私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

お竈殿と世界遺産「石見銀山」

2007-07-26 19:11:29 | Weblog
 吉備津の鬼について書いていますと、吉備津神社のお竈殿の屋根の鬼瓦について教えてくださった方がありました。この建物は、瓦葺の入母屋作りで、そのお屋根には、それぞれ一匹ずつ容貌の違った10枚の鬼瓦が乗っています。温羅を祭ったお社だけのことはあります。これらの鬼瓦は温羅の家来か?。南随神門も同じ瓦葺の入母屋作りの建物ですが鬼瓦はありません。

 話は違いますが、このお竈殿を寄進した人は、安原備中守知種という早島の人だそうです。今回、世界遺産に登録された『石見銀山』は「神屋寿禎」という博多の人により、大永六年(1526)に発見されたそうなのですが、江戸時代の初めに、倉敷の帯江銅山の経営者として、鉱山開発の技術を身に付けていた知種が、どんないきさつがあったのかは分らないのですが、兎も角、石見銀山に、彼の仲間と一緒に出かけて、鉱山経験者としての今までの知識を生かして、この銀山最大の坑道を発見したのだそうです。その坑道は、年間3,600貫の銀を産出した釜屋間歩(かまやまぶ)です。
 この結果、新たに徳川幕府の直轄地になった石見銀山を、飛躍的に発展させます。その最大の功労者が、安原知種です。(当時の世界の銀の3分の1を産出していたという) その功績により、徳川家康から、武士でもないのに「備中守」という称号を慶長8年(1603)に授かったと言い伝えられています。山師として成功し、大金持ちになったのだそうです。
 その知種が、慶長17年(1612)に、250年ぶりに、お釜殿を再建します。なお、早島にある鶴崎神社も寄進したそうです。
 
 私事(ひとりごと);
 安原備中守知種は、「釜屋間歩」という、石見銀山一の鉱脈発見という大成功を見るのですが、もしかして、この銀山の開発に当り吉兆を、ここ吉備津神社で占って貰ったのではないでしょうか。
 釜の音が高く鳴り響く「吉」のお告げを受けて、銀山開発に着手します。そして『釜屋』という釜の名が付く間歩を見つけ、家康から、「備中守」を授からるような大成功を収めます。それが、後に、このお釜殿再建の寄進を思いくきっかけになったのではないでしょうか。
 資料等皆無なのですが、『釜屋』と『お釜殿』という字を見て、私の頭の中で勝手に想像してみました。

 なお、現在この『釜屋間歩』見学は許可されていないようですが、石見銀山の資料によりますと、近い将来見学可能とのことです。見学できるようになったら行ってみたいと思っています。
 これもごく最近になって分った、吉備津神社の特色のひとつにいれてよいのではと思って書いてみました。