マタイ7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
先の第6章では、天に宝を積むことによって、私たちの目は天に向くようになるのだと、イエス様は教えてくださいました。
私たちの目がどこに向いているかによって、目の明るさが異なります。地上に宝を蓄えていると、私たちの目は地上にばかり向いてしまいます。すると、地上の思いわずらいによって、目は曇ってきます。
しかし、天に目を向ける人の目は、天の栄光の光を取り入れるようにして、その目は澄んだ目になります。その目は明るくなって、ものごとを正しく見ることができるようになります(6・19~23)。
さて、私たちの目が正しく見ることのできない原因がもうひとつあります。それは、自分の目に梁(はり)が横たわっているからです。イエス様は、この梁を取りのけるなら、「はっきり見えるようになる」と言われました。
この梁は、どうやら虫メガネのように拡大して他者の目にある「ちり」がやたら大きく見えるのです。これでは、健全な人間関係が成り立ちません。
他者のちょっとした欠点や間違いが、大きな問題に見えてしまうので、他者の目の「ちり」が気になって仕方がないのです。それを上手に取ってあげるどころか、かえって「ちり」を理由に他者を攻撃したり、傷つけてしまいます。
このように目に梁が横たわっていると、正しく見ることができません。
あの1万タラント(20万年分の賃金)の借金をゆるされた男は、自分が100デナリ(100日分の賃金)を貸していた友人を許すことができませんでした。それは、男の目に大きな梁が横たわっていたからです。
梁は、他人に対しても自分に対しても、正しく見えなくしてしまいます。友人に貸した100デナリがとてつもなく大きく見えるのです。逆に、自分が免除された20万年分の借金が小さく見えるばかりか、膨大なゆるしの恵みを見失うのです。
だから、天国に国籍のある者として、正しく見る目を持たなければなりません。そのために、主イエスは、目から梁を取りのけなさいと言われます。
私たちの目にある梁とは「自己正義」のことです。自分を義とする心、自分が正しいとする心です。この自己正義という梁が自分の目にあると、相手の目の「ちり」を正確に把握できません。
自分の義ではなく「神の義」を求めなさい、と主は言われました。「人の怒りは、神の義を全うするものではない」からです(ヤコブ1・20)。
つまり、人の怒りは、多くの場合、自分の義を主張することであって、神の義を全うすることにはならないのです。自己正義という梁が目にあると、人の怒りは過剰な怒りへと展開して行きます。
怒りそのものもが悪いのではありません。怒っても良いのです。神もお怒りになります。イエスも怒られて、神殿の商売人たちをお叱りになりました。
ただ、人間である私たちの場合、怒ってもそれを翌日まで持ち越してはいけません(エペソ4・26)。何故なら、往々にして自己正義が絡んでくると、陰湿な怒りへと変質するからです。
自己正義という人間の義は、神の義を全うできません。だから、自己正義という梁を十字架につけて葬ります。そうしたら、正しく見えるようになって、他者の目の「ちり」を取ってあげることができます。
今日の御言は、他者の目にあるちりを取ってあげようなんて、お節介はやめなさいというのではありません。お互い五十歩百歩。相手の目のちりを取るなんておこがましいというのでもありません。自分の目にある梁を取りのけるなら、他者の目のちりを取ってあげることができるのです。自己正義は十字架に葬られ、愛をもって互いの目からちりを取りのけることができれば、神の子たちの目は澄んでくるでしょう。
互いの目からちりが取り除かれるなら、私たちの目はしっかりと天の希望を見据えることができるでしょう。目が天に向けば、心は清くなることでしょう。こうして、心の清い者たちは幸いです。彼らは神を見るのですから(マタイ5・8)。
◆◆◆◆◆◆◆
「山上の垂訓」と呼ばれる5~7章をひと言でまとめるなら「天国人としての生き方」です。主は説教の最後に、それを実現するための秘訣を語られました。岩を土台にして家を建てる人と、砂を土台にして家を建てる人の話です(7・24~27)。主は「わたしの言葉を聞いて行う者を、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう」と言われました。
かたや、イエス様の御言を聞いても、それを実行しない人は、砂の上に家を建てるような人生です。両者の家は表面的には違いが分かりません。しかし、洪水が押し寄せたときに、倒れない家と倒れる家の違いが明らかになります。
その差は「体験」が有るのか無いのかの違いです。御言を聞いただけでは知識です。もちろん知識も大切です。何も知らなければ始まりません。学校でもいろんな知識を学びます。でも、知識を得たことが即ち身に付いたのではありません。
身に付けるためには、学んだことを実行してみることです。知識と実際では大違いです。実行するので体験します。体験するので身に付きます。身に付くので土台になります。
神の御言も同じです。神の存在の有無を議論しても何にもなりません。神がおられるのを知りたければ、神の御言を実行してみることです。そうすれば、神が生きておられることを体験します。神が生きておられることを体験した人生は、岩の上に建てた家です。人生の洪水が押し寄せて来ても倒れません。神が共におられるという体験が土台だからです。
さて、御言を実行することと、御言を実現することとは違います。この区別がないと、御言を行うことが苦痛になるので説明しておきます。
たとえば、「愛しなさい」という御言です。御言を聞いて愛を実行するのですが、実際は、愛せないことの連続です。でも、くじけないで御言に従順して愛を行います。これが御言を実行するということです。実際に愛が実現しているかどうかは別の問題です。
こうして「愛しなさい」という御言を実行する中で、愛せない自分さえも神は愛してくださっていることを体験します。神の愛をもっと身近に感じます。神が共におらることを体験します。そして、もう一度、愛そうと立ち上がるのです。
また、「思いわずらうな」という御言もあります。朝にこれを聞いて、「思いわずらわないぞ」と実行してみるのですが、夕方には思いわずらっています。でも、神の命令ですから、何度でも「思いわずらうな」という御言を行います。
このような実行と失敗の繰り返しの中で、神にゆだねることを学びます。神のように完璧にやろうとして思いわずらってる自分に気づき悔い改めます。自分は神の座から退いて、真のの神にゆだねる生き方を体験します。
このような一連の体験が岩の土台になります。その上に〝人生〟という名の家を建て上げるのです。
しかし、御言を実行してもしなくても、みなそれぞれが家を建てます。表向きは違いが分かりません。御言を実行しなくても立派な家を建てる人もいます。問題は「洪水が押し寄せてきた時」です。その時、土台が岩なのか砂なのかの差があらわれます。
学校でも、勉強が身に付いているかどうか試験があります。神も、時々私たちに御言が身に付いているのかどうかを試されることがあります。平穏無事なときは御言が土台になっているかどうか分かりません。しかし、やがて試練や困難の時が来ます。それは御言を実行するチャンスです。御言を体験するチャンスです。岩の上に人生を立てているかの試験です。
だから、御言を聞くだけでなく、実行してみましょう。これは救いのためではなく、……救いは御言を聞いて信じることです……せっかく救われた人生を、しっかりと建て上げるためです。
主イエスを王としてお迎えして、天の御国が始まったのです。なのに、王であるイエスの御言を聞くだけで実行しないなら、王の支配は限定的です。天国の祝福を味わいたいなら、王の御言を行うことです。そこには名実共に天国が現れます。この天国は〝死〟という大洪水でも倒れることがありません。
先の第6章では、天に宝を積むことによって、私たちの目は天に向くようになるのだと、イエス様は教えてくださいました。
私たちの目がどこに向いているかによって、目の明るさが異なります。地上に宝を蓄えていると、私たちの目は地上にばかり向いてしまいます。すると、地上の思いわずらいによって、目は曇ってきます。
しかし、天に目を向ける人の目は、天の栄光の光を取り入れるようにして、その目は澄んだ目になります。その目は明るくなって、ものごとを正しく見ることができるようになります(6・19~23)。
さて、私たちの目が正しく見ることのできない原因がもうひとつあります。それは、自分の目に梁(はり)が横たわっているからです。イエス様は、この梁を取りのけるなら、「はっきり見えるようになる」と言われました。
この梁は、どうやら虫メガネのように拡大して他者の目にある「ちり」がやたら大きく見えるのです。これでは、健全な人間関係が成り立ちません。
他者のちょっとした欠点や間違いが、大きな問題に見えてしまうので、他者の目の「ちり」が気になって仕方がないのです。それを上手に取ってあげるどころか、かえって「ちり」を理由に他者を攻撃したり、傷つけてしまいます。
このように目に梁が横たわっていると、正しく見ることができません。
あの1万タラント(20万年分の賃金)の借金をゆるされた男は、自分が100デナリ(100日分の賃金)を貸していた友人を許すことができませんでした。それは、男の目に大きな梁が横たわっていたからです。
梁は、他人に対しても自分に対しても、正しく見えなくしてしまいます。友人に貸した100デナリがとてつもなく大きく見えるのです。逆に、自分が免除された20万年分の借金が小さく見えるばかりか、膨大なゆるしの恵みを見失うのです。
だから、天国に国籍のある者として、正しく見る目を持たなければなりません。そのために、主イエスは、目から梁を取りのけなさいと言われます。
私たちの目にある梁とは「自己正義」のことです。自分を義とする心、自分が正しいとする心です。この自己正義という梁が自分の目にあると、相手の目の「ちり」を正確に把握できません。
自分の義ではなく「神の義」を求めなさい、と主は言われました。「人の怒りは、神の義を全うするものではない」からです(ヤコブ1・20)。
つまり、人の怒りは、多くの場合、自分の義を主張することであって、神の義を全うすることにはならないのです。自己正義という梁が目にあると、人の怒りは過剰な怒りへと展開して行きます。
怒りそのものもが悪いのではありません。怒っても良いのです。神もお怒りになります。イエスも怒られて、神殿の商売人たちをお叱りになりました。
ただ、人間である私たちの場合、怒ってもそれを翌日まで持ち越してはいけません(エペソ4・26)。何故なら、往々にして自己正義が絡んでくると、陰湿な怒りへと変質するからです。
自己正義という人間の義は、神の義を全うできません。だから、自己正義という梁を十字架につけて葬ります。そうしたら、正しく見えるようになって、他者の目の「ちり」を取ってあげることができます。
今日の御言は、他者の目にあるちりを取ってあげようなんて、お節介はやめなさいというのではありません。お互い五十歩百歩。相手の目のちりを取るなんておこがましいというのでもありません。自分の目にある梁を取りのけるなら、他者の目のちりを取ってあげることができるのです。自己正義は十字架に葬られ、愛をもって互いの目からちりを取りのけることができれば、神の子たちの目は澄んでくるでしょう。
互いの目からちりが取り除かれるなら、私たちの目はしっかりと天の希望を見据えることができるでしょう。目が天に向けば、心は清くなることでしょう。こうして、心の清い者たちは幸いです。彼らは神を見るのですから(マタイ5・8)。
◆◆◆◆◆◆◆
「山上の垂訓」と呼ばれる5~7章をひと言でまとめるなら「天国人としての生き方」です。主は説教の最後に、それを実現するための秘訣を語られました。岩を土台にして家を建てる人と、砂を土台にして家を建てる人の話です(7・24~27)。主は「わたしの言葉を聞いて行う者を、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう」と言われました。
かたや、イエス様の御言を聞いても、それを実行しない人は、砂の上に家を建てるような人生です。両者の家は表面的には違いが分かりません。しかし、洪水が押し寄せたときに、倒れない家と倒れる家の違いが明らかになります。
その差は「体験」が有るのか無いのかの違いです。御言を聞いただけでは知識です。もちろん知識も大切です。何も知らなければ始まりません。学校でもいろんな知識を学びます。でも、知識を得たことが即ち身に付いたのではありません。
身に付けるためには、学んだことを実行してみることです。知識と実際では大違いです。実行するので体験します。体験するので身に付きます。身に付くので土台になります。
神の御言も同じです。神の存在の有無を議論しても何にもなりません。神がおられるのを知りたければ、神の御言を実行してみることです。そうすれば、神が生きておられることを体験します。神が生きておられることを体験した人生は、岩の上に建てた家です。人生の洪水が押し寄せて来ても倒れません。神が共におられるという体験が土台だからです。
さて、御言を実行することと、御言を実現することとは違います。この区別がないと、御言を行うことが苦痛になるので説明しておきます。
たとえば、「愛しなさい」という御言です。御言を聞いて愛を実行するのですが、実際は、愛せないことの連続です。でも、くじけないで御言に従順して愛を行います。これが御言を実行するということです。実際に愛が実現しているかどうかは別の問題です。
こうして「愛しなさい」という御言を実行する中で、愛せない自分さえも神は愛してくださっていることを体験します。神の愛をもっと身近に感じます。神が共におらることを体験します。そして、もう一度、愛そうと立ち上がるのです。
また、「思いわずらうな」という御言もあります。朝にこれを聞いて、「思いわずらわないぞ」と実行してみるのですが、夕方には思いわずらっています。でも、神の命令ですから、何度でも「思いわずらうな」という御言を行います。
このような実行と失敗の繰り返しの中で、神にゆだねることを学びます。神のように完璧にやろうとして思いわずらってる自分に気づき悔い改めます。自分は神の座から退いて、真のの神にゆだねる生き方を体験します。
このような一連の体験が岩の土台になります。その上に〝人生〟という名の家を建て上げるのです。
しかし、御言を実行してもしなくても、みなそれぞれが家を建てます。表向きは違いが分かりません。御言を実行しなくても立派な家を建てる人もいます。問題は「洪水が押し寄せてきた時」です。その時、土台が岩なのか砂なのかの差があらわれます。
学校でも、勉強が身に付いているかどうか試験があります。神も、時々私たちに御言が身に付いているのかどうかを試されることがあります。平穏無事なときは御言が土台になっているかどうか分かりません。しかし、やがて試練や困難の時が来ます。それは御言を実行するチャンスです。御言を体験するチャンスです。岩の上に人生を立てているかの試験です。
だから、御言を聞くだけでなく、実行してみましょう。これは救いのためではなく、……救いは御言を聞いて信じることです……せっかく救われた人生を、しっかりと建て上げるためです。
主イエスを王としてお迎えして、天の御国が始まったのです。なのに、王であるイエスの御言を聞くだけで実行しないなら、王の支配は限定的です。天国の祝福を味わいたいなら、王の御言を行うことです。そこには名実共に天国が現れます。この天国は〝死〟という大洪水でも倒れることがありません。
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