Aruiのスペース

自分の身の回りで起こったことの記録であったり、横浜での生活日記であったり・・・です。

アメリカへ 2

2009-05-31 22:35:51 | Weblog
アメリカへ 2            2009-05-31

私達が到着する空港は、デトロイト国際空港です。そこ
で乗り換えて、シカゴへ行きます。アメリカへの入国
手続きと税関の手続きは、ここでします。デトロイト
からシカゴへは国内便になりますから、国際客として
の手続きは、最初に到着する地でやらないと、処理でき
ません。到着すると、最初にpass controlになります
が、ここでアメリカの国籍を持っている人とビジター
に振り分けられます。

アメリカ人の場所も、ビジターの場所も広く、それぞれ
10列くらいずつ並んで入国管理官のcheckを受けます。
この時に、どの列に並ぶかによって通過が速いか遅いか
運の違いが生じます。日本人ビズネスマンの後ろは速い
です。入国手続きを熟知していて書類記載に不備が無く
質問にもスムースに返答できる場合が多いからです。

英国人とかカナダ人の後ろも速いです。その反対のケー
スは遅いです。英語が判らなくて、機内で配られた入国
関連の書類の記入を全くしてないアジア人の後ろは、
最悪です。書類をその場で書かされて(時間がかかる)
書けると元の列に入る。そして不備が多いからまた時間
がかかる。となります。その列は、ぴたっと止まって
しまいます。私の列がそうでした。隣の列では、タイ人
のお坊さんが、全く英語ができず、入国管理官が、誰か
タイ語の出来る人Help meと叫んでいました。

聞かれることは、基本的に、何時アメリカを出るか。又
は何日アメリカに滞在するか。何しに来たか。(これで
アメリカに不法に住み着くかどうかが判る。不法滞在が
予想されそうな家族だと、そこで完全に停止して、彼等
が別室に移動するまで動きません)そして指紋登録です。
光センサー画面に右手の4本指を密着させて写真に撮り、
親指も同様、次に、左手も同じようにして、最後に顔写
真もカメラで(webカメラのようにレンズだけが見えて
ます)登録保存してOKです。

次は通関。自分の荷物で飛行機に預けたやつを見つけて
税関を通り、すぐ次の便にcheckinです。書類上のcheck
inは」成田で済んでいますので、バッゲージドロップと
いう場所に置けば良いです。そしてセキュリテイcheck。
全員、靴を脱いでます。金属探知機も感度が良くて、私
はベルトまで外して通過OK。ちなみに、日本でもここで
も、持込荷物の中のパソコンは事前にバッグから出して
パソコン単体でcheckを受けます。アメリカ国内のセキュ
リテイcheckは物々しいです。

私達夫婦は、シカゴ行き接続便の殆ど最終客でした。
時間的にはギリギリでした。成田で席まで取れていたの
で少々遅れても、待ってくれるとは思いますが、ハラハ
ラでした。1時間20分飛んでシカゴ・オヘア空港、巨大
な空港です。この便は国内線なので通関の必要が無く、
それでcheckinした荷物のpickupは、最終コーナーで、
空港建物の外側に近く、駐車場にも近いところです。
娘は、そこで待っていてくれました。

アメリカへ 1

2009-05-31 09:41:35 | Weblog
アメリカへ 1            2009-05-30

約10年振りでアメリカに行きます。仕事ではなく遊びで
行くのは初めてです。家内と揃って行くのも初めてです。
私が海外へ行く時、大体は大きな重い荷物を持って行き
ますので、近くの駅まで家内が車で送ってくれます。家
内が外国に行く時は私が車でYCATまで送ります。2人同
時に行くので、今回初めて成田まで車で行くことにしま
した。これも初めてです。

車を成田で有料駐車場に預かってもらうサービスもピン
からキリまで有るようです。一番高そうなのが、空港の
駐車場で車を渡し、帰国時にそこでkeyを返して貰う方式
のようです。私達の場合は、11日間預かって貰うので、
10日パックと言うのが有りました。そこに電話して11日
だと幾らになるか聞きましたら、3000円プラス保険料の
800円とのことで、そこに頼みました。

ここは自分で駐車場まで行きます。29日9時半に家を出ま
した。10時半に家を出れば、計算上は充分に間に合うの
ですが、何が有るか判りません。おまけに雨と来てます。
東京港トンネルの入り口近くで事故が有り、川崎過ぎか
ら渋滞となり、トンネルの途中からはすいすいでした。
成田の駐車場を見つけるのに迷って、少しロスと時間の
貯金は無くなりました。駐車場に着くと、予約の有無を
聞かれ、有ると答えるとすぐの空きスペースに頭から入れ
てと言われ、3800円入りの封筒を渡してOK。予約が無いと
料金は高くなるようです。

私達の荷物は駐車場のお兄さん方がバンまで運んでくれ
ました。もう1組、別のご夫婦と同じバンで、すぐ空港へ。
お互いに、こんにちは。今日ドチラまで?あーそうですか
良い旅をとご挨拶。

空港に着くと、車寄せの柱の番号を指定され、帰国時に
はここへ着いたら駐車場に電話するように指示される。
彼らの車が来た時点で私達が未だ来てないと困るからだ。
空港のロビーから電話しないで、この柱の所で電話して
下さいと念を押される。

アメリカへの最後の旅は10年前だが、その後は、中国へは
何度もここから旅立っている。が今回、ノースウエスト
のcheckinカウンターに着いて、驚きました。checkinが
殆どセルフで出来るようになっています。そういう端末機
がずらりと並んでいます。

まず、パスポートを出して下さいと言われ、出すと端末機
に読み取らせる。すると私が予約したflightの情報が出て
くる。e-ticketのprintは出さなくてもOK。あとはタッチ
パネルで、この便で良いか、席はここを取ってあるが、
これで良いか、荷物でcheckinするのはあるか、デトロイト
からの乗り継ぎ便はこれで良いか、席はどうか、と次々に
進む。家内の分も同様にして手続き完了。checkin荷物を
秤に載せて、タグを貰って全てが終了。

どんなにcheckin手続きが進歩してもsecurity checkは
昔と同じ。ポケットの中の金属類を出して、探知機の門を
潜る。びーっと鳴れば、鳴らなくなるまでやる。これは、
デトロイトでの話ですが、全員靴を脱がされて、私は、何
度繰り返しても鳴るので、ベルトまで外してようやくOKに
なった。さて、そうやってようやく搭乗ゲートまで行き、
あとは時間が来るまで、ビールでも飲むかってことになり
ました。出発時間が近づくと、お客さんがどんどんやって
きます。中国人がずいぶん増えています。搭乗案内も日本
語、英語、韓国語、中国語と流れます。ようやく飛行機は
飛び立ちました。

明日からシカゴへ

2009-05-28 08:52:30 | Weblog
明日からシカゴへ             2009-05-28

行きます。29日成田を発って、同日シカゴ着。6月7日
シカゴを発って、8日成田に到着予定です。4月2日に
はticketsを手配しましたので、新型インフルエンザ
騒ぎは後から起きました。

一時は、行くことを諦めかけましたが、その時点では、
キャンセル料を2人で10万円も払うことになると聞いて、
キャンセルすることを諦めました。なんとか行くことに
なりそうです。

ここへはどうやって来る?

2009-05-25 05:53:12 | Weblog
ここへはどうやって来る?       2009-05-25

横浜を盛り上げよう、通称横盛りのコミュ開設1周年の
OFFが開催され、私も入って未だわずかな期間ですが、
参加してきました。だから会う人は、初めての人ばかり
と思ってました。ところが、上海ライフコミュのエンエン
さんとばったり。60人ものパーテイだと、こんなことも
起こるんですね。やー、またあっちでもOFFしましょうね
ってことに。

それはさて置き、この会場のレストラン、IVIイヴイって

http://www.ivi-italian.com/

言うんですが、どうやって来るの?って場所に有りました。
地図は、見れば判り易そうに見えます。

http://www.ivi-italian.com/aboutusmap.htm

みなとみらい線「新高島」駅のすぐそばです。ところが、
このみなとみらい線って言うのが、東京の人が横浜に
来るのにはとても便利なんですが、横浜市民には利用
し難いんです。何故か、住宅地を通ってない。私の場合、
どうしても乗りたければ、関内でJRか地下鉄を降りて、
馬車道駅まで歩く、そこから高い運賃を払って2駅乗れ
ば新高島に来る。あるいは横浜まで行って1駅戻るか。
結局、横浜駅から歩きました。

横浜駅から地下道沿いにスカイビルまで行き、そこから
外に出て、国道1号線を桜木町方面へ、すぐ左折して、
とちのき通りを海に向かって歩きました。広いとちのき
通りには、未だバス路線が無く、ただ歩く。初めて来ると
果たしてこの先に、レストランなんか有るのかなと不安
になります。(早くバス通してよ。桜木町~mm21循環
バスが必要。GENTO横浜、ジャックモールとここを繋い
で走れば、便利だ)

多分この店は、私なんかが知らないだけで、お客さんは
いっぱい来るんでしょう。遠くから判るようなサインもあり
ません。店の前に来れば、あ、ここだー、と判るようには
なって居ます。お店のサイトを見れば判るとおり、マリノス
の練習場に隣接しています。ここで、マリノスの練習試合
でも見れたら最高ですね。

今回は、お酒と料理を楽しみましたが、なかなか来れない
ところですね。


昨日、コールサインが届きました。

2009-05-25 03:53:15 | Weblog
昨日、コールサインが届きました。  2009-05-24

平成19年にアマチュア無線の試験に合格して
無線従事者免許と言うのを貰ってありました。
無線機が無かった(買えなかった)ので無線局の免許状が
取得出来ませんでした。最初は、災害時に無線での通信が
出来れば良いから、無線機は無くても良い(磯子区の災害
対策本部に有るのでそれを使う)と思っていました。

ところが、それはそれで良いのですが、訓練の時に使えま
せん。非常時ですと、従事者免許を持って居れば非常通信
を行えますが、訓練は、非常時ではないので、従事者免許
だけでは発信できません。それで、開局の免許も取りました。

無線機も、仕方が無いので、一番安い機械を買いました。
殆ど役に立ちませんが、コールサインさえ貰えれば、それで
良いです。災害対策本部の良い機械で通信訓練します。

安い機械は:144/430/1200 DJ-G7 Handy 機です。

call sign:JG1DIF

Juliet Golf one Delta India Foxtrotです。

Sさん、その後

2009-05-22 15:53:12 | Weblog
Sさん、その後             2009-05-22

Sさんの孤独死が確認されてから3日が経ちました。
確認のため警察が来たので、ドアも窓も開け放たれ
ましたので、死臭が充満しました。私が線香を焚く
のもまずいと思い、さりとて、あの匂いをそのまま放
置も出来ず、インドで買ったお香を焚くことにしました。
断面が1cmくらいの円錐形のお香で、無人の玄関前
に置いておいても、火の危険が無いので安心です。

遺体は、警察が確認した日に搬出したので、我が家
も一安心でした。昨日、Sさんのお兄さん夫婦が来て
部屋を片付けて行きました。今後どうなるのかは、
判りませんが、兎に角一段落しました。

真向かいのSさんが死にました

2009-05-19 05:27:11 | Weblog
真向かいのSさんが死にました      2009-05-19

孤独死でした。我が家が一番に気付かなければならない
状況でした。いや、一番に気付いたのですが、遅すぎまし
た。死後20日ほど経っていました。Sさんは、一人住まい
でしたが、元気に毎日出歩いていました。近所の清掃の
日などにも良く出ていました。

駅前の飲み屋さんでも時々会ってました。お互いが偶然に
会う訳です。会えば「近くに住んでるのに顔見ませんね」と
挨拶したものです。カラオケでは良い声で歌っていました。

彼が介護を受けてるような人であれば我が家でも、もっと
注意深く見守ったと思います。でも彼は元気でした。さらに
彼の不在に(実際は死んでいたのですが)気がついたのは
回覧板がドアノブに下がった状態で数日変化が無かった
時です。でもその時は大型連休の最中だったので、どこか
に出かけていると思っていました。珍しく長期に留守だなと
思っていました。

彼は布団の中でパジャマを着てきちんと寝た状態で死んで
いました。一番近い隣人として、何もしてあげられなかった
事で大変申し訳ないと思っています。ただ、きっと苦しまず
に逝ったのではないかなと、それだけが救いでしょうか。
今は、Sさんのご冥福を祈るばかりです。

あーすフエスタ初日

2009-05-17 04:29:41 | Weblog
あーすフエスタ初日            2009-05-16

とにかく、天気が崩れなかったことが大助かりでした。
雨が降れば、あれだけ並んだ屋台が全滅ですからね。
かく言う私も、実際に自分で食べたのは、ベトナムの
うどん、フォーだけでした。アメリカのドッグも長蛇の列、
肉汁が垂れて、良い匂いのカバブも買えない(ワーク
ショップの合間を縫っての昼飯でしたから)程の人気で
した。

http://www.k-i-a.or.jp/earthfesta/festa2009/festa09paper.pdf

私が、わくわく多文化体験ワークショップの部会員とし
て担当したバリダンス、とても人気が有りました。強大な
イスラム国家インドネシアの無数の島の中にあって、
唯一ヒンドゥー教の島として栄えるバリ。神々の島バリ
に伝えられるバリ舞踊。伝統の音楽ガムランが流れる
と、そこはもう神々との交信の場、バリの風が吹いてく
るようです。そこで踊って下さったのは、湘南を中心に
東京、神奈川でバリダンスの実演と講習をしている
バスンダリ(basundhari、サンスクリット語で大地の女神)
の皆さんと、先生の長谷川 亜美さんです。

http://www.geocities.jp/basundhari2005/

あーすプラザの人工池の真ん中に島状に突き出たアイ
ランドステージの上で、華麗で神秘的な舞踊を見た
30分後に行われたワークショップには、80人(見学者
含む)もの人が参加しました。ワークショップの会場は
プラザ1Fの創作スタジオ。大きな鏡の有る板敷きの
部屋です。鏡の真ん前のスペース、部屋全体の1/3
を、再度踊って貰うためのスペースとし、真ん中の1/3
はヨガ用のゴムマットを敷きワークショップ体験者用とし、
後ろの1/3は見学者用の椅子を並べました。ワーク
ショップ体験者は、靴を脱いでマットに直に座って貰い
ました。踊りの実演がし易いようにです。

こういうワークショップで、体験希望者が40人、見学者
が20人(椅子に座り)、立ち見が20人(出たり入ったり)
と言うのは、熱心な数字です。私は司会者として、バス
ンダリのパンフレットの書いてあるバリダンスのことを
紹介し、亜美先生に引き渡した後は、体験希望者と
一緒に、いろいろやりました。

バリ舞踊の基本的な立ち方、手首の廻し方、指の動か
し方、肩胛骨の動かし方、首の横への倒し方(これは
誰でもできる)、顔を横へ動かす(これは当分、絶対に
出来ない。口で言うと簡単だ。顔を正面に向けたまま、
首は真っ直ぐに立ったまま、顔だけが左右に、ひょいと
動く。水平移動をさせる。今でも出来ません)こと、そし
て歩き方。

バリ舞踊の歩き方の中で、教わった一つは、足が常に、
Vの字のようにそり上がっている。親指の付け根が
Vの字の底になっている。目の動かしかたは、顔を動か
さずに、黒目だけを動かす。美人の亜美先生は、ニコ
ニコと笑みを絶やさずに、優しい口調でこれらのことを
教えてくれるのだが、それを言われた通りやろうとする
と、体が悲鳴をあげてしまう。

そして、気がつくと、見学者として椅子に座って見て
いた人達も、先生の言われた通りにやっている。
「はい、腕を肩の高さまで上げて、肋骨をぎゅ-っと
開いて下さい」「この時肩胛骨は右と左の骨がくっつき
ます」「はいそれを離してください」 全員でそれをやっ
ています。実際に動かしたのは30~35分なのですが、
終わった時はくたくたでした。

そして、最後に、私は「それでは、長谷川 亜美先生と
バスンダリの皆さんと、今日1日(本当は30分程だが)
頑張った参加者の皆様自身のために大きな拍手をして、
終わりたいと思います」と締めて、散会としました。

試験官は僕だ、受験者は君一人だ

2009-05-13 07:37:35 | Weblog
試験官は僕だ、受験者は君一人だ   2009-05-13

先日、或る業界の試験の試験官のバイトをしました。
もうその試験官バイトは3回目で慣れたものです。一応
試験官の心得と注意事項の説明会には出ないと採用
されないので、説明会には出ます。試験官の仕事なんて
1回覚えれば、後は寝ていても判るよってんで、のんびり
説明会に出て、担当者一覧表を見てびっくり。私の教室
の受験者数は1名。通常は50名位です。その場合は、
試験官補佐が付いて、回答用紙と問題の配付と回収は
補佐がやってくれます。

今回、私は補佐無しで、一人対一人。但し受験者は、
全盲の方で、私が問題を読み上げ、受験者の回答を
解答用紙に記入する。との指令でした。試験官の業務
マニュアルも読まなくても判ってる筈が、全く別のマニュ
アルに差し替えられて、真剣に読みました。

但し試験を実施する方も、まだこういう事態に慣れてなく
てマニュアルもおかしなものでした。例えば、『試験の
開始時刻となりました。問題用紙を開き、問1と2を始め
て下さい。但し、試験官が指示するまで、問3以降を見て
はいけません。』となっています。受験者は全盲なのに。
実際には、私も試験問題を見るのは、今回が初めてです。

上のセリフを言った直後に、自分で問1を読み、受験者の
回答を聞き、解答用紙に黒塗りマーキングをするのです。
誰でもそうですが、試験問題を(目が見えて)読んで考える
のと、目を閉じて、誰かが読んでくれるのを聞いて考える
のでは、全く判断力が違ってきます。私は設問を2回ゆっく
り読んであげましたが、受験者は、たいてい、もう一度
お願いします、と言いました。私は、「判らなかったら、何度
でも読みますから、言って下さいね」と受験者に、事前に
言っておきました。

なにせ1対1です。この人が落ちれば自分の責任になる、
と思ってしまいます。だから、是非受かって欲しい。読み上
げる問題の中には、私にも正解が判る問題もある。その
答えが間違ってると、間違った答えをマーキングするのは
辛いです。

試験は某大学の校舎を借りて行います。私が受け持った
部屋も普段は大学生が、60-70名ほど入れる教室です。
その中に、受験者一人、試験官の私が一人。業界の協会
の人が一人立ち会い、時間はゆっくりと、しかし確実に流れ
て行きます。60問の問題を読み上げ、試験が終わった時に
は、私の喉と体はくたくたになっていました。時給upしてくれ。


SARSの時を思い出す

2009-05-05 10:13:45 | Weblog
SARSの時を思い出す           2009-05-05

昨今、新聞TVは新型インフルエンザの話題で持ちきり
です。日本の場合は、一つ大ニュースが報じられると、
どのTV放送会社も、新聞各社も似たり寄ったりのニュ
ースを流しますので、日本中どこへ行ってもその話題
が日常会話の中心になります。

今、シカゴに住んでいる娘に聞くと、アメリカでは、そんな
大ニュースにはなっていないとのことです。これを聞いて
私は、6年前に同じように話題になったSARSのことを
思い出しました。

あれは中国が発生源でした。香港とか、広東省と言う
中国の最南部から発生し、北京で猛威をふるいました。
その頃、私は北京の隣(海側へ120kmの)天津に住んで
仕事をしていました。

中国政府は当初SARSの発生を公表しない政策を採っ
ていたために(これが中国の通常の姿なんですが)世界
中の不興を買い、発表そのものへの不信感があるところ
へ持ってきて、WHOの査察が有って以降、罹患者と死
者の数が、連日急上昇し、パニックに陥りました。

私は、中国人と中国が好きですので(中国共産党と政府
を好きではありません)、どうしても中国人の味方をして
しまうんですが、北京で240人ほどがSARSで死んだと
言うことが、あれほど世界にパニックを引き起こしたこと
が、中国人に取っても初めてのことで驚きであったことは
事実なのです。

結核で、10万人以上が死ぬ国なんですよ。交通事故で
も、多くの人が死ぬ国なんです。(この点、日本も同じ
ですがね) 当時、私が日本の友人に、「14億人も居る
んだから、240人位、何かの理由で死ぬだろう」って言い
ましたら、誰も理解してくれませんでした。

あの時、総人口1000万人の天津で一人SARSで死に
ました。それこそ1000万人もいれば一人くらいSARSで
死ぬだろうです。天津もその頃には非常事態になって
いて、会社は、お互いに他社を訪問しない。出張は禁止
になりました。私も移動禁止で、天津に閉じ籠もっていま
した。一度だけ、どうしても大事な理由で広東省に出張
しましたが、なにやら気持ち悪かったです。

日本では、火事と交通事故と殺人事件で連日人は死ん
でいますが、今日現在、新型インフルエンザには一人も
なっていません。これから、罹患者が現れるのでしょうか。
死者数は、交通事故の死者を上回るのでしょうか。