私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

こんな本が手に入りました

2007-07-12 20:56:31 | Weblog
 「犬の歩けば棒に当る」ためし、近頃「徒然草」の文政時代に発行された古書を手に入れました。今、その本を現代訳の本(新潮日本古典集成)と比べながら読んでいます。毎日の楽しみの一つです。
 さて、今日は、166段のあたりを何気なく開いて目を通していました。これは一寸兼好らしい、やや皮肉っぽい感想を書いてありましたのでご紹介します。

 「人が会うとき、言葉が必ずあり、その言葉のなんて無益な事。そんなものを聞くのはなんて無駄な事か、得する事なし」と。

 さて、明日の虎さんの演説会には行くべきか否か?
 
     誰か教えてほしい!!

川嶋県

2007-07-12 10:37:30 | Weblog
 若日子建吉備津彦命の孫の当る「吉備武彦命」が、「日本武尊」とともに、蝦夷を征伐したと言う事は、お話しました。
 この「吉備武彦」の子に二人の媛がありました。一人は、日本武尊の妃に、もう一人が応神天皇に寵愛された兄媛です。大変美女のようでした?
 この事が書かれている書紀を見て生かすと、筋書きは、誠に整然と整っているようではありますが、どうも時代的に見て、大分、時間に食い違いがあります。
 
 吉備武彦が日本武尊の副将となったのは、十二代景行天皇の時です。その娘である兄媛は采女となり、寵愛された天皇は、第十六代応神天皇です。十三代成務から仲哀・神功まで、天皇の在位だけを見ても138年も時代が移っているのです。
 まあ、そんなことは兎も角として。都にいた「兄媛」は、父母が恋しいと故里の『葉田の葦守宮』へお帰りになられます。
 すると今度は、この「兄媛」恋しと、応神天皇も、また葉田までやってきます。この時の応神の、如何に、そこに並み居る皇后や妃達に言訳して騙し騙ししてやって来たか、そのの心の動きはっきりと分るような記述になっています。
 まあそうやってきた、この応神天皇を、一族挙げて大いに饗応したのが、御友別命など吉備武彦のお子たちや兄弟です。
 その饗応に感激した天皇が、この人達に恩賞として、吉備の国を賜ります。
 御友別の長男、稲速別(いなはやわけ)に授かったのが、川嶋県です。今日真備町一帯です。川嶋河というのは、高梁川と小田川のどちらかであったろうと思われますが。
 私は、いまの川辺橋を挟んだ所あたりで、そこら辺りに小田川が合流して深い派(かわまた)になっていて、その淵に虬(みつち)がいたのではないかと想像しています。ここは、後の山陽道の交通の要です。旅人も多くいたのではと想像できます。
 
 なお、私の祖父の頃(明治の中ごろですが)、この橋の15kmほど上流の高梁川の淵で(総社市下倉渡し付近の淵)、獺(かわうそ)が泳いでいるのをよく見かけていたと言っていたのを思い出し、もしかして、虬は獺のようなものではなかったのかとも思いました。

 笠臣については、亦明日にします。