私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

中島元行の母は強かった

2010-06-13 18:28:46 | Weblog
 中島元行の経山に攻め込んだ尼子修理の一万の軍は、たった二百そこそこの敵の城を、その地形の複雑さから攻めあぐねていました。城に攻め入る道は、険しく、その上狭く、一挙に押し入ることはできません。その上周囲の百姓などを遠くに配置して、戦うのではなく、鬨の声をあげさせたり、旗幟を遠くから打ち振らせたりして、さも沢山の兵が待ち伏せているように思わせたのです。この作戦で、元行の母も着物の上に羽織を付け、刀を横たえ。腰元達二十人ぐらいと一緒に城を守ります。此の事を聞いた中島軍は、その女性たちに対しても、この城はどうしても守らなくてはならないという気力もわき立ち生気がみなぎっていたのです。
 この経山城には、本丸と出丸の二つの城がありました。本丸に元行がおる時は、母は出丸に、出丸に元之が居る時は母が本丸というように交互して二つの城を守っていました。
 母は常に兵士は励まし、聊かの気の緩みがないように気を配っていたと言う。
 
 そんな風雨の甚だしい夜に、元行は。わずか百人の家来を率いて、尼子修理の陣へ攻め込みます。その半分を途中の道陰に隠し五十人ばかりの者で修理の陣に夜討ちを仕掛け、その陣に火を掛けます。地形的にも不案内の尼子軍は、夜だったと言う事もあって、慌てふためき三百人もの部下が殺されます。
 その夜討に遠くにいた百姓たちの群れも呼応するように、太鼓や鉦を打ち鳴らし鬨の声を張り上げさも大勢の軍が周りにいるように思わせたのです。
 何も知らない尼子軍はその戦術に驚き、戦わずして、鳥取に引き返していたのです。そして、再び、この中島元之の備中経山には攻め込むことはなかったと言います。

 

 

中島元之という人ご存知ですか

2010-06-12 16:51:24 | Weblog
 まあ、湯浅常山という人は、よくもこれだけの史実を集めたなと、思うほどたくさんのものをこの紀談にまとめ書いております。今ほど情報網も少なかった時代にです。どのような方法で集めたのかその方法が知りたいと思えるほどの豊かな情報が記されています。
 その記載方法は順序、場所などお構いなしに集めた時々のものを、羅列的に、ただ、満遍となく並べただけに過ぎません。これを、もっと系統的に、時代を考慮に入れて編集でもしているならば、彼の歴史的評価も今より違ったものとなっていたのは間違いないことだと思われます。

 その中で、吉備の国に関係した人物を取り上げてご紹介しています。
 
 浮田直家の後は、「中島元之」という人について記しています。
 
 この人は、あの高松城の水攻めの時、清水宗治と共に湖上で切腹したいと申し出たのですが、宗治から、此の水攻めの後の清水家のためにいなくてはならないからと言って切腹を許されなかった清水家の一族の者です。

 また、いずれ元之についても、このブログでご紹介したいと思っていますが。

 さて、この中島元之についても、水攻めの歴史には見えない彼と彼を取り巻く戦国末期の戦の戦術の巧みさが載っています。戦国の世の母の偉さと言いましょうか、その凄さを物語っています。

 それによると、当時、毛利氏と覇権を競っていた山陰の尼子久晴久は、その部下尼子駿河に兵一万を添えて、毛利氏の支配下に有る備中経山(総社市)に攻め込みます。この城を守っていたのが中島元之です。この時、元之はたった二百ばかりの兵で、この城を守っていたのです。
 「敵は一万也」と聞けども、元之少しも驚かず、その戦に備えます。
 この時、元之は「一万」という数字に、少しも臆せず、これが我が作戦の真骨頂だとばかりにほくそ笑んだと言います。そして、まず、元之がやったことは、部下の頓宮、鷲見という自分の武将に(この頓宮、鷲見の姓は現在も総社市一体に多く見えますが、もしかしてその末裔か?)付近の百姓二百人拝して、城の近くに有る寺屋敷という所に伏せさせておきます。更に、阿部等の武将を経山城の後ろに聳えるあの「鬼ヶ城」に隠し置きます。

 そんなこととはつゆ知らず、尼子駿河軍も少々の油断もあったのでしょう。それはそうです一万対二百ですもの。

 さて、この戦いかになりますやら。

遠藤修理という武将

2010-06-10 14:34:24 | Weblog
 兄喜三郎の火縄銃の火が消えて、備中松山の城主の三村家親を目の前にして討ち損じたと思っていた兄に対して
 「しばらくそこを動かずにいてください」
 と、いった弟の修理は、何を思ったのか、つかつかと、「どうだ。見張りは大丈夫か」声さへ掛けながら、敵軍の中へ悠然と進んでいきます。
 そして、見張りの為に燃やしていた篝火に、何食わぬ顔して、巧みに自分の羽織の裾をあてがい、火を付けます。それから、さらに、大声で「しっかりと見張りをせよ」と言いつけながら元の兄のいる場所に戻ります。
 その羽織の裾につた篝火の火で火縄の火を付け、兄の喜三郎が鉄砲を打つことが出来たのだそうです。

 誠に、絵に描いたような話が書かれています。そんなことってありえるはずはないと思うのですが。

 又、この時の話で、喜三郎の鉄砲で死んだ三村家親の陣ですが、普通なら上を下への大騒ぎをするのが当たり前ですが、この時の三星の城は誠に静かで、城主が討ち死にしたなんてことがなかったようであったと言う。
 それは、この家親の老家臣で、三村孫兵衛という人が、すぐに家親の死体を屏風で隠し、外へ、此の事が漏れないように周りの者に言い含めた為でした。その孫兵衛は、直ちに、兵を引き連れ、備中松山に引き返したからだそうです。
 家親の死が兵士に知れれば動揺が大きく、その隙に敵の浮田軍が押し寄せでもすれば、この三村軍はひとたまりもないと思ったからです。

 こんな戦国末期の戦さの様子が細々と書き綴られています。松山に帰ってきてから、兵士には、家親の死を発表したのだそうです。

 この三村軍の様子を後ろの藪に隠れて見ていた遠藤喜三郎は、三星の城が一段落した後、そこを抜け出し備前に帰ります。よほど喜三郎という武将慌て者と見えて、この退却の時もそこに自分が持って行った鉄砲を忘れて帰ります。途中で、それ気付いて、再び取りに帰ったと言う話も付け加わえられています。この辺りの話もどうも胡散臭い匂いがするようではありますが?

 この遠藤兄弟、後に浮田氏から一万石を与えられています。

浮田直家の戦い

2010-06-09 20:12:39 | Weblog
 ある時、毛利元就は、家臣備中松山の城主三村家親に命じて、浮田直家の出城、美作の三星の城を攻めさせます。それを聞いた直家は、家親の攻撃を迎え撃ち、大々的に攻防の戦をすれば、その隙に近隣の敵が、直家の居城瀧の口城を攻め込んでくることは間違いないと思います。
 「此処は策略をめぐらしてこの攻撃に備えなければいけない」
 と思い、遠藤喜三郎という新参の家を呼んで、家親を亡き者にするよう、ひそかに頼みます。この人、かって、成羽にしばらくいたことがあって、三村家親の顔をよく見知っていたのです。
 喜三郎は
 「私の知っている三村家親という人は、そんなにたやすく討たれる様な武将ではない。とても難しいと思いますが、折角の私へのお頼みです。一人でひそかにその近辺に忍び込み、とにかくやってみましょう」
 と、言って作州へ出かけます。それを聞いた弟の修理も
 「万死に一生も有るべからず。同じ枕に死なん」
 と連れだって出かけるのでした。
 作州の三星の城に二人は、夜にまぎれて、どうにか城の後ろに有った竹藪に忍び込みます。
 喜三郎、夜更けに、その竹藪を抜け出して、家親の寝所を覗いてみる見ると、柱に寄りかかって居ねむっています。しめたとばかりに喜三郎、手にした鉄砲に狙いを定めて引き金を引こうとします。よく見るとどうしたことか、火縄の灯が消えて様をなしません。
地団太を踏んで悔しがったが致し方ありません。それを見た弟の修理が外に出て、夜回りの者にまぎれて、城の篝火の燃えている所に行って、鉄砲の火種を取ってきたのだそうです。
 その鉄砲に当って家親はあっけなく死んでしまいます。城は大騒ぎをしますが、それでも、まんがいいと言いましょうか、此の二人は厳しい三村の陣をかいくぐって逃げ出すことが出来たのだそうです。

 この話には、更に、この後どうなったかという話まで付け加えられていますが、それは明日にでも。

 こんな記録を常山は、どこでどう集めたのかは分かりませんが、とにかく、書いています。
 そんなに簡単に敵の大勝が打ち取れるものかと疑問に思えるのですが、堂々と書いています、「柱に依りかかって居眠りをしていた」「鉄砲の火が消えていた」なんて、どうしても信じられません。第一、大将が見張りの番人なしで、一人で居眠りをする筈がありません。嘘っぽいこと限りありません。
 
 なお、歴史を語るには、それまでの歴史家は、その論拠の出所を明確にしながら説明するのですが、この常山、何処に書いて有ったかという事などは、全く無視して書いています。だから、大した歴史家ではないのだと言う人も多いのです。

 でも、作り話が多いのかもしれませんが、それにしてもよくこんな話を集めたものだと感心はできます。

常山紀談に書かれた歴史的人物

2010-06-06 18:30:35 | Weblog
 「常山紀談」に取り上げられた吉備の国の武将の最初は宇喜多直家についてです。

 直家の祖父和泉能家は、ある時、自分が仕えていた主君浦上氏の長臣に殺害されます。この能家の子は興家がいましたが、この子は愚鈍で、乞食にもなったりして諸国を放浪したこともあるようです。こんな興家を見て、父のかっての友人が気の毒がって、その下女と見合わせて結婚させ、3人の息子が出来ます。その一人が直家なのです。
 この直家は物静かなる賢明な子供でしたが、11歳になった時、突然に馬鹿になたのだそうです。その母は、どうして突然こんな子になったのだろうかと怪しみ、激しく悲しみました。
 人並なら殿の草履取りにでもさせればと思っていたのですが、こんな有様を、唯、悲しむだけでした。
 あまりにも母親の悲しみぶりを見た直家は、母の側近くに参り、
 「誰にも語りたまうな」
 と、次のような話をしたのだそうです。
 「おじい様が暗殺した者は島村と言う武将です。そのかたきを、是非、打ちたい。此の島村がもし自分が賢い子であると言う事を知れば、すぐ、自分を殺してしまうでしょう。だから、自分は馬鹿な真似ごとをしているのだ」
 と。
 その後、直家は祖父の仇島村を見事打ちとります。

常山紀談について

2010-06-05 11:06:39 | Weblog
 元禎の「常山紀談」は天文・永録(1540~1560年)から江戸時代の初めごろまでの、約150年間の、南は九州から、北は出羽・奥州までに及ぶ日本各地の武将たちの逸話遺聞を書き集めた史談集です。その書きぶりは、順序等は全く無視して、自分が思いつくままに、配列などにはお構いなく、無秩序に乱雑極まりない随筆的に書き著しています。
 「明君・賢佐・乱臣・奸賊の勧懲に具う」る事を念じたことには違いありません。そして、「世を観る人の尤も識るべき所」をしらしめるために書き綴ったと彼自身が述べています。
 その書き振りから後世の学者から、彼の学問に対して多少の謗りを受けることもあったようです。が、ともかくも、江戸時代の有名な一学者としての評価はそんなに低くはないようでした。

 その書物には、織田信長、毛利元就、徳川家康などの当代一流の英雄から無数の小豪傑、更には、無名の一匹夫に至るまで、雑然とではありますが、田舎の百貨店的に何もかにも、所狭しと並べられているように書き綴られています。北条早雲の後に毛利元就を、と思うと、次は大田道灌の事をと、それこそランダムに載せています。彼が取り上げた「常山紀談」の事例は521例になります。
 
 その総てを取り上げますと、2年ばかりの期間が必要ですので、取りあえず、この「常山紀談」に載っている吉備地方に関係のある人物のみを、まずは、ご紹介します。

湯浅元禎という人

2010-06-04 21:08:22 | Weblog
 湯浅元禎は、寶永5年(1628年)に、父子傑、母瑠璃子の長男として岡山に生まれています。
 この元禎、幼少の頃より学問が大変好きでした。16歳の時、江戸に出て荻生徂徠の高弟であった服部南郭に師事して古学を学びます。その後、岡山に帰り家業を継ぎますが、学研の思い留めがたく、再び江戸に出て、太宰春台らと交遊して学問の幅を広げます。
 
 彼は誠実で同情に富んだ人であったのですが、その後、直言に貶けられます。その後、世の中から遠ざかって読書三昧の生活を送り、74歳まで生きています。

 「常山紀談」は、彼が32歳の時に書きあげたもので、古今の名将勇士の逸話を中心にして書いたものです。

 その序文に
 「日本古来からの多くの武勇の誉れ高き人の記録は、時代と共に、おしいことに薄れ消えて入って、忘れ去られています。それらを集めて後世に伝えんと思い、この書物を著した」
 と、書かれています。

 「往事の棼々として滅するがごとく、亡するがごときを慨」き「遺逸の事」を得る毎に、「牘を削って之を識」して後世に伝える為にこれを書いたと記しています。

 なお、彼の日常の生活では晩年に至るまで武事を愛して、刀槍を揮って心身を鍛練していたと言われます。

 なお、また、余談ですが、この常山は、先に書いた池田綱政侯と大体同時代の人でした。綱政が生まれたのは寛永15年です。しかし、此の二人が、果たして、面識があったのかどうかはよく分かりません?知っている人があれば教えてね。

湯浅元禎の母

2010-06-03 20:36:58 | Weblog
 婦女鑑にある湯浅元禎の母ですが、名は「瑠璃子」です。
 父に従って幼き時に江戸に下り、岡山に帰ったのは8歳の時でした。鋭い観察力が幼時から身に備え付いていたと言われます。この8歳の時の江戸から岡山までの道中で出会った各地の山川の景色や宿駅の様子など目にしたことを総て、大人でさえそれほどまでにはと思えるような細部に至るまで、正確に記憶していたと言われます。

 瑠璃子が28歳の時、これは当時としては相当な晩婚でしたが、湯浅 英と結婚しています。その夫は藩の目付職について、しばしば江戸に行っていたのですが、夫の留守中、元禎等の子供を育てながら、家事をこまめに尽くして立派に家を盛りたてたのです。
 その後、夫英が病に倒れ。6年後に亡くなります。裁縫は、勿論、家事一切を切り盛りして、時には歌を詠み、箏を弾く余裕すら見せる生活だったようです。そんな生活の余裕も元禎等の子供の教育にも大きな影響を与えます。
 そして、何時も浪費をはぶき質素に心がけた生活でしたが、近所に困った人あれば十分な施しもしていました。

 元禎が外で遊んで帰ってきたとき、必ず、その遊びについて尋ねます。その結果、よい遊びなら十分に褒め、よくない遊びなら、どうしてそれがいけないのかよく言って聞かせるなどして、子供の教育に心を常に砕いていたのです。
 ある時こんな話を元禎にしたのだそうです。
 例の清少納言の香炉峯の雪の例を上げ、
 「古の女は、婦女ですらこんな知識を持っていたのです。男たるもの幼き時より学問の道に精を出すのは当然です。いいですか、読み書きなどの勉強に励まなくてはならないのですよ」
 と、教えたのだそうです。

 その自分も年老いても、貝原益軒の「岐岨路の記」を常に手元に置いて読んでいたのだそうです。

 こんな母の元に湯浅元禎は育つのです。

湯浅元禎の母

2010-06-02 11:19:27 | Weblog
 「湯浅元禎?。そんな名前聞いたこともないよ」と言われる、現代の吉備人も相当いるのではと思います。しかし、知る人ぞ知るで、藤井高尚と同様、此の岡山の地で、歴史に埋もれてしまった「隠れ有名人」になっているのです。100人の人に尋ねたならば果たして何人の人が「知っているよ」と答えてくれるでしょうか。
 此の遠い過去の人になっている湯浅元禎について、掘り起こすのではないのですが、これからしばらく、彼の書物「常山紀談」に書いてある歴史上の人物評(吉備と関係のある人を特に取り上げます)を書き綴っていきたいと思います。

 話が、又また、横道にそれますが、明治38年に、宮内庁から出版された「婦女鑑」と言う本があります。

 なお、この本ですが、「女性はこうあるべきだ」と言う事についてその範例を示した書物です。
 今、こんな本が宮内庁からでも出ようものなら、それこそ、「これは女性蔑視も甚だしい、女性の人権をどう考えているのか。女性差別の最たる本」だと、非難ごうごうと世論が盛り上がる事確かです。

 又、この本の中には、「淑慝」「攟摭」「亀鑑」「矜式」「義方」「爾余」等と、見たことも聞いたこともないような難解な漢字が並んでいます。中には、よみがなが符ってありますが、西洋のご夫人の紹介には、へんてこりんな漢字としか言いようもないような字が、いたるところに散りばめられています。
    

 ここで、気晴らしに「クイズ」でもどうぞ!!!

 この本には、「新約克」と言う、私は今まで目にした事もない字もありました。この字は何と読んだらいいでしょう。アメリカの大都会の名前です。

  まあ、そんなことはどうでもいいことですが、こんな難解な漢字の事について、久しぶりに例の珍聞漢文氏の珍節でもと思い、彼をを訪ねて、そのご高説を拝しました。

 「シュクトク」「クンセキ」「キカン」「キョウシキ」「ギホウ」「ジヨ」と読むのだそうです。
 「しとやかさとよこしまな心」「拾い集める」「模範」「尊敬して手本にする事」「家庭での教訓」「その他」と言う意味だそうです。
 それにしても、毎度のことですが、彼の博学ぶりには驚かされます。でも、この中一つだけちょっと待てよ、辞書を取り出して調べた字がありました。「攟摭クンセキ」という漢字です。
 
 なお、この漢文氏も、「新約克」は読めませんでした。念のために。

 それにしても、こんなへんてこりんなとしか言いようのない漢字を、よくも明治の人は知っていたのかなと驚かされます。

 この本の中には130人の、それこそ世界中の女性の模範になる人について、簡単な伝記風に書き綴っていますが、その中の一人に岡山が生んだ江戸時代の歴史家「湯浅元禎」の母についての記事が見されます。

 少々長くなりましたので、続きは、また、明日にでも。

再び 吉備について

2010-06-01 11:56:11 | Weblog
 ちょっと休憩していました。
 と言うのは、私が始めたこのブログも足掛け4年が過ぎました。どんなことを書いたのかと読み返して、この4年を振り返ってみました。あまりのくどくどしい稚拙さに、我ながら、いささか辟易の感がして嫌悪感すら覚えます。
 それを、今更と強調する気にもなれませんが、そんなことは、始める前から自分には分かっていました。ただ、兼好法師よろしく「よしなしごとをそこはかとなくかきつくれば」で、やたらと、だらだらと、「あやしゅうこそものぐるほしけれ」と、言う気分には至らないのですが、暇にまかせて、文章にも何もあったものではありません、とにかく、毎日、パソコンに習慣的に座って、キーボードを叩いてきただけと言った、何んとなく適当なものが適当に並んでいたということなのです。
 まあ、本当にする事がないから、理屈もへったくれもありません、ブログでもと書いて見ただけの事です。何時だったか評価をしていただいたことがありますが、取り柄も何もありません、いいのは「長いこと続けてきていることだ」と、通知表氏に、かって、褒められたので、それを今まで続けてきたことだけの事です。

 益になることではないと思います。でも、私自身があまりにも暇なものですから、これからも、しばらくは、書く材料は、まだまだ、捜せば何とかなると思いますので、また、明日からでも、再び、書き綴ずってまいります。それこそ下らない文章ですが、お読みいただけますと幸いに存じます。

 なお、当分の間、岡山が生んだ江戸の歴史家湯浅元禎の「常山紀談」について書いていきます。