私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

遠藤修理という武将

2010-06-10 14:34:24 | Weblog
 兄喜三郎の火縄銃の火が消えて、備中松山の城主の三村家親を目の前にして討ち損じたと思っていた兄に対して
 「しばらくそこを動かずにいてください」
 と、いった弟の修理は、何を思ったのか、つかつかと、「どうだ。見張りは大丈夫か」声さへ掛けながら、敵軍の中へ悠然と進んでいきます。
 そして、見張りの為に燃やしていた篝火に、何食わぬ顔して、巧みに自分の羽織の裾をあてがい、火を付けます。それから、さらに、大声で「しっかりと見張りをせよ」と言いつけながら元の兄のいる場所に戻ります。
 その羽織の裾につた篝火の火で火縄の火を付け、兄の喜三郎が鉄砲を打つことが出来たのだそうです。

 誠に、絵に描いたような話が書かれています。そんなことってありえるはずはないと思うのですが。

 又、この時の話で、喜三郎の鉄砲で死んだ三村家親の陣ですが、普通なら上を下への大騒ぎをするのが当たり前ですが、この時の三星の城は誠に静かで、城主が討ち死にしたなんてことがなかったようであったと言う。
 それは、この家親の老家臣で、三村孫兵衛という人が、すぐに家親の死体を屏風で隠し、外へ、此の事が漏れないように周りの者に言い含めた為でした。その孫兵衛は、直ちに、兵を引き連れ、備中松山に引き返したからだそうです。
 家親の死が兵士に知れれば動揺が大きく、その隙に敵の浮田軍が押し寄せでもすれば、この三村軍はひとたまりもないと思ったからです。

 こんな戦国末期の戦さの様子が細々と書き綴られています。松山に帰ってきてから、兵士には、家親の死を発表したのだそうです。

 この三村軍の様子を後ろの藪に隠れて見ていた遠藤喜三郎は、三星の城が一段落した後、そこを抜け出し備前に帰ります。よほど喜三郎という武将慌て者と見えて、この退却の時もそこに自分が持って行った鉄砲を忘れて帰ります。途中で、それ気付いて、再び取りに帰ったと言う話も付け加わえられています。この辺りの話もどうも胡散臭い匂いがするようではありますが?

 この遠藤兄弟、後に浮田氏から一万石を与えられています。