Aruiのスペース

自分の身の回りで起こったことの記録であったり、横浜での生活日記であったり・・・です。

河西回廊ー4-鳴砂山

2005-10-11 12:26:24 | Weblog
傑作(0)
天津174             5010

河西回廊ー4-鳴砂山

鳴砂山とは巨大な砂山です。砂を踏んで歩くと音が
するので、この名が付いたそうですが、私が踏んで
も、同行の仲間が踏んでも鳴りませんでした。敦煌
の南約5kmに位置し、東西約40km、南北約20kmに
横たわります。高さは100m程でしょうか、たいした
ことないと登り始めると、ここが海抜1000mを超え
ているので、結構息が切れます。入場券売り場から
鳴砂山の麓まで、駱駝で往復できます(楽だ)。
砂山の斜面を滑り降りる竹そり、モーターパラグラ
イダーやハンググライダーも楽しめます。

月牙泉
鳴砂山に登ると、目の下に見えます。ガイドブック
には「鳴砂山の谷あいに湧く三日月形の泉で、東西
200m、幅50mあり、深さは平均で5m。漢代から
遊覧池として知られる。どんなときにも枯れたこと
がない・・・」と有るんですが、実際には、水位は
減少傾向にあるそうです。原因としては、祁連山に
連なる党河南山山脈の雪解け水が、湧き出てくる、
その湧水点が減ってきたらしい。敦煌で生まれ育っ
たガイドさんが子供の頃よりも、水位はだいぶ下が
って来てるとのことでした。いずれ枯れないと良い
んですが。

http://ikokunotabi.web.infoseek.co.jp/karahoto/kara8.htm
http://www.yo.rim.or.jp/~eizo10/rakuda.htm

河西回廊5泊6日の旅ー3-莫高窟

2005-10-10 10:07:24 | Weblog
天津173             5009

河西回廊5泊6日の旅ー3-莫高窟

敦煌と言えば、莫高窟です。
http://www.actv.ne.jp/~yappi/tanosii-sekaisi/07_china/07-14_bakkoukutu.html
http://www.jsdj.com/luyou/lyzy/gmegaoku.htm
市の南東約25km、鳴砂山の東端の崖に洞窟を掘り、
中央に仏像を配し、周囲の壁面に仏画が描かれて
いる。そこまでしてないただの穴も含めると、洞窟
が735ほど発見され、研究され、公開されている
ものが63とか。この数字はガイドブック記載の数字
よりも増えています。特に優れた窟は、一般入場料
のほかに、特別料金(最高はNo.465窟の500元)が
必要。

どの窟を見ることが出来るのかは、着いてくれた
ガイド(文化財の研究員)さんの思惑一つで決まり
ます。窟内は、撮影禁止です。仏像仏画を見るには、
多数販売されている画集を見て頂くのが一番。

私が感銘を受けたのは、西暦420年頃から1000年以上
にも渡って営々と引き継がれたこと。その間に王朝は
10にも及び、チベット系、モンゴルと人種が代わった
ことも有ったのに継続されたことです。幸いだった
ことは、イスラム人種による、小規模の破壊(顔部分
の剥離がところどころ見られる)は有ったが、バーミ
ヤン遺跡のような大規模破壊を受けなかったこと。
あの愚かな文化大革命の際にも、破壊を免れたこと
です。残念なことは、明の時代に、かなり大規模な、
そして低い技術による修復がなされたことでしょうか。

そして、疑問は、誰が何のためにこんな手間暇のかかる
作業をさせたのかと言うことです。研究員さんの説明を
聞いて、私が理解したところでは、この地方でこの時代、
功なり名をとげた者が、これをさせたようです。実際の
作業は、技のある仏師なり絵師が行った訳ですが、
それを命じた、或いは発注したのは、この地方を治めた
役人であったり、有名な寺の高僧であった。寄進者と
して、洞窟内に姿を描かれ、名前を書かれた場合もある
ので、判ります。親孝行して、父の名で寄進したケース
も推測されます。

従って、仏師や絵師には相当の対価が支払われ、家僕も
従え、日常の雑事は任せていたようです。特に、この後
に出てくる楡林窟の場合、当時の交通手段では、食材の
買出しも、日帰りが難しいような場所です。何のため
だったのでしょうか?極楽浄土へ行くための功徳と考え
られていたようです。

莫高窟の岩は、大粒の砂粒からなる砂岩です。像は
表面に粘土を塗り,彩色を施し、壁面の絵も同様です。
長い年月には、大地震も有って、崩れ落ちたりした窟も
かなり有りました。また日本も含めた列強が、自国へ
持ち去った(壁面を剥がして)箇所も有ります。

河西回廊5泊6日の旅ー2-敦煌

2005-10-09 09:23:03 | Weblog
天津172             5009

河西回廊5泊6日の旅ー2-敦煌

敦煌は古来より、ここまでが漢民族の領土として
運営されてきました。最西の軍事拠点であった訳
です。河西回廊は砂漠の中の回廊と説明しました。
だから敦煌も酒泉も、街は全てオアシスです。水の
出る所に緑ができ、そこに人が住み着いて、街に
なり、そこを支配したい人が要塞を作って民を守り、
守った農民の収穫物や、守った商人のあがりの一部
を召し上げる。洋の東西を問わず、人の営みはこう
であったようです。

平和な時は、当然、東西の交流拠点・商業都市に
なります。ここを通って、幾多の財貨と経典や科学
技術が流通したことでしょうか。現在の中国の西の
国境は、ここから更に西へ1300km程で、キルギス
とかタジキスタンに接しています。上手いこと取り
込みましたね。

街を一歩出ると砂漠です。だからシルクロードは、
旧東海道のように道が固定されていません。街、
宿場は固定されてますが、道は、多分遠くの山
並みや、星を診て、そして前のキャラバンの足跡が
残っていれば、それを頼りに行く。次の宿場に着く
なら、どこを通っても良い、そういう道であったと
思います。全商隊が、全く同じ道を行くと駱駝の
餌にも困るだろう等と想像しています。

敦煌の見所は沢山有ります。
http://www.arachina.com/attrations/dunhuang.htm
その中で私が見たのは莫高窟(次号で取り上げ)。
登ったのが鳴砂山、そこから眺めた月牙泉です。
鳴砂山では生まれて初めて駱駝に乗りました。
もう1日取れるなら、玉門関、唐代の王維の詩
「西の方陽関を出ずれば故人なからん」と詠われた
陽関、西千仏洞、漢の長城、河倉城がお勧めだそう
です。日中共同製作の映画「敦煌」撮影の時に作ら
れた実物大セットの映画村が素晴らしいそうです。
その後中国内外の映画会社が、そこで撮った映画が
19本もあり、城郭や町の造りが精巧とのこと。

現在の敦煌:中国甘粛省にあり、人口18万人、
市内人口8万人、そのうち観光業に従事するもの
60%。緯度は秋田市とほぼ同じ。高度1100m。この
ため、鳴砂山に登る時に、想像以上に息が切れます。
年間降雨量たったの40mm、蒸発量はこれの5000倍
とか。砂漠だから当たり前か。

年間訪問者は42万人、うち外国人が11万人で内訳は
日本、アメリカ、ドイツの順。2005年4月の反日デモ
の後、日本からの客が激減。偶に来る日本人は、
中国駐在の人とか。あのデモの衝撃が、日本に住む
日本人には如何に大きかったか。そして中国に住む
日本人にはさほどでは無かったかを物語るので
しょうか?

観光以外の産業は農業。瓜メロン、トウモロコシは
他の街でも作っているが、特にここでは綿の栽培が
広まっている。綿の髯が長く、一番金になる産品だ
とのこと。ちょうど収穫時期でした。

河西回廊5泊6日の旅ー1-概要

2005-10-07 21:09:48 | Weblog
天津171             5007

河西回廊5泊6日の旅ー1-概要

天津市在住の日本人の旅行会で、シルクロード河西
回廊に行く事が決まり、一行13人の中に入れて貰
いました。

河西回廊って何処?河西は黄河の西、回廊は宮殿・
寺院などで、建物・庭などの周囲をとりまいている
長く折れ曲がった廊下(大辞林)です。この場合、都
(みやこ)長安(今の西安)から西へ蘭州、武威、
張掖、酒泉、安西、敦煌へ連なる狭い地帯のことです。

特に武威から敦煌までは、北と南を山脈に挟まれた
狭い砂漠地帯で、長さは1000kmにもなるので、この
名前が付けられたものと思います。

昔は、この敦煌までが、王朝がいろいろ変わったに
しても、所謂漢民族の土地で、敦煌の外は、西域と
呼ばれ、匈奴とかウイグルとか、時代によって種族は
違っても、所謂異民族の土地であると看做されてき
ました。戦後は大中国となり、新疆ウイグル自治区と
して中国に編入されています。それ故でしょうか、
中国では新疆が、中国に編入されてから、如何に良く
なったか、強調されています。

私達の旅は、昔の中国の西の要塞の地、敦煌から東へ
安西、酒泉、張掖と4泊し、最後に回廊から外れて、
幻の西夏王国の首都があった銀川に泊まる5泊の旅で
した。そこで何を見たのか。洞窟の中に作られた仏像
と、その周囲の壁画、長城と関所(砦)跡、墳墓および
その内部の様子、王城の跡、展示館や博物館で出土品
(本物、複製品)や模写絵等を見学、お寺や仏塔や廟の
見学、そして街をそぞろ歩いての骨董屋巡りなどでした。

それはそれは楽しい6日間では有りましたが、朝7時に
ホテルを出て、あちこち見学をし、休憩をしながら
とは言え、その日のホテルに、夜の10時半到着、その間、
女性も含めて砂漠の中での、全員立ちションと言う、
昔のキャラバン隊もかくやと思われる厳しい行程の日も
有りました。以下各地の報告に譲ります。