まあ、湯浅常山という人は、よくもこれだけの史実を集めたなと、思うほどたくさんのものをこの紀談にまとめ書いております。今ほど情報網も少なかった時代にです。どのような方法で集めたのかその方法が知りたいと思えるほどの豊かな情報が記されています。
その記載方法は順序、場所などお構いなしに集めた時々のものを、羅列的に、ただ、満遍となく並べただけに過ぎません。これを、もっと系統的に、時代を考慮に入れて編集でもしているならば、彼の歴史的評価も今より違ったものとなっていたのは間違いないことだと思われます。
その中で、吉備の国に関係した人物を取り上げてご紹介しています。
浮田直家の後は、「中島元之」という人について記しています。
この人は、あの高松城の水攻めの時、清水宗治と共に湖上で切腹したいと申し出たのですが、宗治から、此の水攻めの後の清水家のためにいなくてはならないからと言って切腹を許されなかった清水家の一族の者です。
また、いずれ元之についても、このブログでご紹介したいと思っていますが。
さて、この中島元之についても、水攻めの歴史には見えない彼と彼を取り巻く戦国末期の戦の戦術の巧みさが載っています。戦国の世の母の偉さと言いましょうか、その凄さを物語っています。
それによると、当時、毛利氏と覇権を競っていた山陰の尼子久晴久は、その部下尼子駿河に兵一万を添えて、毛利氏の支配下に有る備中経山(総社市)に攻め込みます。この城を守っていたのが中島元之です。この時、元之はたった二百ばかりの兵で、この城を守っていたのです。
「敵は一万也」と聞けども、元之少しも驚かず、その戦に備えます。
この時、元之は「一万」という数字に、少しも臆せず、これが我が作戦の真骨頂だとばかりにほくそ笑んだと言います。そして、まず、元之がやったことは、部下の頓宮、鷲見という自分の武将に(この頓宮、鷲見の姓は現在も総社市一体に多く見えますが、もしかしてその末裔か?)付近の百姓二百人拝して、城の近くに有る寺屋敷という所に伏せさせておきます。更に、阿部等の武将を経山城の後ろに聳えるあの「鬼ヶ城」に隠し置きます。
そんなこととはつゆ知らず、尼子駿河軍も少々の油断もあったのでしょう。それはそうです一万対二百ですもの。
さて、この戦いかになりますやら。
その記載方法は順序、場所などお構いなしに集めた時々のものを、羅列的に、ただ、満遍となく並べただけに過ぎません。これを、もっと系統的に、時代を考慮に入れて編集でもしているならば、彼の歴史的評価も今より違ったものとなっていたのは間違いないことだと思われます。
その中で、吉備の国に関係した人物を取り上げてご紹介しています。
浮田直家の後は、「中島元之」という人について記しています。
この人は、あの高松城の水攻めの時、清水宗治と共に湖上で切腹したいと申し出たのですが、宗治から、此の水攻めの後の清水家のためにいなくてはならないからと言って切腹を許されなかった清水家の一族の者です。
また、いずれ元之についても、このブログでご紹介したいと思っていますが。
さて、この中島元之についても、水攻めの歴史には見えない彼と彼を取り巻く戦国末期の戦の戦術の巧みさが載っています。戦国の世の母の偉さと言いましょうか、その凄さを物語っています。
それによると、当時、毛利氏と覇権を競っていた山陰の尼子久晴久は、その部下尼子駿河に兵一万を添えて、毛利氏の支配下に有る備中経山(総社市)に攻め込みます。この城を守っていたのが中島元之です。この時、元之はたった二百ばかりの兵で、この城を守っていたのです。
「敵は一万也」と聞けども、元之少しも驚かず、その戦に備えます。
この時、元之は「一万」という数字に、少しも臆せず、これが我が作戦の真骨頂だとばかりにほくそ笑んだと言います。そして、まず、元之がやったことは、部下の頓宮、鷲見という自分の武将に(この頓宮、鷲見の姓は現在も総社市一体に多く見えますが、もしかしてその末裔か?)付近の百姓二百人拝して、城の近くに有る寺屋敷という所に伏せさせておきます。更に、阿部等の武将を経山城の後ろに聳えるあの「鬼ヶ城」に隠し置きます。
そんなこととはつゆ知らず、尼子駿河軍も少々の油断もあったのでしょう。それはそうです一万対二百ですもの。
さて、この戦いかになりますやら。
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