私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

「遠野物語 現代の呼応」

2010-06-29 11:33:35 | Weblog
 昨日の朝日新聞に早稲田大学の鶴見教授の「遠野物語 現代の呼応」と言う記事が出ています。
 彼は、この中で
 「名もなき民衆が個人の内面に宿した感情がいくつもの層をなして積み重なっていき、そこにひとつの物語が形成されていき」、実像ではない影となって生まれてきたのではないかと問うています。更に、鶴見氏は「民譚」をその担い手となった無数の群像という形で焦点を合わせて見ると、そこには直情怪行の人柄(自分のありのままに行動すること)、温和な人柄(ちょっと控え目に一歩後ろから物事を見守ること)など様々な感情のある事などを考慮しなくてはならない」
 と、述べています。
 民譚とは、遠い昔から言い伝え語り告げられてきた民話を言います。
 幻聴や幻視た予知夢な不可思議な語りばかりです。その生まれた根源は何処であるかは、現代のわれわれには、到底理解できないことばかりのようですが、当時の人々は、そこに現実性というか真実としてそのもの自体が存在していたのです。疑う者は救われずの感覚があったのだろうと思われます。この世で、仮に見たり聞いたりしたように思ったことでも、総て、在ったことは存在すると云う疑う事を知らない純粋無垢な心を人々が持ち得たのです。人の思いが実存になった時代なのです。曖昧模糊とした事でも、誰かが、その事の、または、そのものの存在をきっぱりと否定しないかぎり、すべて存在が可能となるおおらかな時代だったのです。科学が発達した現代では、というよりか、ひかりがそこら辺りに散らばっている世界では、到底、思いも寄らないことなのですが。

 そこには精神的な強さがありました。信じることへの信頼感を持っていたのです。
 
 そんな心強い人から生まれた民譚です。すぐに消えいるような薄っぺらなものではありません。何百年に渡って言い伝えらたた伝承文学です。いや、物語です。だから100年経った現代でも、結構、他の物語と並行して、通用する読み物になっているのです。それに着目した柳田の偉大さがあるのです。単なる民譚を、日本の文学の確乎たる位置に入れ込んでしまったからです。それは明治以降、今昔物語やおとぎ草子など、それまでは、単なる子供向けの取るに足らないような低級なおとぎぞうしであったものを、日本文学としての確乎たる位置にまで押し上げたのも、すべて、此の「遠野物語」を書いた柳田国男という個人の功績ではないでしょうか