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自分の身の回りで起こったことの記録であったり、横浜での生活日記であったり・・・です。

河西回廊5泊6日の旅ー3-莫高窟

2005-10-10 10:07:24 | Weblog
天津173             5009

河西回廊5泊6日の旅ー3-莫高窟

敦煌と言えば、莫高窟です。
http://www.actv.ne.jp/~yappi/tanosii-sekaisi/07_china/07-14_bakkoukutu.html
http://www.jsdj.com/luyou/lyzy/gmegaoku.htm
市の南東約25km、鳴砂山の東端の崖に洞窟を掘り、
中央に仏像を配し、周囲の壁面に仏画が描かれて
いる。そこまでしてないただの穴も含めると、洞窟
が735ほど発見され、研究され、公開されている
ものが63とか。この数字はガイドブック記載の数字
よりも増えています。特に優れた窟は、一般入場料
のほかに、特別料金(最高はNo.465窟の500元)が
必要。

どの窟を見ることが出来るのかは、着いてくれた
ガイド(文化財の研究員)さんの思惑一つで決まり
ます。窟内は、撮影禁止です。仏像仏画を見るには、
多数販売されている画集を見て頂くのが一番。

私が感銘を受けたのは、西暦420年頃から1000年以上
にも渡って営々と引き継がれたこと。その間に王朝は
10にも及び、チベット系、モンゴルと人種が代わった
ことも有ったのに継続されたことです。幸いだった
ことは、イスラム人種による、小規模の破壊(顔部分
の剥離がところどころ見られる)は有ったが、バーミ
ヤン遺跡のような大規模破壊を受けなかったこと。
あの愚かな文化大革命の際にも、破壊を免れたこと
です。残念なことは、明の時代に、かなり大規模な、
そして低い技術による修復がなされたことでしょうか。

そして、疑問は、誰が何のためにこんな手間暇のかかる
作業をさせたのかと言うことです。研究員さんの説明を
聞いて、私が理解したところでは、この地方でこの時代、
功なり名をとげた者が、これをさせたようです。実際の
作業は、技のある仏師なり絵師が行った訳ですが、
それを命じた、或いは発注したのは、この地方を治めた
役人であったり、有名な寺の高僧であった。寄進者と
して、洞窟内に姿を描かれ、名前を書かれた場合もある
ので、判ります。親孝行して、父の名で寄進したケース
も推測されます。

従って、仏師や絵師には相当の対価が支払われ、家僕も
従え、日常の雑事は任せていたようです。特に、この後
に出てくる楡林窟の場合、当時の交通手段では、食材の
買出しも、日帰りが難しいような場所です。何のため
だったのでしょうか?極楽浄土へ行くための功徳と考え
られていたようです。

莫高窟の岩は、大粒の砂粒からなる砂岩です。像は
表面に粘土を塗り,彩色を施し、壁面の絵も同様です。
長い年月には、大地震も有って、崩れ落ちたりした窟も
かなり有りました。また日本も含めた列強が、自国へ
持ち去った(壁面を剥がして)箇所も有ります。