入梅して間もない頃でした。今にも振り出しそうな梅雨空が大きく吉備の中山に懸かっています。
私は、吉備津神社の参道付け替えに伴い、国道180号線沿いの大きな松の木が数本切り倒されると言う事を聞き、散歩がてらに、最後の松の勇姿をカメラに収めようと思い出かけていきました。
それらの松の木は、大きく空に向かって己の枝を、誇示するように、一杯に伸ばしています。昆虫や車の排気ガスと必死に戦いながら、これまでに育った松の大木が、人間の勝手さのため切り倒されなくてはならない、植物自身の、此の世に存在する生の姿に哀れさをも感じながら、石灯篭をバックにしながらシャッターを切っていました。
「この木は切るのだ」と、目印に付かられた、薄汚く色褪せた赤いビニールテープのわずかな端切れが、中山颪の山風にひらひらと揺れています。文明と伝統の間にあって、儚く消え去ろうとしている数本の松の木に、余計に去りがたい神聖さを感じながらシャッターを遠慮がちに切らせてもらいました。
しばらく、それら数本の松を、その場に佇みながら眺めておりました。
「はしにならん」「はしにならん」という、怒るのでもなく悲しむのでもなく、自分自身に語りかけるのでもなく独り言のような、年老いたご婦人の声が私の耳に飛び込んできました。
「入れ歯でも落とされたのですか」と尋ねてみました。
誠に品のよさそうなその老婦人は、はっとしたのか、
「いやいや、ありがとうございます。聞こえましたか。つい周りのことにまで気をつけもしないで変なことを言ったようでしたね、驚きになられたでしょう。・・・・・・・。
いやねー、入れ歯はちゃんとありますよ」
お笑いになりながら、「どうにも腹がたって仕方がないので今、吉備津神社におまいりしているのです」
と、その老婦人は、初対面の私に、切り倒されるだろう松の木の下で、次のようなお話を、ゆっくりと聞かせてくださいました。
そのお話によると、自分の兄弟が死んで3周忌になるので、その法要について、甥の家に訪ねて行ったということです。すると、甥夫婦は、その老婦人に対して、今回は、わたしだけで、家族だけで簡単に法要をするから、皆さんは誰もお呼びしてはないと説明がありました。あまりにもびっくりしたものですから、
「家族だけで法事をするなんて聞いた事がない。このあたりの家では何処もそんなことはしていない。第一仏が喜ぶとでも思っているのですか。そんなことをするとこの家の恥になる。よくない事なのだ。家族だけでの法事は止めなさい」
と、死者に対する法要の意味やこの辺り一般の世間の常識を、懇々と言い聞かせたそうです。
「これは私の家で、私達夫婦で決めたことなのです。他の人がとやかく嘴を差し挟むことではありません。もう決めたことなのです。こんな独りよがりの自分勝手な分らない事を言う人は、お父さん追い出して頂戴」
甥のお嫁さんが声を高めて言うのだそうです。
「追い出せとは、まあなんてことを、私が自分が生まれ育った家から追い出されるなんて。開いた口も塞がりません。話にも何もあったものではありません。話しになりません」
私は、その老婦人の目をじっと見ていたのですが、涙もありませんでした。悲しみを通り越して、ご自分の生を静かに見つめられていられるようでした。
「この吉備津には鬼はいないと信じていたのですがねー。去来さんが“鬼とりひしぐ吉備の山”と詠んでおられるように、ここには、鬼はいないと思っていたのですが、これって鬼の世界の話ではないでしょうか。それも女の。鬼は本当にいるのでしょうかね。話しにならん話でしょう。・・・・・・・・知らないあなたに愚痴を長々と聞いてもらってごめんなさい。・・・・・少しは気が治まったようです。ありがとう」
あまり丈夫そうでない足を引きずるように、お宮さんに向かって歩んで行かれました。でも、やっぱりその後姿には、今までに、ついぞ体験したことのない人生の哀感みたいなものが私には漂っているように感じられました。
倒される松の木と、次第に遠くなっていかれるやや前かがみにお歩きになるその老婦人のお姿を見比べながら、私は、何かやりきれない気持ちに駆られるような気分に陥りました。
「鬼って」本当に、この世の中にいるのでしょうか?
私は、吉備津神社の参道付け替えに伴い、国道180号線沿いの大きな松の木が数本切り倒されると言う事を聞き、散歩がてらに、最後の松の勇姿をカメラに収めようと思い出かけていきました。
それらの松の木は、大きく空に向かって己の枝を、誇示するように、一杯に伸ばしています。昆虫や車の排気ガスと必死に戦いながら、これまでに育った松の大木が、人間の勝手さのため切り倒されなくてはならない、植物自身の、此の世に存在する生の姿に哀れさをも感じながら、石灯篭をバックにしながらシャッターを切っていました。
「この木は切るのだ」と、目印に付かられた、薄汚く色褪せた赤いビニールテープのわずかな端切れが、中山颪の山風にひらひらと揺れています。文明と伝統の間にあって、儚く消え去ろうとしている数本の松の木に、余計に去りがたい神聖さを感じながらシャッターを遠慮がちに切らせてもらいました。
しばらく、それら数本の松を、その場に佇みながら眺めておりました。
「はしにならん」「はしにならん」という、怒るのでもなく悲しむのでもなく、自分自身に語りかけるのでもなく独り言のような、年老いたご婦人の声が私の耳に飛び込んできました。
「入れ歯でも落とされたのですか」と尋ねてみました。
誠に品のよさそうなその老婦人は、はっとしたのか、
「いやいや、ありがとうございます。聞こえましたか。つい周りのことにまで気をつけもしないで変なことを言ったようでしたね、驚きになられたでしょう。・・・・・・・。
いやねー、入れ歯はちゃんとありますよ」
お笑いになりながら、「どうにも腹がたって仕方がないので今、吉備津神社におまいりしているのです」
と、その老婦人は、初対面の私に、切り倒されるだろう松の木の下で、次のようなお話を、ゆっくりと聞かせてくださいました。
そのお話によると、自分の兄弟が死んで3周忌になるので、その法要について、甥の家に訪ねて行ったということです。すると、甥夫婦は、その老婦人に対して、今回は、わたしだけで、家族だけで簡単に法要をするから、皆さんは誰もお呼びしてはないと説明がありました。あまりにもびっくりしたものですから、
「家族だけで法事をするなんて聞いた事がない。このあたりの家では何処もそんなことはしていない。第一仏が喜ぶとでも思っているのですか。そんなことをするとこの家の恥になる。よくない事なのだ。家族だけでの法事は止めなさい」
と、死者に対する法要の意味やこの辺り一般の世間の常識を、懇々と言い聞かせたそうです。
「これは私の家で、私達夫婦で決めたことなのです。他の人がとやかく嘴を差し挟むことではありません。もう決めたことなのです。こんな独りよがりの自分勝手な分らない事を言う人は、お父さん追い出して頂戴」
甥のお嫁さんが声を高めて言うのだそうです。
「追い出せとは、まあなんてことを、私が自分が生まれ育った家から追い出されるなんて。開いた口も塞がりません。話にも何もあったものではありません。話しになりません」
私は、その老婦人の目をじっと見ていたのですが、涙もありませんでした。悲しみを通り越して、ご自分の生を静かに見つめられていられるようでした。
「この吉備津には鬼はいないと信じていたのですがねー。去来さんが“鬼とりひしぐ吉備の山”と詠んでおられるように、ここには、鬼はいないと思っていたのですが、これって鬼の世界の話ではないでしょうか。それも女の。鬼は本当にいるのでしょうかね。話しにならん話でしょう。・・・・・・・・知らないあなたに愚痴を長々と聞いてもらってごめんなさい。・・・・・少しは気が治まったようです。ありがとう」
あまり丈夫そうでない足を引きずるように、お宮さんに向かって歩んで行かれました。でも、やっぱりその後姿には、今までに、ついぞ体験したことのない人生の哀感みたいなものが私には漂っているように感じられました。
倒される松の木と、次第に遠くなっていかれるやや前かがみにお歩きになるその老婦人のお姿を見比べながら、私は、何かやりきれない気持ちに駆られるような気分に陥りました。
「鬼って」本当に、この世の中にいるのでしょうか?
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