私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

川嶋県

2007-07-12 10:37:30 | Weblog
 若日子建吉備津彦命の孫の当る「吉備武彦命」が、「日本武尊」とともに、蝦夷を征伐したと言う事は、お話しました。
 この「吉備武彦」の子に二人の媛がありました。一人は、日本武尊の妃に、もう一人が応神天皇に寵愛された兄媛です。大変美女のようでした?
 この事が書かれている書紀を見て生かすと、筋書きは、誠に整然と整っているようではありますが、どうも時代的に見て、大分、時間に食い違いがあります。
 
 吉備武彦が日本武尊の副将となったのは、十二代景行天皇の時です。その娘である兄媛は采女となり、寵愛された天皇は、第十六代応神天皇です。十三代成務から仲哀・神功まで、天皇の在位だけを見ても138年も時代が移っているのです。
 まあ、そんなことは兎も角として。都にいた「兄媛」は、父母が恋しいと故里の『葉田の葦守宮』へお帰りになられます。
 すると今度は、この「兄媛」恋しと、応神天皇も、また葉田までやってきます。この時の応神の、如何に、そこに並み居る皇后や妃達に言訳して騙し騙ししてやって来たか、そのの心の動きはっきりと分るような記述になっています。
 まあそうやってきた、この応神天皇を、一族挙げて大いに饗応したのが、御友別命など吉備武彦のお子たちや兄弟です。
 その饗応に感激した天皇が、この人達に恩賞として、吉備の国を賜ります。
 御友別の長男、稲速別(いなはやわけ)に授かったのが、川嶋県です。今日真備町一帯です。川嶋河というのは、高梁川と小田川のどちらかであったろうと思われますが。
 私は、いまの川辺橋を挟んだ所あたりで、そこら辺りに小田川が合流して深い派(かわまた)になっていて、その淵に虬(みつち)がいたのではないかと想像しています。ここは、後の山陽道の交通の要です。旅人も多くいたのではと想像できます。
 
 なお、私の祖父の頃(明治の中ごろですが)、この橋の15kmほど上流の高梁川の淵で(総社市下倉渡し付近の淵)、獺(かわうそ)が泳いでいるのをよく見かけていたと言っていたのを思い出し、もしかして、虬は獺のようなものではなかったのかとも思いました。

 笠臣については、亦明日にします。

「川嶋」という言葉

2007-07-11 12:23:56 | Weblog
 「吉備」と言う文字が、わが国の歴史書に最初に出てくるの「古事記」と「日本書紀」です。
 我高尚先生は、
 「おのれがつかへまつる神は、比古伊佐勢理毘古ノ命(ひこいさせりひこのみこと)と申ぞ正しき御名なりける。古事記に、亦の御名を大吉備津彦ノ命・・・」
 と、書いて、日本書紀にも、今の人達にも、「大」を省いて「吉備津彦ノ命」と呼んでいるのは{あじきなき事なりしか}と、わざわざ『しか』とうい言葉を付け加え、残念がっておられます。

 私事(ひとりごと);
 あじきなしとは、道理にはずれ正常ではない、けしからんことで情けないことだと言うような意味ですが、高尚先生の憤りが見えるようで面白いと思います。
 なお、少々古臭いお話しになって恐縮ですが、日本の正史に現れた「吉備」について説明します。
 『古事記』によりますと、第七代孝霊天皇の皇子、比古伊佐勢理毘古ノ命と腹違いの弟、若日子建吉備津日子命の二人を吉備の国に派遣して『言向け和したまいき』(話し合いによって平和裏に服従させた)と書かれています。
 その後、大吉備津彦命はこの地に留まってこの地を支配され、吉備津神社の神になり、人々から敬われました。お墓も吉備の中山の頂上にあります。現在、御陵となって、宮内庁の管理下におかれています。
 大吉備津彦命の子孫は、多分お子様がお一人であったようです(三井根子命)。その人が、静岡のあたりの国造(くにのみやつこ)となっていかれて、この地の豪族にはなられなかったようです。
 それに対して、弟君の若日子建吉備津日子命の一族が、この吉備地方を直接支配するようになったのです。
 この尊の娘、「播磨稲日大郎媛」は景行天皇の皇后になり、あの日本武尊をお生みになられます。その大郎媛の弟の子「吉備武彦命」が、後に日本武尊の蝦夷征伐の時の副官になって、一緒に遠征し大活躍し、尊の薨後、戦死なさった後、景行天皇に、この戦いの復命をしておられます。
 ここら当りのことは「日本書紀」に詳しく書かれています。
 この吉備武彦の娘「吉備穴戸武媛」は、日本武尊の妃になっています。その妹にあの兄媛(えひめ)がいます。采女となって応神天皇の後宮に入りに寵愛されています。

 川嶋河とか笠臣はこのあたりから『日本書紀』に登場してきますが、余りにもお話が込み入ってきましたので、今日はここらあたりにして、続きは明日に!

吉備国が、くち中しりと分かれた頃  

2007-07-10 16:05:00 | Weblog
 わが高尚先生は、吉備の国が前・中・後の3つに分かれたのは、何時頃の事だろうと言うことについて書かれています。色々と説はあるが、持統天皇(百人一首の、“春過ぎて夏きにけらし・・・の作者)の御代に分かれたらしいとされています。その後、更に、元明天皇の和銅年間に備前の国のうち6郡を美作国としたそうです。

 私事(ひとりごと);
 この高尚先生の説明の中に、日本書紀に書かれていると言う『虬』(みつち)の話しが出てきます。
 紀には、仁徳天皇の67年の条に、
 吉備中国(きびのみちのなかのくに)の川嶋河の派(かわまた)に、大虬がいて、大層周りの人々を苦しめておったと言う事です。また、旅人が知らずその河の近くを通るとその息の毒を浴びて、多く死んだそうです。そこで、この国を治めていた、けたたましく勇気ある笠臣の祖である県守(県知事のような人)が、その派の淵に行って、3つの瓢箪(瓠)を水に投げ入れて言ったそうです。
 「お前は多くの人達を苦しめており悪い奴じゃ。今投げ入れた3つの瓠を沈めたらお前を助けてやる。もし沈める事が出来なかったら殺す」
 と、すると、この虬、鹿に化けて、瓠を沈めようと試みるも、沈める事が出来ない。そこで、県守は剣を抜き、水の中に入って虬を切り殺しています。その一族も淵の穴(岫穴)に逃げ込んだが、総て切り殺します。そのために、この川嶋河の水が血色に変わったという事です。
 
 河の色が変わったという事で、そのあたりは「川変」と呼ばれていたのだ、更に、それが、「川辺」になったと、言い伝えられています。
 なお、河童が瓢箪を恐れるのは、この虬は河童の仲間であるからとも、まことしやかに言い伝えられています。どうでしょう。
 川辺付近にお住まいの人、こんなお話し聞いた事ありますか?

 なお、「笠臣」・「川嶋河」については、又明日、今日はこれにて。

明け六つの太鼓の音

2007-07-09 17:21:20 | Weblog
 吉備津神社では、朝六時になりますと、大太鼓のドンドンという音が吉備の中山に響いて、吉備津中に「時」を知らせています。明け六つの時を知らせているのです。 最初は間隔を長く段々と短くしていきます。
 この時を知らせる鐘鼓について、我、高尚先生は、次のように言っておられます。
 時を告げるのに鼓を打ったり、また、鐘を撞いたりして知らせていたようです。いにしへは、時は鼓で、刻は鐘で知らせていたそうで、この二つには使い方に違いがあったようですが、いつの間にかどちらでもよいということになったそうです。 平安時代の貞観式によると、時を知らせるのは鼓で知らせ、剋(刻でなくこの字を当てている)は鐘で示すとされていたようです。いつの間にか剋を示すことがなくなり、時を知らせるのが鐘になったということです。本来は時を知らせるのは、現在、吉備津神社で行っている太鼓で知らせるのが正しいやり方なのだそうです。

 私事(ひとりごと);
 夏の早朝に、太鼓の音が、吉備の中山に反射しながら、鶯の鳴き声に交じって、早苗田の上を流れています。とても爽やかな清々しさが感じられ、生きている実感を覚え、清らかな寝覚めを誘ってくれます。

     明け六つの 鼓の音も 流れおり
                 吉備の中山 夏真っ盛り
 

塩と梅干

2007-07-08 09:46:48 | Weblog
 昨日、母の朝食について書きましたが、少々のお塩を入れたお粥の上に真っ赤に染まった梅干を載せて頂いています。赤と白の色合いも美しく
 「何時も、いい塩梅に煮えている、最高に美味しいよ」
 と、ご機嫌です。この塩と梅が、舌と目と心を楽しませ、彼女の元気の秘訣であるのかもしれません。

 さて、この塩梅と言う言葉について、わが高尚先生は「松の落葉」で、
 『昔はものを煮るのに、塩と梅との汁をいれ、又煮たるものにそそぎもして味をそふることにて、そのしるの加減のよしあしを、塩梅よしともあしともいへるなん」
 と、お書きになっています。醤油と言うものが発明されるまで使われていたようです。


 私事(ひとりごと);
 私は今年も梅干をつけました。地元で取れた梅(15kg)を使って12%の減塩漬けに挑戦しました。今、塩漬けした梅の上に紫蘇の葉を置いて(ただし、下から順に)、3日3晩の土用干しの時節が来るのを待っています。いい色に染まっているようです。
 塩漬けにした梅の内、やや小ぶりのは、洗ってそのまま醤油の中に入れて10日ほど置いて、今、食事ごとにいただいています。カリカリとして醤油味が滲みこんでとても美味しいです。これは私だけで、みんなは固いと言って口にもしませんが。
 なお、醤油が現在のように一般家庭で広く使われだしたのは、江戸に入ってからの頃からではと、思われます。

私の母は89歳です。

2007-07-07 17:15:26 | Weblog
 89歳の母親は至って元気です。胃の具合が少々悪いので、もう30年近くにもなるのですが、毎朝、粥・梅干・味噌汁・納豆・漬物を欠かしたことがありません。粥用の土鍋を東京かどこかで仕入れてきて、「これでお米から炊くお粥が最高だ」と、毎朝、のたまわれながら美味しく頂いています。それが元気の秘訣でもあるのかもしれません。もう10年も続いてほしいものだと、思っています。

 なお、松の落葉によりますと、粥とは、大昔は今の飯(電気炊飯器等でで炊く御飯で)で、昔の御飯は甑で蒸したこはいひ(おこわめし)の事だったようです。
 だから、「粥にお箸を立てる」とか、「粥を器に高盛にする」と言った事が書かれている本が見えるのだそうです。 

いっぱいの七夕飾りでした

2007-07-07 16:10:20 | Weblog
 昨日、吉備津様の七夕祭りについて書いたものですから気になって、今日お参り方々見てきました。若きも老いも、一杯のお人がそれぞれの願いを書いて用意されている笹に五色の短冊を吊るしておりました。吉備津様、今日も大変な盛況のようでした。
 さて、話しが変りますが、どうして5色なのでしょう。どうも、中国の昔の思想で宇宙の万有を創っているものを木火土金水の5っの元素としたのだそうです。(五行説)
 これと関連付けて青赤黄白黒の5色が考え出されたと言う事です。なおちゅうごくでは総ての者を次のように5つに分けています
 
 写真にあるように短冊の色は白・黒はなかったようでしたがまあきれいな彩が見えました。黄緑、ピンク、ブルーもありましたが、まあよしとしましょう。

五行 木 火 土 金 水
五色 青 紅 黄 白 黒
五方 東 南 中 西 北
五時 春 夏 土用 秋 冬
五節句 人日 上巳 端午 七夕 重陽
五星 歳星(木星) 螢惑(火星) 填星(土星) 太白(金星) 辰星(水星)
五音 角 徴 宮 商 羽
五声 呼 言 歌 哭 呻
五臓 肝 心 脾 肺 腎
五情 喜 楽 怨 怒 哀 など

明日は七夕様です。

2007-07-06 15:22:14 | Weblog
 明日は星祭の日です。我、吉備津様でも、何時頃からかはわからないのですが、拝殿の前に、笹を立てかけて、お参りした人達が、短冊に願い事を書いて吊るすような仕掛けがしてあります。子供だけかと思うと、結構大人の人も願いを書いて吊り下げています。

 この「星を祭る事」について、高尚先生の時代には、吉備津神社では、今みたいに七夕祭りをやってはいなかったのではと思われます。
 それは、「松の落葉」に、次のように述べられているからです。
  
 「ほしをまつることは、わがみかどのいにしへにさらになきことにて、よその国のわざなれば、仏をきらひたまへる同じたぐひに、伊勢にいます大御神(おおみかみ)これをいたく(大層)きらひたまうこそ。」
 天照大神は、このよその国の神を祭るのを大層嫌がったと言われております。だから、神の宮人だけでなく、一般の人も出来れば星祭はしないほうがいいとおっしゃっています。
 
 私事(ひとりごと)
 七夕祭は、わが国では、奈良時代孝謙天皇の時(755)、なお、余談なのですが、唐ではあの玄宗皇帝の時(751)、乞巧奠が始まっています。ちなみに、このとき童・少女が五色の紙を色紙に切って歌を書いて笹に結んで高く掲げて、七夕に手向けたとあります。
 奈良時代以降、宮中でも七夕祭りが行われたと記録にありますが、毎年行われるようになったのはどうも鎌倉以降ではないかと思われます。
 だから、吉備津神社でも、この七夕祭りの行事に参加しても、別にかまないわけですが、高霊天皇の皇子である大吉備津彦命をお祭りしてあるお宮さんなので、遠慮したらどうかとも思います。なお、高尚先生は吉備津様のことはなんとも申されておりません。念のために。

開いた口が塞がらない

2007-07-04 19:48:16 | Weblog
久間防衛相が辞任 原爆発言で引責、首相了承(産経新聞) - goo ニュース

 国会議員、国務大臣として、何たる様なのでしょう。この人近頃少々自分を見失っているのと違うのでしょうか。自分が相当の傑物者であると思いあがっていたのではないでしょうか。
「しょうがない」とは、あれって、彼、本当に日本人かな?と一瞬思いました。まさか長崎の人だなんて思いも寄りませんでした。
 近頃、国会議員って、少々変んではないでしょうか。自分のことしか眼中にないような振る舞いが目立ちます。この際、国民皆で大いに怒ろうではありませんか。
 国民はみんなしてこんな国務大臣を任命した安部内閣を、更に、本人が止めれば、それで、この問題はもうきれいに解決したなどと嘯くような人達の集団「自民党」をも糾弾する必要があるのではないかと思います。
 はっと、目が覚めるようなお灸が、今、日本の政治には必要ではないでしょうか。
 お灸をすへなければ自分自身の至らなさに気が付かないような日本の政治で本当は困るのですが、これもみな選挙民たる我々国民が悪いのでしょうか?

吉備津様の天井について

2007-07-04 14:21:32 | Weblog
 高尚先生によりますと、天井とは、承塵(しょうじん)であるとされています。
 承陣とは、屋根裏から塵などが落ちるのを防ぐために板や布を張って井桁に組んで棟木から吊り下げていたのだそうです。それで天にある井ということで、天井と呼ばれるようになったということです。
 聖武天皇の頃にはまだ日本の家々には、天井はなかったようです.奈良時代に入ってから、次第に普及して言ったといわれます。
 ところがです、我が吉備津神社の拝殿は天井がありません。屋根裏の化粧垂木が整然と並んで豪放磊落な神社らしからぬ造りを見せています。屋根を支える柱や大虹梁もがっしり位置して、重々しさを醸し出して、力強い鎌倉時代の「大仏様」という建物の特色を美しく見せています。天井が無い効果が伺われます。
 なお、本殿(神殿)の一部は格子天井や船底天井がはめ込まれています。外陣だけは化粧垂木を使った拝殿同様の天井ははめ込められてはおりません。
 神社建築というより、「寝殿造り」「書院造り」といったものを頭に描き出させる不思議な建物です。一般にお参りする人々はそこまで気がつかずに、一般のお宮さんに参ったという感じでお参りしています。
 

吉備津神社の御使わしめは?

2007-07-03 16:19:14 | Weblog
 神の使者を「使わしめ」と言うのだそうです。
 春日大社の鹿、八幡様の鳩、日吉神社の猿、熊野神社の烏、弁天様の蛇、更に調べてみますと、なんとあの「むかで」も毘沙門様の使かわめと、言うではありませんか。(以上辞書から)

 この神の御使いは、神のおっしゃることを承って、それを人々に伝える役目をするのだそうです。始はそんなお使いなどいなかったようですが、ひとつふたつ神垣の辺りにいたのを、神の使いだと思って、人々が恐れて親切に扱ったので、その仲間が次第に多く集まってきて、何時しか「神の御使わしめ」として大切にしたのが起源だったようです。
 これが高尚先生のお説です。

 私事(ひとりごと);
 吉備津様には、この御使わしめの特別な動物がいたという話は聞いた事はありません。吉備の中山に獣がいないと言うお話を前にしましたが、それと関係があるのかもよくわかりません。高尚先生も何もお書きになってはいません。
 さる、きじ、いぬの桃太郎の家来がちゃんとお宮さんの中にいらっしゃるので、吉備津神社には「御使わしめ」がいないのかもしれません。
 それにしても。毘沙門様のむかでというのは面白いですね。
 誰か、この神社の「御使わしめ」に、こんな動物がいるよということを知っておいでのお方は、教えてください。

「於々」と言う言葉

2007-07-02 22:34:44 | Weblog
 30日の大祓式の時に、斎主が祭壇に向かって「おヽおヽ」と、細く長く声を上げていました。
 これってなんだか知っています。
 このことについて、我「松の落葉」で、高尚先生は次のように説明しています。

 お宮を新しく造ったり、ご神体を他へ移したり、御饌(みけ)を奉ったりするとき、「於々」と声を高くたてながら言うことがある。昔からの慣わしである。これは高貴な人の前で言う特別な高級な返答のための言葉であったのです。
 それが時代が進むにつれ、大御殿で、高貴なお人があちこちに渡らせ参る時に、そこらあたりにいる人に、「今ご主人様がお通りです。音を立てないように静粛に、そこにかしこみ、おなおりなさい」と言う事を知らせるための言葉になって言ったようです。そのためにはこの場合は、声高に言う必要があるのです。
 枕草子の中にも、書かれています。(但し、おしおしと書かれています)
 また、神の御前に、御饌奉るときの「於々」は、そこら辺りにいる人に、物音を立てないように静かにしなさいと言う合図を送り、かしこまっておるようにと注意を促すためのものです。
 一般に神事に事する時は、ここは神様の御前であるよ。心謹んで敬うように注意を払うために言う言葉です。細く、しかも且つ高く言う必要があるのだそうです。
 
 30日の吉備津神社の「於々」は、決して高くは声を発してなかったように思えました。声を高く発しないのはなぜですかと、一度尋ねてみたいものです。

四方山、どんな山?

2007-07-01 16:07:18 | Weblog
 また「松の落葉」に戻ります。
 四方山について書かれています。山ではないのです。「よもやまばなし」などと使われています。漢字で書くと、この字をあてるのです。ひろくここかし、世間どこにでもあるといういみなのだそうです。
 一般に言われているように、四方とは、あまた、たくさんという意味で、「やま」とは、八方(やも)から変じたとするのには賛成できないと言われています。なぜなら、八方と言う言葉は昔から使われている例はごく少なかったとされています。
 「よもやま」という言葉が、平安時代(栄花物語)から使われているとされています。

 私事(ひとりごと);
 現代の辞書(広辞苑、国語大辞典等)には、ほとんど、四方八方(よもやも)から変化したのげは?と書かれています