今日ご紹介する吉備の美女は、ただ名前しか書紀には出ていませんが、私の推量ですが,きっと、絶世の美女に間違いなかったのではと思います。
その人の名前は、『吉備穴戸武媛』です。最初に紹介した兄媛のお姉さんです。昨日の播磨稲目大郎媛は伯母さんです。
この穴戸武媛は日本武尊の妃になっています。結婚したのは、尊が熊襲を征伐した後、大和へお帰りになる途中で、現在の福山・鞆の辺りに巣くっていた穴済(あなわたり)の賊を退治された後ではないかと、藤井駿先生はお書きになっています。
きっと、母の里、吉備にお立ち寄りになた時に見初めらて、その場で、美女と美男子のご結婚があったのではと思いますが、そこら当りの事を含めて、その後の二人について、歴史は、何も語ってくれてはいません。
その後、穴戸武媛の父君の吉備武彦が、日本武尊の副将に任命され、蝦夷征伐に行かれます。
その人の名前は、『吉備穴戸武媛』です。最初に紹介した兄媛のお姉さんです。昨日の播磨稲目大郎媛は伯母さんです。
この穴戸武媛は日本武尊の妃になっています。結婚したのは、尊が熊襲を征伐した後、大和へお帰りになる途中で、現在の福山・鞆の辺りに巣くっていた穴済(あなわたり)の賊を退治された後ではないかと、藤井駿先生はお書きになっています。
きっと、母の里、吉備にお立ち寄りになた時に見初めらて、その場で、美女と美男子のご結婚があったのではと思いますが、そこら当りの事を含めて、その後の二人について、歴史は、何も語ってくれてはいません。
その後、穴戸武媛の父君の吉備武彦が、日本武尊の副将に任命され、蝦夷征伐に行かれます。