全トヨタ労働組合(ATU)

トヨタ自動車および関連企業で働く労働者の企業横断型労働組合です。一人でも加入できます。

トヨタの世界

2006年06月06日 21時36分55秒 | Weblog
中日新聞連載のトヨタの世界は歯がゆく読まさせていただいています。
以下本日の記事です。
第2部 創業のこころ(5)
労使関係 共同体 変化の兆しも
 トヨタ自動車がベースアップ(ベア)を認めるかどうかに、全国の経営者や労働者が注目した。3月14日。主要メーカーの集中回答日前日。企業が調子を取り戻し景気回復が鮮明になっていた。トヨタの労使交渉は夜までもつれこんだ。

 今春闘で勇退が既定路線となっていた労組執行委員長の東正元(55)は、背水の陣で臨んでいた。「満額回答は譲れない」。東は4年前、「ベアゼロ回答」を受けた時も委員長だった。

 「労使に険悪な雰囲気が流れていた」。トヨタ役員は振り返る。結果は満額回答。トヨタはベアではなく「賃金制度改善分」と位置付け、1000円の賃金引き上げを認めた。社長渡辺捷昭(64)の「つまずきとなってはいかん」のひと言が、交渉の落としどころをつくった。

 専務の立花貞司(59)は回答日の会見で「理屈抜きで出した」と、1カ月間の交渉を総括した。東は胸を張った。

 労使関係は、トヨタの経営の要だ。1950年に経営危機に見舞われたトヨタ(当時トヨタ自動車工業)は、労働争議を経験していた。従業員の大量解雇と、創業者豊田喜一郎の退任。最悪の結末は、労使の心的外傷(トラウマ)となった。

 49年入社で労担経験を持つ坪井珍彦(80)=ジェイテクト名誉顧問=は、争議後の社内に「このままではいけないという雰囲気があった」と振り返る。

 解雇騒動に、職人かたぎだった中卒の養成所(現トヨタ工業学園)出身者は動揺した。「彼らは会社がなくなれば、手にした技術を失うと思っていた」と坪井。人事部社員が社内融和のため、深夜勤務の従業員を1人ひとり訪ねて回った。夜食を含め、2つの弁当を持参するのが日課だった。

 62年、労使は「労使関係は相互信頼を基盤とする」と宣言。争議から12年がたっていた。草案作成に携わった坪井は「運命共同体であることを確認した」と話す。

 その後の安定した労使関係は、トヨタの成長を支えた。会社は雇用を守り、労組も合理化に協力して利益を生み出した。国際化に踏み出した86年には「雇用に悪影響を与えない」などとする「海外進出姿勢3原則」を締結、労使協調は企業の世界戦略の中でも基軸となった。

 春闘の団体交渉には社長や副社長も出席する。組合員が職場の苦労を訴えると経営側の席からすすり泣きの声が漏れる。労使双方に「年に1度は会社を取り巻く状況について腹を割って話すべきだ」との声は根強く、春闘を不要とする最近の風潮とは一線を画す。

 春闘交渉前の1月27日に愛知県豊田市で開かれたトヨタ自動車労組の60周年式典。社長の渡辺が「労使の一体感が競争の柱だ」とあいさつすると、委員長の東が手を差し出した。会場の組合員は一斉に立ち上がり、拍手がわき起こった。

 しかし、労使一対一の関係に変化も生じ始めている。式典開催と時を同じくして発足した、第2組合「全トヨタ労働組合」。委員長の若月忠夫(59)=トヨタ元町工場勤務=は「今の労組は経営の言いなり。組合員の気持ちを反映していない」と、なれ合いを批判する。

 また、繁忙を極める国内工場では、組合員(約5万8千人)ではない期間従業員が増えている。2005年には平均1万人を超え、工場ではほぼ3人に1人が非組合員だ。社員への登用制度はあるが、坪井は心配でならない。「労使が共有する価値観を彼らも持つことができるのか」 (敬称略)

  トヨタの労働争議  50年当時、新興企業の1つだったトヨタに、銀行団が「全従業員の25%、1600人の解雇と1割の賃下げ」の融資条件を提案。労使は同6月に1500人解雇で合意した。創業者で社長だった豊田喜一郎は、責任をとって辞任。喜一郎は2年後に亡くなり、復帰を果たせなかった。

http://www.chunichi.co.jp/feature/toyota/
6月6日


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする