Aruiのスペース

自分の身の回りで起こったことの記録であったり、横浜での生活日記であったり・・・です。

天津148

2005-05-31 20:16:11 | Weblog
天津148  仏、欧州憲法を否決            5531
                                                            
一昨29日、フランスで実施された国民投票で、欧州連合(EU)の基本法である
欧州憲法の批准が反対55%で否決された。70%の高投票率での結果で
事前の予測よりも大差がついての否決だそうである。本来この問題は、中国・
天津に住む日本人である私の知ったことでは無い。ただ10日程前まで、短期
ではあるがSwedenを旅行して、EUに対するSwedenの友人の意見が耳に
残っていて、私としては、一般庶民の気持ちが判るような気がします。NHKの
フランスの特派員は、今回のフランス人のnonは、拡大EUが実現すると、会社が
製造コストの安い地域に工場を出して、結果、自分達の生活が脅かされると
いう恐れから出されたものと解説してました。私は聞いていて、そんな馬鹿な!
と思いました。会社が製造コストの安いところに工場を出すのは、経済共同体を
持たない日本でもドンドン進んでる、今更何をと思いました。日本は相手の国民
から嫌われてる中国にまで工場進出してますよ。

SwedenはEUに加盟しましたが、通貨はユーロにせず、以前通りKronaを使用
しています。人口870万人、高度な社会福祉を実現し、そのコストを維持する
ために高い税金を払っています。所得税も高いですし、消費税は25%です。
外国人もSwedenに住めば消費税を払う訳ですから、社会保障の恩典を
受けられます。だから外国からの流入が多いです。天津144で書いた街の広場
でのウオッチングでも有色の人達が増えているのが判りました。白人の流入も
多いのでしょうが、これは広場でのウオッチングでは判りません。バルト海対岸の
エストニア、ラトビア、リトワニアの人達がSwedenに来るのはわけないですし、
来ても私には見分けがつきません。有色はアフリカ系、中東系両方が増えてます。
アジア系はそれほど目立ちません。兎に角現実的に、高福祉は外国人を招き
寄せます。

私がSweden滞在中に世話になった友人のうち、レイはEU加盟に反対でした。
彼の意見はSweden人はヨーロッパ人とは違うと言うんです。どうしても一国経済
で成り立たないから他国と経済統合するなら、カナダやアメリカ東部の方が親近
感が強いと言うんです。彼は私の顔を見て、こう言いました。お前は世界のあち
こちを見てるから判るだろ、俺たちと、ポルトガル人やスペイン人と、どこか共通
する所があるか?言葉は勿論違うが、気候も違う産業構造が違う、食べ物が
違う、気質も違う。EUに加盟してしまった今、彼はこう言います。EU本部のある
ブリュッセルがクレムリンだ。彼らが勝手に命令し、結局俺たちは、それに従うほかは
無い。

もう一人の友人、ベアは経済人として、EU加盟に賛成したそうです。ですが
今は、加盟した後にいろいろ遭遇する矛盾に、不信を感じています。例えば、
天津146に彼らの食事について書きましたが、彼らが食べるパンは、パサパサの
黒パンかクネッケと呼ばれるカリカリに固い、薄いパンが中心でした。それがEU加盟
後、近所のスーパーマーケットには、こういったSweden古来のパンに替わって、
ヨーロッパのどこかで作られたパンが海を越えてトラックでやってくるそうです。それは
消費者が安いパンを選択した結果で、仕方がないが寂しいと言います。ベア夫婦は
値段の高い昔馴染みのパンを買っていました。彼の本業であった電池の製造は、
Swedenでは無くなり、スペインとかフランスの工場で生産されて、昔、彼が居た
工場にデポされ、彼が住むイエーテボリにあるVolvoの工場に納入されます。それは
経済原則に適っているから当然と受け止めています。ところが、彼は砂糖を例に
挙げました。西インド諸島の砂糖キビから作る砂糖を買えば、ヨーロッパ圏内で
作られる砂糖大根から作る砂糖の4分の1の値段で買える。それなのに、EU政
府は補助金を出して、EU内の砂糖大根農家を保護してる。何故そうなったかと言えば、
最初にECを作ったヨーロッパの国に砂糖大根農家がいた。それを保護したばかりに、
あとあと拡大加盟した国の砂糖大根農家を保護し続けるはめになったらしい。保護は
打ち切るのが難しいのは日本だけではないと言うことですね。これで終わればまだ
良いんですが、麦や乳牛で立ち行かなくなった農家が、砂糖大根に転換する動き
があるとのこと。そんなに高い砂糖大根ばかり作ってどうする。これに似た話が農産品
にはつきまとうとか。

私がたまたま知っているレイとベアの意見がこうだからと言って、Swedenが
EUから脱退する訳も無いですが、今回のフランスのnonで拡大は、危うくなり
ました。次のオランダの国民投票も事前予想では、否決されそうだとのことですが、
否決が決まれば、難しいでしょうね。2007年のブルガリアとルーマニアの加盟
までは決まってるようですが。そんな、イスラム教国のトルコまで入れなくても、と
思いますが、どうなんでしょうか。ま、小さなお世話ですよね。でもね、これは日本が
アジアの国々と経済共同体を作る時に、必ず問題になる点です。農産物の保護、
資本移転、宗教です。





天津147

2005-05-30 16:08:06 | Weblog
天津147  最近のBarのこと。            5530

この欄で何度も取り上げた外人Bar・Delightですが、ますます人気で、私が
働き住んでいる天津開発区の中のBarとして一番流行ってます。2年半前に
私がこのBarに通い始めた頃は、外人客と中国人客は半々か、外人の方が
少し多い位の感じでしたが、今は外人客数は前よりやや多い位で、後は中国人
が圧倒的、3対7の感じです。そして金曜日の夜は生バンドの演奏が始まる
9時半頃になると、席が有りません。カウンターもテーブルも満席です。そうなると
60-70人は入っていると思われます。

私は客の中で最古参なので、どんなに混んでいても、立ったままでワインを飲み
ます。まさにスタンドバーですね。別に最古参でなくとも立ったままで酒は飲めますが、
カウンターやテーブルの無い所に立って酒を飲む訳ですから、周り中知らない人だと、
勇気が要るような気がします。私の場合、カウンターに近づけなくとも、中のハリーか
ローズと顔が合って、口をホンジョー(紅酒)と動かせば、赤ワインが届きます。
音楽で、話し声では、聞き取れません。私が両手の親指と人差し指を会わせて
三角形にすると、スコッチウイスキーのグレンフィディック(瓶が三角なので)が来ます。
ま、これしか飲んで無いってことですね。

中国人客の様子ですが、男性と女性に分けて考察すると6(男)対4(女)でしょうか。
男性の常連客は、何時来ても顔を会わせる人達が増えました。ウイスキーの
ボトル(シーバスが多い)をキープしてスプライトかコーラで割って飲む人が多いです。
安く上げたい人は、ウイスキーの替わりにSwedenのAbsoluteと言うウオッカを
キープします。シーバスが400元、Absoluteが200元です。期限は3ヶ月と
言うことですが、向こうが忘れていますから、だいたい何時までも有ります(こっちが
飲まなければ)。私が飲むワインが一番高くグラス1杯35元、ビール小瓶が25元、
生ジョッキ(大)も35元、ウイスキーがショットグラスで30元、一番安いのが缶コーラ
10元だと思います。これで音楽とダンスを楽しんで帰る女の子もいます。(現在、
1元=13円)日本よりも高いですが、ここは@かける数量のみで、カバーチャージ
だのテーブルチャージだのセット料金などかかりません。税サービス料もありません。
単純明快です。それでも、ここへ毎晩のようにやって来れる中国人ってどんな人
なんでしょうか。普通のオフィスワーカーなら月給は3000-4000元です。

昨日の日曜日、寮の小母ちゃんが休みだったので、晩飯を外で食てから、8時前に
Delightに行き、外のテーブルでワインを飲んでました。そうするとここへやってくる
中国人の車が(外国人は、この近くのマンションやホテルに住んでいる人が多く、
歩いてきます)、ほとんど新車の高級車であることに気がつきます。凄い所得の
伸びが実感できます。ちなみに、この開発区で最近製造を開始したトヨタの
クラウンの工場は、月産5000台でスタートしたそうですが、常時受注済みが
8000台だそうです。相変わらず、良い商売してますね。

さて、中国人女性客の観察ですが、3組に分類して、いつも決まった男性と来る
グループと女性だけで来るグループ、そしていつも外国人と来るグループになります。
特に興味を引かれるのは女性だけで来るグループですが、複数で来るグループと
一人で来るグループが有ります。複数で来るのはたいてい若いOLか学生風で
2-3人の仲間で来たり、誕生祝などで10人くらいの団体で来る場合もあります。
明らかに、中国に無い或いは無かった雰囲気を求めて来ており、外国人から話し
かけられるのを喜んでいます。最近特に目立つのが、この複数組の中に、ちょっと
ケバイ女性たちが現れました。眉も剃って、やや濃い目の化粧をして、スパンコールの
ワンピースでハイヒールとなると、普通の会社勤めとは思われず、どこかお水の方が
Delightの様子を見に来たのかなとも思います。さりとてコペンハーゲンの特殊な
ナイトクラブの女性のように男を直接に誘う訳では無く、大連のBarの女性の
ように視線で誘う訳でも無く、男たちを時々はチラっと見るだけでそれ以上の
ことはありません。先週の金曜日、アメリカのおっちゃんがダンスに誘っていましたが、
誰も応じてはいませんでした。なんなんでしょうか、気になります。

一番困るのが一人で来る女性です。特に30は充分に過ぎていて、しっとりとした
雰囲気で、悪いことに美人だったりして、それが私の傍のカウンターだったり、正面の
席だったりすると、最悪です。このまま何もしないで居ることが罪悪のように思えて、
(いえ本当は私が何かすることが罪悪なんですよ)心落ち着きません。お願いです!
こういうのは是非辞めてください。

天津146

2005-05-23 09:09:00 | Weblog
天津146  Swedenの旅ー4-最終回

翌日、私がSwedenの会社に勤めた後半の時期に担当した電池の工場に
行くことになっていました。ベアがアレンジしてくれたのです。但し、工場はフィン
ランドの会社に買収された後、スペインの会社に買収され、その後、アメリカの
会社に買収され、工場の整理統合が進み、今は工場の一部が物流倉庫に
なっていて、私達が知っている人は誰も居ないとのことです。それで隣の町に
ある研究所に行くことになりました。産業電池と自動車電池の2部門を
代表してスベンソンとエルヒが出てきました。懐かしい仲間です。私達は再会を
喜び合い、私が中国で何をしているか、彼らが、いま会社がどうなっているのか
説明をしました。これはベアに取っても久しぶりに聞くことでした。スカンジナビア
諸国には電池の工場が一つも無いようになってしまったことが判りました。実に
寂しいです。夕方、ベアの娘カタリナの娘サラが通うダンススクールの発表会
があるので、見に行くベア夫婦に付いていきました。このスクールには下は
幼稚園児から上は70歳代の夫婦まで、300人程の生徒が居てダンスを
習っていて、春秋2回発表会があるのだそうです。スタンダードの部とラテンを
習い、その時期に教わった踊りをグループ毎に発表するようです。日本の
お稽古事の発表と違い、完璧さを求めません。スクールに入ってきたばかりの
子で、まだステップを覚えて居ない子も混じっています。一つのダンススクール
の発表会が体育館で行われ、その観客席が満席になると言うのも驚きでした。
その客席でカタリナに会いました。12年前に来た時には、彼女は社会人に
なっていて、ベアの家には居なかった筈です。その前に会ったのは彼女が中学生
の頃だったでしょうか、家で兎を飼っていて、その名前がルドルフでした。ってことは
20数年振りの再会です。握手をした瞬間彼女は私に抱きついてきて、ここで
貴方に会えるなんて、とても嬉しいですと言ってくれた。やや遅れてやってきた
彼女のご主人とも会いました。サラの踊りが終わってすぐ、私達はカタリナ夫妻と
別れて、ベアの家に戻り、遅い晩御飯を頂きました。北欧のSwedenはこの
時期、日が沈むのは9時過ぎになります。ここから1400kmほど北上すると、
太陽が沈まない場所(白夜)になるそうです。

今回私がご馳走になったSwedenの家庭料理ですが、レイ家の場合、朝は
パンとバターとハム、ソーセージ、チーズ、それにコーヒーか紅茶になります。
野菜は、トマトと胡瓜が2-3切れです。ドレッシングは無く、塩コショウで食べ
ます。ベア家の場合は、蜂蜜とジャムが付きます。昼も殆ど朝と同じです。
夜は、暖かい料理が1品付きます。パンとハム、ソーセージが消えて、じゃがいも
が替わりに出て来ることがあります。暖かい料理は、じゃがいもとベーコンを
クリームソースで炒めて、卵とじにしたもの。タラをクリームソースで煮たもの。
友人が撃った鴨の胸肉のステーキ、甘いジャムを付けて食べます。ショットガン
の玉に気をつけるように言われたが、入っていなかった。ベア夫妻と一緒に
買い物に行き買ってきた狼魚のステーキはベアが全て料理してくれました。
少しの酢に多目のオリーブオイルに白胡椒とコリアンダーを混ぜて、それに魚の
身を2時間ほど漬け込み、マリネ状態になったやつを炭火でじっくり焼くのです。
これは美味しかったです。一切れ半も頂きました。一度夕ご飯でマカロニを
頂きましたが、マカロニを多めに茹でて、オリーブオイルとバターを絡めて置いて
おき、ミートソースと粉チーズを混ぜて食べます。あとはワインだけ、実に質素です。

昨年12月26日のインドネシア地震では主にタイのプーケットで多くのSweden
人が死にました。300人にも上るそうです。それでSwedenのロータリークラブ
では、多くの寄付をしているそうです。ベアが所属するロータリークラブではスリ
ランカへの寄付をすることになり、すぐに40’コンテナ一杯の荷物、古着、古靴
毛布に加えてお米をコロンボに送ったそうです。船は今年の3月には向こうの
港に着いたのですが、救援物資に混じって武器とか麻薬が送られてきた事件が
発生したために、全ての救援物資が通関差止めになり、ベアはロータリーの
役員として、スリランカの大蔵大臣に、彼らのコンテナにはそういう危険な物は
入っていない旨の手紙を作成しFaxで送り、早く通関して物資を被災者に
届けて欲しいとの請願を担当していました。私が彼の家に居る間にもそのための
電話がしょっちゅう掛かってきていました。

私が北京に帰る日には、ベア夫妻はイエーテボリ空港まで私を送った後、そのまま
Swedenを横切って東海岸まで走り、そこから船で小島に渡り、別荘で1週間
過ごす計画だそうです。それで私のSweden滞在最後の日は、朝飯を彼らと
一緒に取り、出かける支度を一緒にして、車でイエーテボリ空港まで送って貰い
ました。国際線出発ロビーの前で、別れの挨拶です。彼が言う「私達の家に来て
くれて有難う」と言う言葉に、涙が溢れそうになりました。今度は私が日本で待って
居るよと言い、ベアと抱き合い、ニラと抱き合い、彼らの車が遠ざかります。北欧の
朝の眩しい太陽の下で、我慢出来ずに零れ落ちる涙を拭きながら、私は思いっ
きり手を振り、走り去る運転席の窓から手を振るベア達を見送りました。
2005-05-23





天津145

2005-05-22 09:21:56 | Weblog
天津145  Swedenの旅ー3-

15日、ストックホルムからイエーテボリに移動する日です。レイはストック
ホルム駅10時10分発の特急列車の切符を買っておいてくれました。
彼の計算で8時15分に出れば間に合う筈とのことで、彼の家を出ました。
市の中央に近づくに従い、道路は混んできました。用心深いレイは、
ここから地下鉄にしようと言い、地下鉄大学駅の駐車場に車を止めて
駅まで荷物を持ってきてくれました。私たちは改札口の前で堅く握手をし、
3日間世話になったお礼を述べました。彼は、日本には5年以内に行くよ。
私は、必ず待っているよと言い、別れました。30年前、ストックホルムの
本社に仕事で来た時には、いつも地下鉄で通っていたので、それを思い
出しながら、地下鉄中央駅で降りました。地下鉄の出口を間違えなけ
れば、国鉄ストックホルム駅はすぐ目の前です。もう何年来て無いのだろうか、
駅は明るく綺麗になっていました。コーヒーショップや、いわゆる駅の売店が、
何軒も入っていて、競争しているのが良いですね。出発時刻が近づき、
指定の10番線ホームで待っていると、特急列車がホームに入ってきました。
2号車の45番シートに座ろうと車内に入ると、なんと1st class。定刻に
なったら、ベルの音も無く、何の放送も無く静かに動きだしました。動き
出すとすぐ女性の車掌が切符の拝見にやってきました。私が、電源あり
ますか?と聞くと、51番の席にありますと教えてくれた上に、51番の席に
座ってる人に、私と場所を替わってくれないかと頼んでくれました。親切
ですね。それで、私は今、特急列車の座席でこの部分を入力しています。

13:15 定刻より2分遅れて列車は小雨に煙るイエーテボリ駅に到着しました。
この前ここに来たのは多分12年前、やはり、ベアが迎えてくれていたのを
思い出しながら、私は列車から降りてホームの先頭に向かって歩きました。
プラットホームの最先端に、12年間まるで歳を取らなかったように、69歳の
ベアは立っていました。私の方が先に彼を認識し、手を振りながら近づき
ました。やや遅れて私に気がついた彼は、ニコっと笑って頷き、私達は
がっちり抱き合いました。まさにベアハグです。You are here,again.と
彼は言いました。Yes,I'm here again,It's unbelievableと私は
答えました。駐車場まで歩きながら、私が中国で何をしているのか、今回の
旅のこと、私の家族のことなどを一気に話しました。

彼と初めて出会ったのは、彼が私達の会社の乾電池工場の工場長の時、
35年前のことです。その頃、日本の乾電池の技術は、世界のトップに
たっており、日本の某社の電池を、外観はSwedenのわが社製のデザインで
OEM生産して、Swedenまで送る。そういう仕事でした。日本側の仕事は、
私が担当しました。単1、2.3と006Pを注文の都度、コンテナ満杯になる
ように数量を調整して日本のメーカーに発注し、横浜からナホトカ、シベリア
鉄道経由、バルト海のターリン、ストックホルムと言うルートで送りました。
その電池がSwedenのスーパーマケットで売られているのを確認した時は、
思わず買ってしまいました。とても嬉しかったのを覚えています。

彼のsaab9000に乗って、彼の近況を聞きました。私は7年間Swedenの
会社で働いたと書きましたが、最後の2年間は、会社の所有者はフィンランドの
会社になっていました。私に取っては、この変化はたいしたことでは無かったの
ですが、Swedenで工場を運営している彼に取ってはいろいろ苦労があった
ようです。前回会った後、1年で会社を去り、友達の会社を2年間手伝って
定年退職しました。奥さんのニラは、彼より若い分、定年退職が後になり、
その間ベアが主夫をしていたそうです。娘さんのヘレナとカタリナはともに
結婚し、ベア達夫婦には、4人の外孫が居ることが判りました。家に着くと
ニラが満面の笑顔で迎えてくれ、10年以上会って無かったけど元気そうね
と言ってくれました。銀行でコンピューターの仕事をしていたニラは英語が
できます。キッチンでサンドイッチとコーヒーを頂いて、街に出ることにしました。
5月だと言うのに気温は10度ほど、肌寒いです。ベアの案は、寒くなければ
港内を巡航する船に乗ってイエーテボリの町を私に見せると言うものでした。
それで旧市街をオペラハウスまで歩いてイエーテ川の畔に立ち、風の様子で
判断しようと出かけました。車を駐車場ビルの中に置いて、予定のコースを
歩いて川べりに立つと、風は冷たく強く、今日は辞めようと言うことになりました。

私たちはベアの家に戻り、20畳はあろうかと思われる応接間兼リビングで、
ニラの好きなジントニックを飲みながらいろいろな話をしました。彼の家は
イエーテボリの郊外に有って、広さは200㎡は有ると思います。1階は客室で
ベッドルームとトイレが独立して付いており、ガレージと物置が有ります。2階に
リビングと夫婦のベッドルームと書斎、キッチン、食堂が有り、そして広い庭に
出られるようになっています。庭は200㎡は有ろうかと思います。木の柵で
囲われており、柵の外は市有の森になっていて、冬の食べ物が無い季節には
鹿やエルク(大きなヘラ鹿)がやってくるそうです。彼の趣味はヨット、旅、ジャグア
に乗ることでしょうか。ガレージにはジャグアが1台有るのに、更に1台の中古が
あって、今は完全に分解中で全部品を点検しながら、悪い部品は交換しながら、
再組み立てを、ゆっくりとやるのが一番の趣味のようです。パソコンは訳もなしに
固まったり、言うことを聞かない時が有るので、どうも気に入らないと言って
いました。それでも私が薦めたSkypeをダウンロードしたので、これからは
会話ができるようになりました。彼のPCから自分のコミュに入ることができました。
日本語が読めるソフトをDLして読みました。日本語での書き込みは、出来
ませんでした。PCの達人なら出来るのでしょうか?英語で短いメッセージを
upしておきました。また、私のPCに彼のADSLのラインを接続してみましたが、
netに入れませんでした。これが出来れば、日本語で書き込み出来た筈なん
ですが残念でした。

天津144

2005-05-21 17:35:23 | Weblog
天津144  Swedenの旅ー2-

私がSwedenに行った時に、初めて彼の家に招待された時の記憶は、
鮮明です。彼の家はストックホルムの北60kmのところにあり、会社へは
毎日、片道1時間半の運転です。ストックホルの街を抜けると、美しい
田園風景が広がります。通常は車は多くありませんが、乗馬を楽しむ
人が多いのと、動物が道路に出てくる場合が多いので、ところどころ
減速の表示があります。路上で跳ねられて死ぬ動物としては、あらいぐま
が多いそうで、逆に路上で当たって、人間が死ぬのはエルク(へら鹿)だ
そうです。彼の家は先祖代々そこに住み、彼の家に近づくと、森も畑も
池も、彼のものだとのことです。初めて訪ねた時に、まず彼の両親の所に
行き、挨拶しました。お父さんは、畑の上の大型耕運機の上から手を
振ってくれました。お母さんに挨拶して、彼の家まで敷地の中を車で
移動しました。そして着いたところは彼の新居で、これを自分で建てたと
言うのです。木は父の森の木を切り、製材所に頼んで材木にし、乾燥
させ、土台、基礎、石組み屋根葺き等、全部自分で、時々父に助けて
貰い、2年半かけて建てたそうです。120㎡で地階と1階の2階建て、
延べ240㎡の立派な家でした。電気工事だけは専門家に頼み、
ボイラーから暖房設備までユニットを買って、工事は自作だそうです。
話を聞いて驚きの連続でした。

彼は優秀な技術者でしたが、私が会社の指示で電池の仕事に移った
頃に、彼の父がなくなり、彼は会社を辞めました。広大な土地と森を
管理するのは、彼しか居なかったからです。今は森林の管理と、辞めた
会社から部品の組み立てを頼まれて、一人でそれを引き受け、貸家も
何軒かあり、大きな建物を建て、ガレージにして、主にストックホルムの
人の車を預かっています。冬は車を運転しない人がかなり居るのと、
海外勤務になった人が預けていくケースがかなり有ります。それとアン
テイークカーの預かりが凄いです。1926年のT型フォードが有るのには
魂消ました。農業は辞めました。お父さんから引き継いだ直後は、麦を
作り、乳牛を飼っていましたが、損益計算上どうしても合わないのと、
動物を飼うと休暇が取れないので辞めたそうです。牛小屋がガレージに
なり、牧場は貸家や貸地の住人が馬を飼っても良いかと言うので許可し、
普通はそういう場合なにがしかの料金を取るのだそうですが、彼は無償で
OKしているとのこと。馬は草を喰ってくれるから、チャラだと言っていました。

今回、私が泊めて貰うのは、ご両親の家で、お母さんも2年前になくなり、
今は長男のソミーが住んでいるのを3日間空けてくれたとのことで、ソミー
御免!20畳くらいのリビングと10畳ほどのキッチンと2Bed roomに
4畳のサンルームがある広い家に一人で居ます。朝晩は寒いので、お母
さんが愛用していた、薪コンロに薪をくべてお湯を沸かし、その傍で
文字入力しています。彼の家はここから車で移動したと書きましたが、
その家は貸家にして、今は、両親の家の傍に、新しい家を、自分で
建て、そこにレイと奥さんのローズと次男のエッキが住んでいます。前の
家より大きいが、地階が無いので、面積的にはやや狭いんだそうです。

昨日14日、彼が勤めていた、そして私にとってはSweden本社の場
所に連れていって貰いました。今はドイツの会社に買い取られたそうです。
無風快晴の天気に恵まれ、会社の近くのレストランの外のテラスで
昼食をゆっくりと取りながら、街の広場を行き来する人達をみながら、
レイと昔の思い出を語りあいました。私達が知ってる何人かが亡くなって
いました。30年も経ってしまったんだ。そして彼の家に戻り、森を歩き
ながら、森の管理の話を聞きました。『Swedenの森は個人の所有で
あっても、森林局の管理を受けている。立ち枯れた木は勝手に切っては
いけない。そういう木にしか巣を作らない野鳥とか昆虫が居るので、
その世態系を守るため。逆に風倒木は、森を傷めるからすぐ処分する。
管理が悪いと、貴方のあそこの森は、何%の伐採を何時までにしなさい
と言う命令が来る。守らないと罰金だし、森林所有者仲間の笑いもの
になってしまうので、それは絶対避ける。お金になる、年数の経った
真っ直ぐな大きな木を切るのも一人でやる。どうしても協力者を必要と
する場合は、仲の良い森林所有者と、give&takeで協力し合う。
今はソミーが手伝ってくれる。彼はチェインソーの扱いが上手いので安心だ。
木は建築木材(松、檜)が一番高く売れ、その次がパルプ用の木
(樺の類)。昔は売れた線路の枕木が、今はそういう需要が無い。』
最後にレイが言った言葉は、「いま自分がやっている仕事で一番好き
なのは、森の管理だ」「ただ、良い建築木材になるのに120年かかるん
だよ」私はフーっとため息をつきました。

翌14日、化学分析装置の仕事をずーっと続けていたレナを訪ねました。
その仕事がドイツの会社に買収されたので、彼はドイツに移住し、つい
最近定年退職し、奥さんの方が若いので未だ働いており、今は夏で、
レナのお父さんが所有していた夏の家に一人で来ていました。彼等が
新婚の頃、職場結婚の2人が揃って来日し、据付の完了した分析
装置の運用の指導をしていました。2人の娘さんの写真が彼の机の上に
あり、来週は結婚式なのでドイツへ戻るんだそうです。私はレナに聞きました。
How many years we didn't see each other? 彼は即座に
30 years と答えました。我々は、遠くに光る、バルト海に続く海を見な
がら、coffeeを飲み、そして日本での思い出を語りました。ストックホルムの
港を出たバイキングラインのフェリーが右手から現れ、私たちの視界を
横切って左手に消えて行きました。ヘルシンキへ向かっているのです。


天津143

2005-05-21 07:45:55 | Weblog
天津143   センチメンタルジャーニーSwedenへ

2005年5月13日、私が乗ったKLMオランダ航空機は、Swedenの
ストックホルム空港に無事着きました。18時30分、定刻ピタリでした。
北京空港を発ったのが今朝の10時30分。ちょうど8時間に思えますが
夏の時差6時間を足すと14時間,途中乗り継ぎのアムステルダム空港で
1時間ちょいの待ち時間がありましたが、ヨーロッパへの旅としては、超
順調な旅でした。ここに降り立つのは、もう10年振りでしょうか。私の
念願のセンチメンタルジャーニーの始まりです。チェックイン荷物を、ベルト
コンベアの上から降ろして、出口へ向かう、その途中で両替窓口が有り、
Chinese money OK?と聞くと、OK。助かった、Sweden良い
国だ。日本では中国元を換えてくれる銀行は限られてるし、他のヨー
ロッパの国では換えてくれないらしい。ちなみに1,500元(約20,000円)が
1,235 Sweden Krona。(帰国の際に、アムステルダム空港で
待ち時間が長かったので、試してみたが、中国元はアムステルダムでも
ユーロに交換できた。現在は、ヨーロッパでは中国元の交換は可能と
思われる。つい最近のことらしい)そしてロビーへ出る。レイが迎えにきて
くれる筈だが居ない。暫く椅子に座って待つ。5分程で彼が息子の
エッキと共にやってきた。Nice to meet you,againと硬い握手。すぐ
彼の車で彼の家に向かう。

私がSwedenの会社に勤めたのは、1967年から1974年の
7年間でした。最初の2年間は英語を覚えるのに必死で、更に
社歴が浅いこともあって、たいした仕事を任されていませんでした。
一応仕事を任されて、自分としても活躍できたのは5年と言うことに
なりますが、その中で前半が化学分析装置のSwedenからの輸入、
後半が電池の仕事になります。生化学分析装置の担当部署は、
Swedenの東側ストックホルムにあります。電池の担当部署は西側
イエーテボリーにあります。それぞれの部署は、同じ会社の傘下にあり
ながら、全く交流が無く、それぞれに運営されていました。

生化学分析装置とは、人間ドックに行くと、ガンマGPTが高いとか、
コレステロール、中性脂肪がどうのとか言うあれを、分析する装置
です。分析装置とは、化学実験室で何かの分析をする
時に試験管の中にサンプルを入れ、各種試薬をを入れて、加熱したり
滴定したりして値を出す装置のことです。病院では普通これを外部の
分析センターに外注します。センターでは、その作業を大掛かりに
大量に処理します。それをコンピューターで制御しながら、吸入や注入
の量を一定にし、加熱や冷却の温度と時間を一定にし、分析結果の
精度と信憑性を高めるのが自動分析装置です。これを早くから手掛けた
のがSwedenとアメリカでした。

私の勤めた会社が日本の会社と協力して日本に導入したのは、自動化の
初期の頃でした。だから装置は輸入で、据付試運転はSwedenから
技術者がやってきて行われました。私が今回の旅で最初の3日間泊めて
貰うことになったレイは、その第一号機の据付エンジニアとして、日本に
やってきました。勿論そういう時は私達が手配したホテルに泊まり、据付
現場では、現場近くに借りたアパートに泊まって仕事をしていました。






日記5510

2005-05-10 11:13:21 | Weblog
ちょっとした悩み(日記5425)に書いた、明日11日の山東省済南での
横浜Fマリノス対山東魯能のサッカーの試合の応援は断念しました。
反日懸念では無く、往復の汽車の切符が買えないからです。一人の
切符ぐらい、駅に行って買えば買えると思うんですが、帰りが上手く
行かないと13日北京発の飛行機に乗るのが危なくなるので辞めました。
マリノス勝ってくれよ!これで判ったのですが、どうも中国の火車(汽車)の
切符は、日本のようにコンピューター化されておらず、特に済南のように
大都会で無いところは(山東省の省都なんですが)、止まる汽車の大半が
長距離列車なので、座席指定は買えないようです。そして基本的に
天津に居ては済南発の切符が買えません。済南始発天津行きは1日に
2本くらいあって、それは済南のホテルに頼んでおけば買えるとのことです。

往復とも自由席でもなんとか座れるだろうとか、4時間立っていても良いと
言う前提に立てば、行っちゃえとなるんですが、いまいち勇気が湧きません。
それから、今回いろいろ動き回ったお陰で、次のようなことが判りました。
天津⇔上海等の、長距離特急列車の乗車券指定寝台券などは、駅や
旅行代理店で事前に買える。また天津市内の主要郵便局でも買える。
いずれも3日前に買えるそうです。但し私が住んでる開発区や隣町の
塘沽の郵便局ではこのサービスは扱ってないことも判りました。本当は、
天津駅から60kmも離れた私達こそ、郵便局で切符が買えたら、
良いんですが・・・

天津142

2005-05-06 16:29:00 | Weblog
天津142                       
日記5506
昨夜、米国系中国人と食事をしながら、いろいろ話をする機会が
有りました。彼は間もなく60歳になる男性で、アメリカの大学を出て
アメリカ国籍で、英語は完全にアメリカ人の英語ですが、中国語が
母国語で現在は中国の会社で働き、奥さんはアメリカに住んでいる。
そういう境遇の人です。彼がアメリカで乗ってる車はLexusで、1度
Lexusに乗ると、GMの車にはもう乗る気にならないと言ってました。
兎に角、故障不具合が無い。他の友人でトヨタ車に乗ってる人に
聞いても故障不具合が無いとのことです。GMがトヨタに抜かれる
のは時間の問題だそうです。その彼が、ずばり最近の中国の反日
デモについてどう思うか?と聞いてきました。

私は、率直に私の意見をこう述べました。中国が採ってきた反日
教育の結果、今の若い中国人が反日に凝り固まっている。戦争で
実体験した時代の人よりも反日になっている。彼らの学んでいる
歴史教科書が事実を歪曲し、共産党中国政府に都合の良い
ように教えていると、アメリカの新聞記者も報告している。この影響が
無くなるようになるには、30-40年はかかるだろう。それまでは、
今のような状況が続くと思う。ただ私の持論は教科書問題も靖国
神社の問題も内政問題なので、外国には口を出して欲しく無い。
従って、中国が中国人にどんな歴史を教えようが、口は出さない。
そうすると。30-40年経っても状況は変わらないことになるが、
実際の歴史の流れは、それほど単純では無いだろう。40年後には
中国がアメリカを抜いて、世界一の強国になっている可能性も大
である。逆に、アメリカがそれを嫌って、中国を叩くかもしれない。
日本は労働可能人口が半分になって弱小国になる可能性もある。

彼は、そういうことをはっきり言う日本人は珍しいなと言い、彼の意見を
述べてくれました。80年代、アメリカでは、日本に世界一の座を奪わ
れると言う意見が大勢を占め、日本叩きに腐心した。そして日本は
没落し、アメリカが対日本に大きな差を付け、今は競争相手を中国と
見做している。何時中国に追いつかれるかについては、意見が
別れるが、早い人は10年でと言う。これからはアメリカは中国に対して
いろいろ意見を言うだろうと。最初が、人民元と米ドルのレートの
問題になる筈とのこと。

ここからは、私が言ったことでは無く、いま考えていることですが、中国が
アメリカを経済面で抜いて、世界の最強国になったとすると、日本は
どうすべきなんだろうか。軍事面ではアメリカは当分世界一だろうから、
やはりアメリカと安全保障条約を結んでいるのだろうか?アメリカの方
から、もう安全保障はできないよ、日本が好きなようにして・・・と離れて
行くとどうなるんだろうか。中国と安全保障条約を結ぶ時代が来るのだ
そうか。そうなると歴史問題も、靖国神社の問題も、中国の言いなり
になって、日中は仲良くなり、中国人留学生も中国人入国者も増え、
日本の人口減少を中国人で補う?

ま、そうなる前に、私はこの世とおさらばしてしまおう。


日記5505

2005-05-05 15:54:37 | Weblog
中国のゴールデンウィークは、メーデーの5/1の週をそっくり
休暇とし、その名も労働節となる。日本の緑の日(4/29)は
中国には無いので、今年は、4月30日の土曜日から始まり、
わが社のように5月5日に出勤開始のところもあるが、だいたいは
5月8日の日曜日まで9日間の大型になったようだ。どこの
観光地も旅行者で賑わうとのことで、よっぽど準備良く計画をたて、
または旅行社に申し込んでおかないと、何処かに出かけるのは
難しいらしい。私のように、何もせずにこのGWを迎えた者は、
会社の寮で一人寂しく過ごすことになる。寮の小母ちゃんも
実家に帰ってしまい、食べ物に事欠く有様は情けない。それも
夕べで終わり、寮の仲間も戻ってきて、外食も一緒。今朝は
小母ちゃんの用意してくれた暖かい粥を食べることができた。ホッ