野村哲夫氏は昔、ジャズピアニストで一時、杉田二郎と一億分の四というバンドを組んでいた。万博の年の、1970年3月15日から8月で解散。その後、福岡風太がプロデュースし野音で春一番が始まった。URCのレーベルにはハッピーエンドやディランセカンドがいたことなどを話してくれた。最初、ディランは、きょうぞう、大塚まさじ、ながいようで出発したが、きょうぞうが抜け、大塚まさじ、ながいようでディランセカンドが再出発、そのファーストアルバム「きのうの思い出に別れを告げるんだもの」が1971年に録音されるのだが、そこには野村哲夫がピアノで加わっていることなども話してくれた。ほかにも中川イサトもいた。そこにはもちろん後にヒットするプカプカも録音された。野村は今から13年ほど前に能に出血し、右半身が麻痺。そのためピアノは片手でしか弾けなくなった。無念だったろう。その後、彼はぼくらのバンドに左手だけで助っ人してくれたこともあった。左手だけでもすごかった。中川イサト、西岡きょうぞう、村上律、上田正樹、ハッピーエンドなど懐かしい名前を交えて当時の話をたくさん聞かせてもらった。いつしか夕闇がせまりぼくたちは再会を約束して別れた。