地方の三文小説家「東義久」の独白

東義久のブログです。

京都新聞に連載している「随想やましろ」2月分が掲載になりました。

2015-02-13 15:15:43 | 文学の部屋
京都新聞に連載している「随想やましろ」2月分が13日に掲載になりました。
今回は「風信子」について書いてみました。興味のある方は読んでみてください。


風信子
                       東  義  久 
去年の暮に父が亡くなり、今年は年賀状も初詣もない静かな正月であった。そんな折り、文学仲間の猪飼丈士氏から寒中見舞いが届いた。見舞い状には、「風信子 父の碁盤に 端座せり」と、一句添えられていた。その句を読み、ぼくは十七文字に心あたためられていた。
風信子と書いてヒヤシンスと読む。春の季語である。日本語ってなんて美しいのだろう。その季語がぼくの若いころの記憶を呼び起こした。
ぼくの住む大久保もずいぶん変わった。その筆頭はといえば大久保駅である。電鉄会社も近鉄ではなく、奈良電気鉄道株式会社、通称奈良電と呼ばれていた。それまでは、今の場所から五百メートルばかり南にあって、今のように高架ではなく下の路面を走っていた。改札口は自衛隊の南側、今の不二家の辺りにあり、そこにはタクシー会社もあった。
そのころの大久保駅は確か東側が石積みになっており、そばにはくりくま映画館があった。駅より東側に住む人たちは踏切りを超えて改札口に行かなければならなかった。ぼくのように旧大久保に住むものは、
するため、改札口まで行かず大谷川の鉄橋を渡りホームの端をよじ上ったりもしたものである。今なら考えられぬほど危険な行為であったがおおらかなものであった。
ホームの端には蔓薔薇が一本、その棘で通せんぼをするように時折り一輪の小さな赤い花をつけていたのを、猪飼氏の寒中見舞いの句からフッ、と思い出したのである。
改札口でないところから入るその行為に後ろめたさを感じていたのか、その薔薇を踏みつぶさぬように避けて上ったのを覚えている。
そのシーンを俳句に詠みたいと、句心のない若いぼくが思ったのだったが、結局はできなかった。ぼくの裡のあの薔薇は冬でしか無かった。白い息をはいて飛び乗った電車は冬であった。当時、薔薇の季語を調べると夏だということだった。それではぼくの俳句は完結しない。僕は白い息をはいて電車に乗らなければならないのに、夏ではぼくの拙い句は成立しない。それでぼくの句は結局完成しなかった。それから暫くして、薔薇の季語のことを知る。薔薇は夏咲きと四季咲きがあり、本来は初夏の季語だということだが、品種改良などもあってか冬にも薔薇が咲くのである。そのために、冬薔薇(ふゆそうび)という季語がある、ということであった。
散文を書いているぼくがたった十七文字の俳句に嫉妬した、そんなことを思い出させてくれた寒中見舞いであった。