ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

裁判も病める日本

2007-02-10 | 政治
犯罪被害者が裁判の検事側に参加して裁判で発言することができるようにする制度が進められている。たしかにいわれもない差別や経済的に困窮している被害者には心から同情したいが、裁判に関わることが被害者を救済できるかどうか、また正確な裁判をすることができるかどうか、私は憂慮する。

 裁判はあくまで事実に基づいて真実を求めることである。そこで被害者ができることは何でしょうか?被害の哀しさ、加害の非人道さ、などを訴えることくらいしかできないだろう。このような被害者の言葉は、容疑者が本当の犯人かどうかと言うこととは何の関係もない。量刑を決める時に刑罰を増やして欲しいとか刑を軽減して欲しいとかを訴えることはできるが、そのようなことは現在でも証人として出廷してできることだ。検察側に立って被害者ができることは何もない。

 もし検察側にたって何かできるとしたら、裁判官の心証を左右し、事実に基づかない容疑者の裁判を促進することしかない。これは裁判の自壊でしかないだろう。被害者には、経済的な援助を考えるべきである。裁判に関わらせることは許されない。

 えん罪が増えていると思われる昨今、被害者を裁判に関わらせるということは、さらなる裁判の誤判を許すことに繋がるだろう。あなたも私もいつでも「えん罪」で獄に繋がれることになりかねない。 

周防正行監督の映画「それでもぼくはやっていない」は、裁判まで病んでいる日本を告発した映画。市民が作るネット新聞「JanJan」に以下の紹介記事があるのでお読みください。

▼裁判まで病んだ日本~映画「それでもボクはやってない」http://www.janjan.jp/culture/0702/0702050537/1.php