私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

ザシキワラシ考;ザシキワラシとお地蔵様

2010-06-26 08:31:40 | Weblog
 ザシキワラシっていったい何でしょうかね。

 誠に曖昧模糊として、これっていったいなんだろうかなと思いながら読んでみました。得体の知れない、何となく、われわれの身の近くにいるようでいないような、それも、人でもない、それかと云って狸かむじなのような動物でもない、ただの「もの」としか言いようのない、東北地方の、主に岩手にしか現れなかった「もの」なのです。

 「わらし」とは、何でしょう。広辞苑による「児童衆」(東北方言)子供、わらべ、と書かれています。

 では、このけったいな「もの」としか言いようのないザシキワラシがが、どうして「わらべ」、そうです、三,四歳の子供でなくてはならないのでしょうか。若い人ではいけないのでしょうか、また、私みたいな70歳ぐらいのよぼよぼのお爺さんではいけないのでしょうか???
 考えて見るに、このような、<むかしむかしあったそうな>と、云う書き出しで語られるお話の中には、どれにも共通して言えることは、その奥底に仏教思想と深く関わっている場合が多いのです。勧善懲悪の話なら分かるのですが、悪も善も何処にもない、どうしてこんなたわいもない話が言い伝わったのか分からないような、どこにでも有りそうでいて、そうでもないような摩訶不思議な物語が残っているのです。それも根強く民衆の間にです。
 
 さて、このザシキワラシの歳は童子、そうですワラシなのです。物欲も何もない本当に無垢な汚れを知らない小さなと云っても、4.5歳以下の子供しかワラシにはなれなかったようです。その様な幼子の姿の中に、大人たちは仏を見いだしたのです。仏に限りなく近い純粋な存在として見ていたのではないでしょうか。十才の子供であっては、もはや俗念のとりこになってとうの昔に仏の姿から離れてしまった姿に変身して、ワラシにはなりえないのです。
 そんな意味で、われわれのごく身近に居らっしゃる菩薩や明王などの眷属も童子と呼ばれていますので、その姿とザシキワラシを重ねて考えたのだと思います。この菩薩様は、われわれ人間が、手を差し伸べると、何でも、信じる信じないは関係無く、悉く救ってくれる有難い仏でもあるのです。だから余計に親しみが籠っているのです。
 お地蔵様も菩薩です。東北地方にもお地蔵さまはおられると思うのですが、案外、このお地蔵さまの化身みたいなものを、「わらし」と置き換えて作り替えたのではないかと思われます。
 誠に可愛い二,三歳くらいのわらべ、子供、それがいつの間にか菩薩に代わって人の心の中に住みついたのではないでしょうか。ワラシが尋ねてきてほしい。来てくれると暮らしが楽になる。そんな人々のささやかな願いみたいなものが、いつの間にか出来上がって、それが昔語りと云う姿に変化して物語になったのだろうと思うのです。
 服は赤いものを好む等、お地蔵さまのよだれかけと似ていませんか。ザシキワラシは小豆類を好まれます。私が小さい頃、よく祖母などが近所のおばあさんなんかと一緒に、お地蔵さんの日には、小豆ご飯を炊いて、道端におわしますお地蔵さんに、(私の家の近くに有ったお地蔵さんはどうしてか分からないのですが二体対になって並んで立っておられました)おにぎりを上げましにお参りしていました。お参りが済んだ後に食べる小豆ご飯のおにぎりが魅力で祖母たちの後をついてまいったことが記憶に今でも残っています。
 これなどもザシキワラシとお地蔵さんを結び付ける証拠になるのではとも思うのですが。

 そのような幻の世界を自分の身の近くに置く事によって、厳しい自然と戦い抜くための手段として、というか、人々が生きて行く為の仏教などと云う難しい信仰ではない、自分たちのすぐ目の前に有るに誰でもが気軽に頼れることができる「もの」として、いいかえると、過酷な生活を耐え抜く為に作りだされた、素朴な自然的宗教の一つではないかとも思われます。
 また、しばしば、ワラシがその家をさると、如何に裕福な長者であっても、たちまちに不幸のどん底に突き落とされるになるのですが、長者がいつまでも永遠ではない、「禍福は糾へる縄の如し」の諺通りで、油断はいけないよと云う格言みたいなものにも利用されたのではないかと思えます。

 ザシキワラシ、現在では漫画などで妖怪の一部として取り上げられ「怖いもの」「恐ろしいもの」というイメージを子供たちに植え付けているようですが、「それでも構わない。表現の自由だ」と、云えばそれまでですが、昔語りとしてのザシキワラシのイメージを、一人の漫画家の勝手な創作で、今までに長年に渡って言い伝えられているイメージをまったく壊してしまうような近代的な創り話を作っていくことに、私は大いに憤慨しているのですが。 そんな全く新しい独自な、それでいて今までのイメージとは全く異なった思いを子供たちに強烈に植え付けるのは、とんでもない、誠に憐れな神をも恐れぬ不遜の輩のように思えるのですが。どうでしょうかね 。
 「それがなんだ。それこそが新しい芸術だ。文化だ」と、うそぶきそうな漫画家に対して
柳田国男がこの漫画を読むと何といわれるかなと思ったりもしている梅雨最中です。私の心がすっきりと晴れ切らない、今日も降らず降らずみの一日でした。