51:53
ぶちょうほうさん今日は。
子規会館には河東碧梧桐も展示されていてこちらでは有名ですので 牌を確かに見行ったことがあります。

お互いがよきライバルとして切磋琢磨して世に残る句をつくったのでしょうね。
私は俳句のことは余り良く知りませんが主人から聞く程度です。

三河にも滞在したのですね。
俳句行脚は俳人にとって必要のようですね。

ホトトギスはお家元制度を確立し繁盛しているようですね。

私も不調法さんと同じ思いで 定形より変わった句に憧れます。


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かなこ様へ (ぶちょうほう)
2014-01-10 17:44:54
かなこ様 こんにちは コメントをありがとうございます。
俳句と言えば御地はご本家ですね。
子規・虚子・碧梧桐ですものね。
その上に種田山頭火の終焉の地も松山でしたね。
夏目漱石だってそちらでは良い句を作っていましたね。

そういう環境でしたからお互いに刺激しあったことでしょうね。
しかし、虚子と碧梧桐はお互いが無二の親友でもあった二人でしたが、最後はむしろ敵対関係くらいにまで行ってしまいますね。
このあたりが今では時代が違ってしまいましたが、どんなことだったのか知りたい事でもあります。


碧梧桐のことはこのお酒を見るまでは知りませんでしたが、種田山頭火は我が家のすぐそばまで来て、知人の家で一泊もしているのです。

まことに俳人にとっては吟遊と言いますか、諸国を旅することは句心を刺激・啓発される重要な出来事だったのでしょうね。

高浜虚子は経営的な才腕もあったようですね。
その分だけ、俳句には純な鋭さが足りないような気もします。

その点人生の敗残者的な尾崎放哉は鋭いですね。
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