Aruiのスペース

自分の身の回りで起こったことの記録であったり、横浜での生活日記であったり・・・です。

自主勉強会

2007-11-27 18:25:31 | Weblog
自主勉強会                       2007-11-27

ボランテイア通訳の英語の部の自主勉強会に参加しました。
メンバーが交替で議長になり、事前に発表されたテーマに関して
勉強をすすめ、最後にシュミレーションと呼ばれるロールプレイを
します。今回は泌尿器科に関して行われ、参加者は16名、男性
は私一人でした。いつもは、私の他に男性は2名居るそうです。

泌尿器科解剖図と各機・関部位が日本語で書かれていて、それ
の英語の一覧は事前にmail添付で貰ってありました。特に重要
単語としては、腎臓、腎盂、尿管、膀胱、尿道、前立腺、糸球体、
陰茎、陰嚢、精巣があり、更に本日の勉強のテーマとなる前立腺
肥大症、尿路結石症、腎盂腎炎について、病気の概要、診断、
治療、検査について英語で書かれたものを読んで訳すのです。

前立腺肥大症ならば、当然に、排尿障害、直腸診、血液・尿検査、
尿流測定、経直腸的超音波とか経尿道的切除術などと言う言葉
の意味と英語を覚えます(ってこれを書いてる時点で、英語の術
語はもう忘れていますが)。そして透析についてのビデオを見まし
た。腹膜透析と血液透析などと言う重要単語の英語も覚えます。
自宅で、患者自身が行う腹膜透析については、予想外のことで
驚きました。随分進んでいるんですね。

4時間みっちり勉強して、遅めの昼食をして散会です。次回は1月
に、不妊治療だそうです。でも、これ私が聞いても通訳する機会は
無いと思うんですが・・・


木曽義仲

2007-11-25 16:34:29 | Weblog
木曾義仲                 2007-11-25

私が聴講している平家物語も、だいぶ進んできまして、ついに
平家は都を落ちました。そして源氏の先兵として乗り込んでき
たのが朝日将軍と言われた木曾義仲です。この頃、宮廷は
既に、平家から源氏に乗り換えており、後白河法皇の使者と
して、お公家さんが鎌倉に居る源頼朝を訪ね、征夷大将軍の
位を与え、平家追討の院宣を与えている。そしてその時に、
お公家さんを応接した頼朝の立ち居振る舞い、言語、勢威
などが、都で想像していたより素晴らしいことが伝えられ、都
人の知るところとなっていた。

それに引き替え義仲は、と都人にとっては、格好のちゃかし
相手が見つかった訳で、平家物語の語り部も、面白可笑しく
義仲の田舎武士のさまを語ったに違いない。巻八猫間には、
頼朝は素晴らしいと褒めた後に続く文章で、木曽左馬頭義仲
は、都の守護をしているが、(頼朝には)似ても似つかず、だめ
な人です。色は白くて、眉目麗しい良い男だが、立ち居振る舞
いの無骨さ、物を言う時の言葉使いの無教養振りは酷いものだ。
まー、仕方が無いでしょう。2歳から30歳まで信濃の国、木曽
と言う山里で育ってきたのだから、品良くしろと言うのがどだい
無理な事です。

それでも義仲は働きにより出世したので、普段着で宮中へ顔を
出すのはまずかろうと、正装して出掛けた。しかし、その格好
たるや、袖の具合、足首のところのズボンの閉め具合、冠など
不細工なことこの上無い。鎧を着て、矢を背負い、弓をかかえ
甲の緒を締めて馬に跨っている時とは、似ても似つかないほど
だらしがない。と、ぼろくそです。

ところが俳人松尾芭蕉は、この物語の中で不遇な運命にもて
あそばれた義経と、この義仲にご執心なのです。奥の細道を
旅して、義経主従が立ち寄ったところを自分が訪ねた時の
思い入れは、大変なものがあります。義経に味方して頼朝軍
と戦い戦死した佐藤継信、忠信兄弟の里を訪ねた時・・・

 飯塚の里   
  月の輪のわたしを越えて、瀬の上と云ふ宿に出づ。
「佐藤庄司が旧跡は左の山際一里半斗に有り、飯塚の里
鯖野」と聞きて、尋ね尋ね行くに、丸山と云ふに尋ねあたる。
「是庄司が旧館也。梺に大手の跡」など、人の教ゆるにまか
せて泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。
中にも二人の嫁がしるし、先ず哀れ也。女なれどもかひがひ
しき名の世に聞えつる物かなと、袂をぬらしぬ。堕涙の石碑
も遠きにあらず。寺に入りて茶を乞へば、爰に義経の太刀、
弁慶の笈をとどめて什物とす。
  笈も太刀も五月にかざれ帋幟

これを詠んだ数年後、52歳で没した芭蕉は、生前よりの希望
で、亡骸を義仲の墓の隣に葬って欲しいと頼み、弟子達は
それを守って、大津の義仲寺の義仲の墓の隣に埋葬したの
です。

http://www2.ttcn.ne.jp/~tabi/axgichuji.htm

  木曽殿と背中合わせの寒さかな

埋葬の日の門人の句です。

スーパーでバイト2回目           

2007-11-12 16:41:06 | Weblog
スーパーでバイト2回目           2007-11-12

2回目の今日は行ってみると、ロッカーも有りました。但し
鍵の壊れたロッカーをパート用に与えてくれたようで、開け
て服をハンガーに掛けて閉めるだけです。まいいか。

今日は、大売り出しではなく、客の入りも静かで、比較的
ゆっくりと仕事ができました。とは言っても開店前に陳列
棚に並べなければならない商品は沢山有って、箱を開く
商品を出す。陳列してある場所を見つける。前の日から
商品が有れば、新しい商品は奥に入れる。つまり古い商
品を、お客さんが手に取りやすい場所に置く。今開けた
箱は、上が開いていて、空き箱になっているから、今度は
底を開ける。そして箱を潰して畳んで平たくして捨て易い
ようにする。これの連続です。カートに積んである箱の
中身を全部陳列したら、空き箱をカートに積んでダンボー
ルの捨て場所に捨てる。戻って来る頃には、別の商品が
カートに積まれて待っています。

9時に朝礼。売り上げ報告注意事項。手を見せ合って爪の
具合を検査。10時近くになって、パンの売り場の陳列が
遅れ気味なので、そちらに回される。パンの次にケーキ
これは、壊れやすいので丁寧に扱わないといけない。箱
が頑丈で、なおかつ天地返せないから、カッターできれい
に開けて出す。10時、お客さんが入って来てもそれが続く。

間もなくパンの売り場の責任者から有り難う、もうこちらは
良いですと言われて自分の売り場Dailyに戻る。キムチ、
日本の漬け物、タクワン、豆腐、こんにゃく、白滝、豆の
煮たもの、芋の煮たもの、おでんの種、季節柄これの種類
がむちゃくちゃ多い。生麺、生そば、生ラーメン、乾麺類、
納豆と続くが、まだ全部は覚えられない。売り場の大将は、
全部覚えていて、各商品は何列で陳列するかまで覚えて
いる。それから、この大将は、殆ど全てのダンボール箱を
カッターを使わないで開ける。だから、私の倍ほど速い。

11時に上がる。立ち続けなので疲れた。

スーパーでバイト

2007-11-09 13:48:15 | Weblog
スーパーでバイト            2007-11-09

スーパーでバイトしないかと誘われました。1日3時間、週
3日です。商品の出し入れだそうで誰でも出来るかわりに
時給も安いです。朝の8時から11時までなので、平家物語
の聴講があっても、大丈夫ですが、火曜日だと奥の細道と
ガッチンコします。幸いに月水金だそうで、行くことにしまし
た。我が家から電車で10分、駅から近いので決めました。

まーなんでも初めての仕事、初めての職場と言うのは、驚く
ことが多いんですが、今回もその例に漏れません。まず、
驚いたのが、私たちのような下っ端の手伝いパートの採用
面接を店長がしたことです。どうせ、すぐ辞めて行くような
職場だと思うんですがね。

次に驚いたのが、最初に見せる新規採用者向けのビデオ
が調子が悪くてなかなかスタートしなかったことです。だって
しょっちゅう見せるんでしょ?日本を代表するスーパーで
従業員が何名居て、店舗数が○○で、店に入ったら、身な
りをきちっとして、挨拶、おはようございます、いらっしゃい
ませ、有り難う御座います・・・と基本的なことを説明。じゃー
着替えてと言うことになり、制服を渡されましたが、私の着て
いたものを入れるロッカーの管理担当者が居ないとのことで、
その辺に置いておいてと言うことになり、制服を着て売り場
に。この時点で、私は何をやらされるか、まだ説明が無い。

商品の出し入れなら、倉庫のほうかなと思っていたら、売り
場でカートに積んである商品を陳列棚に並べるように言わ
れた。私の担当は通り3本で、そこの商品を覚えて欲しいと
のこと。ははーん、これを覚えられなければクビだなと、思っ
ていると、10時になったらしく、お客さんがドーっと入って
きた。そしたら(私は知らなかったのだが)今日は冷凍食品
が半額の大売り出しで、その売り場が戦場状態。すぐそちら
に呼ばれて、冷凍食品の補充。

凄いですねー、冷凍食品が半額となると、見ているうちに
陳列棚に並べた商品が減って行きます。補充と言っても
お客さんに気づかれないようにこっそり補充なんて言って
られません。お客さんのすぐ脇に置かれたカートに積まれ
た商品のダンボール箱を開いて商品を出し、売り場の冷凍
陳列ケースに入れて行きます。人気商品を覚えなければ
いけません。倉庫から、カートへの補充はベテランパートが
やっています。それを間違えると、売り損が出ます。私の
ような下っ端パートは、ただ目の前の商品を開けて並べる
だけです。それでも、人気商品は、早く。不人気商品は後で
も良い。これは覚えなければなりません。

当然のことに、私は制服を着てます。「あのー、長崎チャン
ポンは何処?」とか「いつものカボチャが無いけど」と声を
掛けられます。はっきり言って知りません。けど知りません
って返事は無いから、うどん、そば、スパゲッテイのところを
探します。あれば「ここです」って返事できますが、無い時は
「あー、今切れてるようです」と返事するよりしょうがありませ
ん。多分、これは、返事としては失格なんでしょうね。ベテラ
ンパートが居れば聞けますが。3時間は、あっと言う間に過
ぎました。

職員に印鑑を押してもらって勤務表を出して、制服を返そう
としたら、ロッカー管理者がレジに入っているとのこと。そし
たら「すいません、制服持って行って、今度来るとき持って
来て」でした。まー、今日は大売り出しで特別なのかな?い
つもこんななのかな。日本を代表するスーパーマーケットね。

家に帰ってきてから思ったこと。我が家は殆ど冷凍食品を
買っていないってことです。あ、焼きおにぎりとピザくらい
ですね。今日これから自分の家のすぐ近くのスーパーの
冷凍食品売り場を見てきます。あそこは、商品の補充を
いったいどうやっているんだろう。今まで何回もあの店に
行きながら、そういう視点でものを見てなかったな。今日は
そこを見てやろう。



無賃乗車の神?最後

2007-11-08 11:54:17 | Weblog
無賃乗車の神?最後            2007-11-08

薩摩守(さつまのかみ)平忠度(ただのり)は都落ちした
後、一ノ谷の戦で源氏方の武将・岡部忠澄(六弥太)に
討たれて死ぬが、死の直後、箙(えびら=矢を入れて背
に負う道具)に結びつけていた短冊に書かれていた和歌

「行き呉れて木の下蔭を宿とせば花や今夜のあるじならまし」

を読むにつけ、源氏の武将も文武両道に優れた忠度の
死を惜しんだと言う。

小学唱歌「青葉の笛」の2番の後半2行は、この話を表し
ています。

 『更くる夜半に 門を叩き
 我が師に託せし言の葉哀れ
 今わの際まで持ちし箙(えびら)に
 残れるは花や今宵の歌』     

忠度を討ち取った岡部忠澄は、忠度の菩提を弔うため、
自分の領地の中のもっとも景色の良いところに、「平
忠度供養塔」を建て、現在、埼玉県深谷市の市指定文
化財となっているそうです。

さて、和歌の先生、五条の三位(藤原)俊成卿ですが、
歌人として新古今集、千載和歌集、述懐百首等を表し、
90歳の長寿を全うしました。その子定家は、官位は正
二位権中納言(1232年(寛喜4年))に昇りました。歌人
としても優れ、小倉百人一首を撰じたことで有名です。

後年、江戸時代になり、人々は、故事来歴を川柳に
詠む楽しみに興じましたが、その中で:

『御父子して 千と百とを 御選み』 

と言うのが有りますが、これは俊成と定家親子のこと
です。

そして、平家は都を落ちてから2度とは還って来なかっ
た訳ですが、そこに入って来たのは木曾義仲でありま
した。

無賃乗車の神?2

2007-11-03 13:06:08 | Weblog
無賃乗車の神?2            2007-11-02

キセルや無賃乗車のことを薩摩守(さつまのかみ)と言う
のは、平忠度(ただのり)に由来するしゃれで、狂言の薩
摩守にも使われていることから、日本人は古来より、この
しゃれを楽しんできたようです。しかし実際のと言うか、
平家物語に描かれている忠度都落ちは、このしゃれとは
全く無縁で、とてももの悲しい話です。

テレビが一般家庭に普及する以前に、我が家では父が
時々、昔話をしてくれました。私の父は、話上手で、話は
いつも面白く、心わくわく聞いたものでした。その中で、
いつかこの話をしてくれたことを今でも覚えています。私は
父が平家物語を自ら読んだかどうかは知りません。しかし
昔の日本人は、少なくとも私の父は、今は歌われなくなった
唱歌「青葉の笛」 からこの話を知っていたようです。

 『更ける夜半に 門を叩き
 我が師に託せし言の葉哀れ
 今わの際まで持ちし箙(えびら)に
 残れるは花や今宵の歌』     

その話(平家物語、巻第七、忠度都落。上の歌詞では
前半2行)をArui流に訳します。

都を落ちた筈の薩摩守忠度(さつまのかみただのり)が、
どこから舞い戻ったのでしょうか、侍五騎とわらべ一人を
伴って、五条の三位(藤原)俊成卿の館の門前に立ちま
した。門は堅く閉ざされています。薩摩守が、 「忠度です」
と、名乗りを挙げましたが、館の内では、 「落ち武者が帰っ
て来た」と、騒ぐばかりです。 薩摩守は馬から降りて、
自ら大声で宣言しました。 「特別の訳があって来たのでは
有りません。三位殿(俊成のこと)に伝えたい事があって、
忠度がやって来ました。たとえ、門は開けなくて良いです。
私の近くまで寄ってきて下さい。」

すると、俊成卿が、 「忠度殿なら問題ない、開けてお通し
しなさい」と、門が開いて対面されたのです。薩摩守の申し
ますには、 「長年に渡って歌の指導を受けて以来、大変
有り難いことだと思いながらも、この2・3年は、都の災い、
国々の乱れが、当家の上に降り掛かって、いつも気になり
ながらもお伺いも出来ませんでした。帝も既に都を落ちて
おり、一門の運命も、最早、尽きてしまいました。 勅選
和歌集が編纂されると聞きました。生涯の面目のために
1首でも採用されたいものだなと念じておりました。その内
に世は乱れて歌集の話も沙汰止みになり、誠に残念です。
また世間が落ち着けば、勅撰の話も復活するでしょう。
この巻物の中に、私が作った和歌が有ります。吟味して頂
いて、たとえ1首でも載せて頂けたら、草場の影で喜びます。
そのご恩に報いるよう遠くからお守りいたします。」

そう言って鎧の引き合わせの処から取り出して、巻物を
俊成卿に差し出しました。その巻物には日頃から詠んで
いた歌の中から、これは良いというものを100余首書き記し
てありました。これを手に取った俊成卿は、 「このような
忘れ形見を頂いたからには、決して粗略には致しませぬ。
信じて下さい。このような時に、よく御出で下さいました。
貴方の深い思いに、感涙いたしました」と、申されました。
薩摩守は喜んで、「もうこれで、西海の底に沈もうと、屍
(しかばね)を山野に晒そうと、この世に思い残す事は有り
ません。さらばお暇(いとま)申します」と、馬にうち乗り甲の
緒を締めて、西を目指して去って行きました。
 
俊成卿が門前に立って、遙かに見送っていますと、薩摩守と
思しき声が、”前途程遠し、思ひを雁山(がんざん)の夕べの
雲に馳す”と、遠くから高らかに聞こえます。俊成卿もあまり
の名残惜しさに、涙を押さえて館の中に入るのでした。

その後、世の中が落ち着いて、俊成卿は千載集(せんざい
しゅう)を編纂されましたが、忠度の在りし日の姿、言い残した
言葉が、今更のように思い出されて感慨に浸りました。あの
忘れ形見の巻物の中には良い歌がいくつも有りましたが
勅撰ともなると氏素性を明らかにせねばならず。今や朝敵と
なった平忠度の名は出せず、故郷の花と題された歌1首が
詠み人知らずとして選ばれたのです。

    ” さざなみや 志賀の都は あれにしを 
               昔ながらの山桜かな ” 

こんな良い歌を詠み人知らずにしなければならなかったのは、
誠に残念なことでありました。



中日おめでとう

2007-11-02 00:35:21 | Weblog
中日おめでとう                  2007-11-01

日本シリーズは中日の4勝1敗で決まりました。去年のちょうど逆で
決まりましたね。

私は横浜在住で横浜フアンです。同じセの中日を応援する気持ちで
見ていました。巨人を3タテしたクライマックスシリーズの力は凄かっ
たですね。

しかし、判らないのは日本シリーズの前に帰国してロイヤルズ入りを
発表したヒルマン監督です。何故あの時期にあんなことしたんです
かね。何か慌ててあの時期にやる必要が有ったのでしょうか?私は
あのニュースをTVで見て、あー、もうヒルマン監督は日本シリーズの
ことを全く考えていない。見方によってはどうなっても良いと思ってる
と感じ取りました。うっそー何故?何故今なのー?と叫びましたよ。
日本ハムのフアンでもなんでも無いのに。

私が日本ハムの社長なら、ヒルマン監督のあの行動は許可しません。
どうしてもヒルマン監督或いはロヤルズの都合であの時期に離日して
あの発表をしなければいけないのなら、ヒルマンをあの時点で解雇
します。そして日本シリーズは梨田監督で戦います。

あのニュースを見て、これで中日の勝ちだーとも叫びました。別に確か
な根拠があっての見通しでは有りませんでしたが、もし中日が負ける
ようなら、日本プロ野球の恥じゃないかと思いました。

落合監督、中日の選手諸君、よくやってくれました。おめでとう。そして
有り難う。               横浜、来年は頑張るぞー。

無賃乗車の神?

2007-11-01 23:15:09 | Weblog
無賃乗車の神?                2007-11-01

さて私が聴講している横浜タウン新聞文化講座「平家物
語」を読み通すも、だいぶ進行しまして、いよいよ平家の
没落が始まります。平清盛の死が、桐一葉散って天下の
秋を知ることになります。今まで平家の言うことを聞いて
いた各地の豪族武将が、平家の言うこと、つまり源氏を
討てとか、源氏を討つために出征する平家の武将に援軍
を送れと言う命令・要請を無視するようになります。

そして決定的に源平の勢力が逆転するのが、倶利伽羅
峠(くりからとうげ)(富山県と石川県の境に位置する峠)の
戦いでありました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%B6%E5%88%A9%E4%BC%BD%E7%BE%85%E5%B3%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

結果として、戦上手ではあっても、数の少なかった木曾
義仲の軍勢に、平家は6万8千騎を失ってしまいます。

こうなれば優劣は誰の眼にも明らか、皇室も自己保全の
原則に従い、強い方に乗ります。安徳天皇(清盛の外孫)
は平家がしっかり確保しているが、わずかに6歳。当然源氏
は、天皇の祖父にあたる後白河法王に取り入り、平家追討
の院宣を取り付けてあり、平家は今や朝敵となってしまいま
した。このような状況の中で、平家の武将が次々に都を落
ちて行きます。

その中でも、特に涙を誘うのが薩摩守忠度(さつまのかみ
ただのり)の都落ちでありましょう。